3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

『沈黙―サイレンス―』ほど怖い映画を見たことがない。

これまで見た最も怖い映画は、ラース・フォン・トリアー監督の『アンチ・クライスト』だった。

元町映画館に一人で見に行って、山奥でゆっくりと狂っていくシャルロット・ゲンズブールが震えあがるほど怖かった。

 

しかし、先週、『沈黙―サイレンス―』を見にいって、記録更新。

『沈黙―サイレンス―』ほど怖い映画を私は見たことがない。

 

実は、どの映画を見るか迷った。

もう一つの候補は、ホラー映画の『ドント・ブリーズ』だった。

「メチャクチャ怖かったらヤダし、やめとこ」

と思って却下した経緯があったのだが、まさか『沈黙―サイレンス―』のほうがよほど怖かったとは!

chinmoku.jp 

 

言わずもがなだが、決して『沈黙―サイレンス―』はホラー映画ではない。

ホラーじゃないからこそ、心の底から恐ろしかったのだ。

 

今回は彼氏と一緒に見たのだけど、何も知らずについてきた彼氏は悲惨である。

何しろ、タイトルとマーティン・スコセッシ監督作品であること、そして「日本にやってきたキリスト教宣教師の話」という情報しか与えられてなかったのだ。

 

映画館に着いてから、

「あれ? スティーブン・セガール出てないの?」

と彼氏が言った。

「沈黙」と聞いて、すっかりセガールだと思い込んでいたらしいのだ。

キリスト教宣教師セガールが日本にやってきて、合気道に出会い、学び、強くなって、悪い役人や浪人と戦い、農民を救う。

確かに、そんな話もアリかもしれない。

 

…そんなお気楽な、能天気映画であってほしかった。

 

私たちが見た『沈黙―サイレンス―』では、宣教師は強くないし、農民は救われない。

苦しみの中に生きて、苦しみの中に死んでいく。

果たしてそこに、神の御加護はあるのか。

肉体の苦しみに耐えた彼らに、魂の救いはあったのか。

 

考えれば考えるほど、暗い沼に沈んでいくような気分になる。

怖い。

映画を見ながらずっと怯えていた。

 

映画監督でもある塚本晋也が出演しているというのが、私がこの映画を見ようと思った決め手だった。

『鉄男』も『六月の蛇』も大好きな映画だし、『シン・ゴジラ』の出演も良かったからだ。

けれど、お目当ての塚本晋也が最も怖かった。

磔にされて、荒波に打ちすえられる姿を思い出す度、夢にうなされそうになる。

瀕死の中で歌われる讃美歌が耳から離れない。

トラウマになってしまって、今後、塚本晋也がどんな面白おかしい役をやったとしても、このモキチ役が思い出されるだろう。

それくらい、強烈な印象を残す役だった。

 

宗教とは何か。

信教とは何か。

自分は拷問を受けたときどうするのか。

自分は死の苦しみをどう受け止めるのか。

肉体の苦痛を精神は超えられるのか…。

いろんなことが重くのしかかって、本当につらかった。

 

彼氏にも、

「これは木曜日の夜に見る映画ちゃうよな~」

と言われてしまった。

セガールとのギャップがあるからなおさら…)

 

私には、拷問を受けながらも棄教せずに死んでいく人々が怖かった。

とにかく、肉体の苦痛よりも信念を通す人々が恐ろしかった。

崇高?

気高さ?

神を信じて殉教することが、本当に正しいことなんだろうか。

それがわからない。

わからないからこそ怖い。

 

それに対して、窪塚洋介が演じるキチジローは簡単に踏み絵を踏む。

愚劣で、浅ましい本性を持った、みすぼらしい人間。

だからこそ、キチジローを見ていると唯一ホッとした。

 

キチジローの家族は、キリシタン弾圧で捕まったが棄教せず、生きながら焼き殺された。

助かったのは、踏み絵をしたキチジローだけだ。

モキチたちが捕まった際も、キチジローだけがマリア様に唾を吐いた。

長崎でも、ほかの囚人の前で彼だけがやすやすと踏み絵をして逃げて行った

 

途中まで私は、

「家族を殺されたことで、キチジローはキリスト教を恨んでいるんじゃないだろうか」

と考えていた。

キリスト教への復讐のために、信者を装い、

「こんなダメな人間でも、主は本当に救ってくれるんですか?」

とわざと疑問を投げかけているんじゃないかと思っていた。

 

けれど、主人公のロドリゴが棄教したあとも会いに来て告解をしたり、密かに小さなキリストの肖像を隠し持っていたり、キチジローの態度はブレブレだ。

いったいお前は何なんだよ!

ロドリゴ神父もそう思っただろう。

 

でも、そこがいい。

ブレまくっているキチジローを見るとホッとする。

神様を平気で裏切るくせに、都合のいいときだけすがろうとする。

本当は善人になりたいんです、こんな自分を許してください、と、その瞬間だけは本気で思っている。でも、できなくて安きに流れる。

 

あれが普通の人間の姿だと思う。

 

踏み絵をさせるときの、役人たちの言い回しも滑稽だった。

「ちょっとでいい。軽くでいい。かすめるだけでもいいぞ」

と、優しく勧めてくれる。

残酷な拷問をやってくるせに、何そのツンデレぶり!

 

「ただの絵ではないか」

と、お役人。

そうだ。絵なのだ。

五島でロザリオの珠や手作りの十字架を村人に分け与えるロドリゴ神父が、偶像崇拝について心配するシーンが出てくる。

踏み絵だって、キリストの形をしたレリーフであって、神そのものじゃない。

だから踏めばいいじゃないの、と現代の私は思いつつ、

「踏みなさい!踏めば楽になるんだから!お願い、助かって!」

と心の中でスクリーンに呼び掛けていた。

 

神はどこにいるのか。

人々の苦しみの叫びに対して、沈黙し続ける神は、どこに?

 

映画館を出たあとも、

「怖いよー、怖くて寝られへんかもしれへん」

と怯えている私に、

「しょせん映画なんやから」

と彼氏が言った。

 

「違うって!キリシタンの弾圧ってホントにあったことなんやから!」

と私がムキになると、

「昔の日本人があんなに英語しゃべれたん? ポルトガル人やのに英語しゃべってたで」

と彼氏がサラリと言った。

イッセー尾形の井上様は英語ペラペラすぎだ!

「ほんまや! しゃべれるわけないわ!」

 

言葉の揚げ足取りはさておき、実際のポルトガル 宣教師たちは映画以上に日本人との意思疎通に苦労したに違いない。

江戸時代の村人があんなに外国語がしゃべれるわけがなく、宣教師たちにとってコミュニケーションが取れない異国の地はさぞ心細かったことだろう。

映画以上の困難が予想されて、余計に暗い気持ちになった。

 

映画のいいところは、とっても作り物なところだ。

だからホラー映画だって楽しめる。

ゾンビは人間じゃないから、頭をふっ飛ばしても平気で見ていられる。

死霊のはらわた』もそう。『悪魔のいけにえ』もそう。

ありえないから楽しめる。フィクションは大好きだ。

でも、本当にあった(という可能性がある)歴史の話は耐えられない。

だから戦争映画はつらくて見ていられない。

 

映画、作り事。ひとまずそう思ってキリシタン弾圧を忘れよう。

そうして日常に戻らないと、明日の仕事に響く。

彼氏が、

「ああ、今週まだ一日あるなんて。会社行きたないなぁ。明日は会議地獄や」

とつぶやいた。

 

キリシタンの地獄に比べたら、会社員の苦しみなんか何でもない。

幸い、私たちは神にすがらなければ生きていけないほどじゃない。

宗教を持たず、何も考えなくても生きていけるのは、とっても幸せなこと。

いつの日か、「神様助けてください!」と叫ぶ時が来ないことを祈ろう。

あ、祈る対象は、やっぱり神様なのかしら。