3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住むアラフォーOL、波野なみ松の、仕事と趣味と母の介護を両立させる日々の記録。

柿喰う客『虚仮威』とウエディングドレス

友達に誘われて、柿喰う客という劇団の『虚仮威』という公演を観に行った。
3人で行くと「なかよし割引」が適応されるというので、共通の友達と3人で観に行くことになったのだ。
私はこの柿喰う客という劇団を全然知らなかったのだけど、今、人気急上昇中の劇団らしい。

柿喰う客
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劇場は梅田グランフロントにあるナレッジシアターで、私はこの劇場はおろか、グランフロントに来るのも初めてだった。
スタイリッシュで都会的すぎるロケーション。
でも、それに負けず劣らず、柿食う客はひどく都会的な劇団だった。
舞台美術、衣装、ヘアメイク、物販のデザインに至るまで、なるほど、売れる劇団というのはこういうものか、と納得させられる。

そう書くと見た目ばかりで中身がないようだが、どうしてどうして、役者さんはうまいし、演出は面白いし、今後もっともっと押しも押されぬ人気劇団になるだろうなぁと予感させられた。

目を見張ったのは役者さんのキレッキレの動きである。
全員の身体が、ダンサーかと思うほどに‘できあがって’いる。

つまり、「キビキビ動けて、クネクネ軟らかい」。
字ヅラで見るとバカみたいだけど、舞台上でこういうふうに動けるのは並大抵のことじゃない。
しかも全員だ。

人気が出る劇団はたいてい、天才的な劇作家・演出家がいるか、突出したスター役者がいるか、その複合かで、才能ある一人や二人の引力で世に出ることが多い。
もちろん、作・演出の中屋敷法仁氏もさすがだし、主役をやっていた玉置玲央という役者さんは、これからきっとテレビや映画でも大活躍するんだろうなぁと思わせるスター性がある。
(いつも思うのは、20年前、惑星ピスタチオ佐々木蔵之介がこんなに売れると誰が予想できただろうか、ということ。)

でも、それ以上に、役者が全員粒ぞろいというのが珍しい。
役者全員の身体的ポテンシャルで魅せる劇団は他にないんじゃないだろうか。

戯曲がどうこう、演出がどうこう、という以前に、とにかく役者さんの躍動感にやられてしまったのだった。


********【注意:ここからネタバレ含みます】


終わったあと、隣に座っていた友達Mはえらく不機嫌だった。
どうやら、彼女はこの作品が気に入らなかったようだ。

せっかくだからちょっとお茶でもしよう、と3人で駅ナカのカフェに寄り、コーヒーで乾杯してから、
「何がダメだったの?」
と率直に感想を求めた。

彼女はいかにも辛そうに胸を押さえてから、
「これは主義主張の問題なんだけど」
と前置きをして言った。
「ウエディングドレスがね…。ウエディングドレスはないやろう、と」

世界征服を望んできた主人公が、物語の終盤、心の奥底で本当に欲しかったものが判明する。
それが、ウエディングドレスだった。
実は彼は、男として育ってきた女の子だった、という大どんでん返し。

女の子が欲しいもの=ウエディングドレス。

「男の発想というか…、無意識の女性蔑視よね」

彼女の告発に、我々二人も、
「そうだそうだ!」
と、彼女の溜め息に賛同した。
突如、大阪駅のDELICAFEは平日の夜に集まったアラフォー未婚女子の、女性蔑視作品に対する批評大会になった。

私も部分的に引っかかりを感じながらも、役者さんの躍動感に感心してしまって、お話については意識的に蓋をしてしまっていたのを、彼女が箱を開けてしまった。
もう一人の友人Kも。

そう。
実はこの作品は、女性差別を扱ったストーリーなのだ。

時は大正、東北のとある田舎。
男子誕生を望む父親は、生まれてきた長女を男として育てる。
その時代、その場所で当然ある女性差別

まあ、それは仕方ない。

実を言えば、私が産まれたときも、うちの父は母に向かって、
「なんや女か!」
とあからさまに失望したという。
母は、
「男の子じゃなくてごめんなさい」
と謝ったそうだ。
私は「ごめん」な子供。
昭和でさえ、そんな女性差別がまかりとおる時代だった。
大正時代なら、なおさら仕方なかろう。

まあ、それは仕方ない。

主人公がどんなに男になろうとして抑圧しても、女としてのサガが出る。
美しいものに憧れる。
それも、まあ、わかる。

だから、
「美しいドレスが欲しい」
という展開はよしとしよう。

まあ、わかるわかる。

私の友達でも、母親からボーイッシュを押し付けられて育ったトラウマから、本当はヒラヒラの可愛らしい服が着たいという自分の好みを抑圧してきた人がいた。
もしくは、ブスな自分にはキレイなもの、可愛らしいものは似合わない、と頑なにピンク色を避ける人がいた。
本当は可愛いもの、キレイなものが大好きなのに。

だから、世界征服より美しいドレスが欲しい、という願いはよくわかる。
あるあるだと思う。

でも。
ドレスが「ウエディングドレス」になると、意味が少し違ってくる。
そして、「ウエディングドレスを着ること=お嫁さんになる」となると、さらに飛躍し、異なる次元へ飛んでいく。

「お嫁さんになりたい、っていうのは、『人を愛し愛されたい』という願いとも違うわけよ」
と、彼女は言った。
「そのとおり!」
快哉を叫ぶ残り二人。

なぜ主人公が「お嫁さんになりたい」と思うのか3人で物語を反芻して考えたけれど、そういう伏線もなく、理由がさっぱり見つからなかった。
そうなると、
「女性というものは、総じて結婚願望を持つものだよね」
という、作者の無意識の蔑視を感じてしまうのも仕方がない。

悪いけど、私も「ウエディングドレスを着てみたい」と思ったことは1度もない。
キレイなドレスを着たり、コスプレはしてみたいけど、意味のある「ウエディングドレス」は願い下げだ。

そういう話をすると、ときどき、
「世の中に結婚したくない女がいるなんて!」
と驚かれることがある。
世の中、まだまだ大正時代の東北の農村と変わらないのだ。

苦労している母を見て育ったせいで、私は子供の頃からお伽噺のプリンセスにも懐疑的だった。
「王子様が現れていきなり結婚しても、その後の生活はどうなるの? 性格が合わなかったら? 姑にいびられたら? 王子が浮気したら? なんで結婚したら幸せになれるって言い切れるの?」
そんなことを言う、嫌な子供だった。

だから、「結婚=女の幸せ」だと思っている女性は、私からすればうらやましい。
疑いもなくそう思えるってことは、幸せな家庭で幸せな母親を見て育った証だから。

この作品でも、主人公が母親を見て、
「あんな結婚生活を送りたい」
と思う根拠が提示されていれば、ちょっとは説得力があったかもしれないが、作品の中で母親の影は薄かった。
「お嫁さんになりたい」
と思う主人公に、その気持ちの伏線くらいはほしかった。

蛇足だけれど、主人公が意味もなくウエディングドレスを望んだらなぜおかしいのか、わからない人のために別のもので例えよう。
主人公が本当に望んだものが、ナース服だったとする。
伏線も何もなければ、「なんで?」とならないか?
「女として生まれたからには、看護師になりたいと思わずにいられない」
と言われたら、キョトンとなるに違いない。
それと同じで、女だからといって、理由もなく「お嫁さんになりたい」とは思わないはずなのだ。

なりたい人もいる。
なりたくない人もいる。
なりたい人の背景を提示してくれないと、
「なんで?」
ってなるのは当然じゃないか?

物語の中に背景がない以上、戯曲のバックボーンとして考えられる唯一のことは、
「女は結婚しないと幸せじゃない。女は結婚すべきだ」
という作者の女性蔑視にほかならない。

「ウエディングドレスまでは面白く見てたのに…」
「まったく、言うとおりやわ!」

3人の意見は一致し、共感しあって夜の梅田をあとにした。

ただ、帰りの電車の中でふと、友人Kが言った、
「今までそういう指摘はなかったんやろうか。誰も言ってやらんかったかな」
という疑問がふとリフレインし、だんだん気になってきた。

この作品は昨年12月から三重や仙台をまわって、大阪でファイナルを迎える。
これまで私たちのようにウエディングドレス問題を気にした人はいなかったんだろうか。

私が嫌な気持ちになるのは、世代が若くなるにつれ、結婚願望が強くなっているという世の中の風潮である。
アラフォーの私たちと、アラサー以下の人たちの考え方はずいぶん違うように感じる。

いや、いいんだよ、したいと思うことはいいことだ。したい人はしたらいい。
ただ、したくない人が異端視されたり、しないといけないように押し付ける世の中にだけはなってくれるな。
と、強く思う。

よその国のことだけど、多様性を認めてきた大統領から、女性蔑視を平然と口にする大統領に代わった。
日本もだんだん、多様性を認める寛容性が失われてきていないか、なんだか不安になる。


【追記】
「実は女だった」設定について、思い出すのは松尾スズキ作・演出『ニンゲン御破産』である。
当時五代目中村勘九郎だった勘三郎が主演。
シアターコクーンまで見に行けなかった私はNHKの放送で見たんだけど、「中村勘九郎ってなんて懐の深い役者なんだろう!」と感激した。
私には大傑作なんだけど、戯曲も絶版になっているし、勘三郎が亡くなった時にすら話題にもならなかった。
今の勘九郎で再演とかどうかなぁ?

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