『台所太平記』から忠臣蔵を考える
いつか読もうと思ってもなかなか読めない本が多いので、今年から読書のテーマを決めた。
記念すべき1年目の今年、2016年は「谷崎潤一郎を読む」だ。
以前同じ部署で隣の席だった同僚の男性にそんな話をすると、
「『台所太平記』は読みましたか?」
と言う。
「いいえ、面白いんですか?」
と尋ねると、
「読んだことないから知らんのんですけど、僕のおばあちゃんが出てくるらしいんですわ」
と言うではないか。
そりゃすごい。
なんと、彼の祖母は谷崎潤一郎宅でお手伝いさんをしていたらしい。
せっかくなので『台所太平記』も今年の読書リストに加え、先日読み終えたばかりだ。
- 作者: 谷崎潤一郎
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1974/04/10
- メディア: 文庫
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『台所太平記』は、磊吉という文豪(もちろん谷崎本人がモデル)の家が舞台で、そこに務めている女中さんたちを描いた作品。
入れ替わり立ち替わり、何人もの女中さんが登場するが、みんな個性豊かで、それぞれにエピソードがある。
残念ながらどの女性が同僚のおばあちゃんかわからなかったけれど、大変面白く読めた作品だった。
会社の廊下で同僚に会ったとき、
「読みましたよ~。貸しましょうか?」
と声をかけたけれど、
「あっそう。またいつかね」
と興味なさげだった。
何よ、自分のおばあちゃんが出てるなら読めばいいのに!
そんなふうに思っていた今日この頃、年の瀬に入り、テレビ(特に民放のBS局)で忠臣蔵とその関連番組をよく目にするようになった。
忠臣蔵はストーリーこそ知っているものの、長丁場ゆえに全部通して作品を見たことがない。
ハリウッドで映画になった『47Ronin』も見ていない。
実は何を隠そう、うちの母方の祖母は赤穂浪士の子孫なのだった。
おばあちゃんの実家は奥田といい、奥田孫太夫という赤穂浪士の家系らしい。
女系だけど、私だって赤穂浪士の末裔なわけだ。
赤穂浪士は有名でも、47人もいる。
センターの大石内蔵助以外は十把ひとからげだ。
AKBだって48人もいれば数人しか知らないのと似たようなもの。
奥田?誰それ、ってかんじで、いまだに孫太夫を知っているという人に出会ったことがない。
いくら無名でも自分のルーツのひとつなんだから、知っておいてもよさそうなものだが、なんとなく興味がわかない。
これじゃ、同僚のことは言えやしないな。
なぜ、忠臣蔵をちゃんと見ようと思えないのか。
まず、話が長い。
次に、毎年年末にやるだろうからいつか見るだろうと思ってしまう。
そして、ストーリーが好きじゃない。
最後の理由が決定的かもしれない。
忠臣蔵の良さは「侍の忠義の心」だそうだ。
そうか。
そもそもそこが好きになれないのだ。
だいたい、赤穂の殿様は殿中で刀を抜くほどのバカだったわけだ。
どんな理由があろうとも、一国の主が感情に任せてルールを破り、家臣もろとも路頭に迷わせるなんて、ちょっとどうかと思う。
バカ殿に忠義を立てて、命も顧みない浪士の話がなぜ美談なのかが理解できない。
「汚名を晴らす」のがポイントなのはわかっているけれど、過大評価されすぎな気がする。
主君に忠誠を尽くす。
それが侍。
けど、そういう侍魂がとっても嫌だ。
映画『十三人の刺客』(監督:三池崇史)は極悪非道なお殿様を暗殺する話で、こっちのほうがずっと好感が持てる。
最後のほうで、刺客のトップである役所広司と、家臣団トップの市村正親が対峙するシーンがある。
自分の正義を貫く役所広司と、侍の本分を貫く市村正親の悲しい戦い。
かつての旧友が殺しあう、複雑な思いに胸がせつなくなる。
侍たちは、こんなことに疑問を持っただろうか。
主君が暴君だったり暗君だったりした場合はどうすればいいのか?
間違った方向に進もうとしている主について行っていいのか?
悪事を行っている主君を手助けするべきなのか?
「主君に忠誠を尽くす」のは果たして、すべてが美しいことなのか?
英会話を習っていたとき、あるアメリカ人講師は映画『ラストサムライ』が大好きだった。
サムライはクールだとも言っていた。
なのに、反面、日本のサラリーマンに対して、
「命令に忠実に動くだけで、まるでロボットだ」
と批判した。
アメリカ人の眼からすれば、サムライとロボットは何も結びつかないだろう。
けれど、日本人の私からすると、どっちも似たようなものなのになぁ、と思わずにいられなかった。
キーワードは「滅私奉公」だ。
自分の自我を抑えて、主人のために働く。
サムライとロボット。クールジャパンの両翼を担うそれら二つ。
日本人の本質はそこにあるような気がする。
日本人は滅私奉公で戦争を戦い、滅私奉公で国を発展させてきた。
けれど、滅私奉公で個人が幸福になるとは思えない。
冒頭に書いた『台所太平記』では、住み込みで奉公する「女中」が時代とともに移り変わり、だんだんと付き合いも希薄な「お手伝いさん」に変わっていく。
最初に来てくれた女中さんの「初」は長く勤め、忠義に厚い人だったけれど、時代が変わった最後のほうでは、長く勤めてくれる娘さんはいなくなり、半年から1年程度でやめていく、という話になる。
谷崎は昔は良かった的な回想にしているけれども、それは女中を雇う「主」の視点だからだ。
私は貧乏人なのでどうしても「使われる側」の「従」の視点で読んでしまうので、「女中」時代よりも「お手伝いさん」になった今の時代のほうがマシだと思ってしまう。
そりゃ、金持ちからすれば、時間で契約されたお手伝いさんより、奉公という身分で仕えてくれる女中さんのほうが勝手がいいはずだ。
忠義を美談にしたいのは、主側の価値観なのではないか。
愛犬家には忠犬ハチ公の話は美談だろう。
けれど、私がもし犬だったら、あんな話、ゾッとする。