キビートを見に自治会イベントへ行く
先日の橋本くん以外にも、まめに公演案内を知らせてくれる友人の一人がキビートだ。
彼は大学時代の同級生で、現在は大道芸人、今風に言えばパフォーマーを仕事にしている。
現在は、豊来家幸輝という名前で、日本の伝統芸である太神楽の芸人としても活躍しているらしい。
大阪を中心にいろんなところで仕事をしているみたいだけれど、今日、私の実家の近くに来るというので見に行った。
調べてみると、隣の市だけど車で十分ほどの距離。
それなら母がデイサービスに行っている間に行って戻れる。
イベントは自治会の秋祭りの余興として、公民館のようなところで開かれていた。
自分が住んでいない地域の自治会イベントを見に行くことなんて普通ないので、貴重な体験。
キビートの芸は今まで何度か見させてもらっているが、見るごとにグングン腕が上がる。
正直、最初は知り合いだから失敗しやしないかとハラハラして見ていたこともあったけれど、最近は安心して楽しめる。
同じ舞台に立つ仕事でも、ミュージシャンや役者さんと決定的に違うのは、鍛錬を重ねた結果としての技そのものを見せることだ。
すごいスキルがあったとしても、アーティストならそのスキルからどう表現するかが重要なのだが、大道芸人は技そのもので見る人を圧倒してしまう。
そんな職業って、ほかにはないと思う。
どんな凄腕の職人さんでも、技そのものを人に見せたりしない。
技から生み出される「モノ」を評価されるものだからだ。
大道芸人は技そのものが商売道具なのだから、これは何のごまかしもきかない。
すごいことだと思う。
公民館に集まった人たちは、目の前で披露される「普通の人ができないこと」に、素直にビックリしたり感心したりしていた。
これまで見てきた会場より、反応がとても温かい。
自治会の集まりだけあって、お客さん同士が知り合いだという場の空気が大きい気がした。
ちょっとお酒も入っているのか、お父さんたちが大きな声で「おおー」とどよめいている。
前列に並んだ小学生たちがゲラゲラと笑い転げる。
バカ受けしている子供を見ているだけで、こちら側も楽しくなった。
舞台と客席の境がほとんどないので、観客参加型、というより観客一体化でステージは進む。
キビートが得意のバルーンアートでウッドペッカーの帽子を作り、
「これが何かわかる人!」
と尋ねると、子供たちから一斉に手が挙がる。
「じゃ、赤い服のボク!」
「ゾルド!!」
「ゾ、ゾルド? …違います」
ウッドペッカーはUSJが好きな人以外は馴染み薄いかもなー、と思いながら、自信満々でゾルドと答えた少年の勇気に拍手。
てか、ゾルドってなんだよ。
イベントにはキビート以外にも、マジシャンの方が出演されていた。
残念だったのが、ウッドペッカーを正解した小学生をキビートがさんざん舞台に上げていじったあと、マジシャンさんが再び同じ女の子を指名してしまったこと。
キビートのステージを、楽屋にいたマジシャンさんは見ていない。
それで起きた悲劇である。
「マジックの手伝いをしてくれる人!」
と声をかけると、子供たちはみんな「ハイ! ハイ!」と再び元気よく手を挙げた。
その子はズバ抜けてアピール度が高かったんだと思う。
「はい、じゃそこの女の子!」
だから二回も指名されてしまった。
ほかの小学生たちが、ザワザワと微妙な空気になった。
「あの子、さっきも当たってバルーンもらったのに…」
明らかに不満げな女子グループ。
当たった女の子を見る視線が妬みに満ちていた。
なんとなく変な空気になったことは、マジシャンさんも気づいたと思う。
お気の毒に、理由がわかるはずもない。
幸いお手伝いタイムは短かったので、嫉妬の空気もすぐに流れて行った。
温かい客席に、一時だけ訪れた負の感情の渦。
知っている者同士だから生まれる、ほっこりした温かさとジメっとした湿度。
そういうのも含めて、
「地元の集まりってこういうのだったよな」
と再発見。
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大学時代のキビートとの思い出といえば、私が企画して、大槻ケンヂ‘先生’の小説『くるぐる使い』を舞台で上演したことだ。
学内の、お金も取らない小さな公演だったけれど、一応出版社を通して許可を取った。
そのことで頂いたオーケンさんからのお手紙は、私の一生の宝物である。
キビートには主人公の波野を演じてもらった。
波野はサーカスの大道芸人なので、劇中に手品をしてもらう演出を入れたのを覚えている。
まさか、彼が将来、本物の大道芸人になってしまうなんてびっくりだ。
そのときの演出家は、今では文学博士になって三重の大学で源氏物語を教えている。
美那役は今でも関西の小劇場で女優さんをしている。
ロビ男役は社労士になって、自分の事務所を構えた。
大学時代の話をすると、キビートが、
「懐かしいなぁ」
と言ったけれど、私は全然そう思えなかった。
進んでいる人には過去は遠い。
止まっている人には過去はすぐそばだ。
私だけが何者にもなれずに漂っている。