オカルトビリーバーじゃないけど信じちゃってること。
オカルトには肯定派(ビリーバー)と否定派がいる。
信じちゃってる人と、嘘だと言い切っている人だ。
その中間に、懐疑派とか中立派と呼ばれる人もいるのだけど、私は中立派である。
完全に信じるのは危ない。
かといって、絶対にないと頭から否定するのも味気ない。
もしあったらすごいなぁ、もし本当なら怖いなぁ、なんて考えたり空想するのがオカルトの楽しみ方だ。(これは大槻ケンヂの受け売りかもしれないけどね。)
英会話で宗教の話題になったとき、私が半分信じている、という言い方をしたら注意された。
君はBelieveという単語の使い方を間違っている、BelieveにHalfとかSometimesなんてないんだ、と。
確かにそうかもしれないけど、気まぐれに信じたり信じなかったり、ちょっと疑ってみたりするのは、バランスのよい生き方じゃないかと思うのだ。
世の中の事象のほとんどは、一部は間違っているけど一部は正しい、真実に見えるものも人によってはちょっと異なる部分がある、というのがより真理に近いんじゃないか。
だから、できるだけ両極端に振れたくない。
ブレーキもアクセルもアソビが大事。
実は日本人の多くがそんな曖昧さを持っていて、それが良いように作用してるんじゃないかと私は思っている。
基本的にそのような、「半分信じる」のが私のスタンスなんだけれど、ふとした瞬間、
「あ~、ヤバい、私完全に信じちゃってるわ~」
と感じる瞬間がある。
私がついつい信じてしまうもの。
それは、輪廻転生、リインカーネーションの概念だ。
もちろん、「私は織田信長の生まれ変わりです」という人や、「あなたの前世はイギリス貴族です」なんていう占いは信じない。
けれど、死んだ魂がすっかり消えてなくなる、とは思えないのだ。
死んだらどうなるのか。
わからないから死は怖い。
でも、死んでもまた生まれ変われるのだと思ったら、ちょっとだけ恐怖から逃れられる。
それに、愛する人を亡くしたときに、もう金輪際会えないと思うより、来世でまた会えると思えば少しは気がラクだ。
今は母の命がそう長くないという気持ちもあって、心の防衛本能がそう信じさせているのもあるかもしれない。
もしくは、単にリインカーネーションがドラマチックだから好きなだけかもしれない。
子供の頃に読んだ里中満智子の少女漫画『海のオーロラ』にけっこう影響受けていたりして。
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何という本だったかもう忘れてしまったけれど、生まれ変わるときには一緒のタイミングで生きる「魂のグループ」というようなものがあって、家族になったり恋人になったり友達になったりするそうだ。(何ていう本だったか調べようと「魂のグループ」で検索したら、アホ検索エンジンは「グループ魂」ばかり出してくる!)
生まれ変わっても恋人、なんていう甘い話ではなく、あるときは親子だったり、あるときはペットだったり、あるときは同性の親友だったりするらしい。
それで、関係が深い人だったり、仲が良かったり、惹かれあう人というのが実は決まっている、というスピリチュアルな話。
胡散臭いなぁ、と思う反面、この魂のグループというのはアリかもなぁ、とも思ってしまう。
偶然が重なって知り合ったり、普通だと出会わないところで出会ったりしてしまうと、縁を感じずにはいられないからだ。
東京在住の知人と偶然旅行先の広島ですれ違った。
大学の後輩と台北でバッタリ会った。
新宿のライブハウスで後ろに並んでいた人が神戸からやってきた人で共通の知り合いがいた。
出会ったばかりの人の親友が私の隣のマンションに住んでいた…。
そんな「偶然だね!」が何度かあると、縁という不確かなものが確実に存在する気持ちになる。
彼氏なんか、オランダ人の商社マンと上海でばったり会ったことがあるそうだ。
「世界は狭いね」という言葉で片付けられるんだろうか。
ときどき、想像する。
世界に70億人いるというのはウソッパチで、私が見ている世界の登場人物はせいぜい何万人かしかいない。
多くの人がダブルキャストやトリプルキャストでモブシーンを演じているので、たまに神様がミスをして、台湾人しか出てこないはずの台北ロケのシーンに日本人の後輩を再登場させてしまった。
神様「『小籠包を食べる女A』役の台湾人が急遽来れなくなってさぁ…。後輩役の子を出したら、見つかっちゃったよ」
んなアホなことを考えてしまうくらい、偶然の出会いというものは、ある。
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先週、大阪の住之江公園へ古い友人を訪ねて行った。
私が大学生時代によく文通をしていたお友達で、10数年間交流がなかったところ、2年前にあるイベントで再会した。
それ以来、「また会いましょう」を繰り返していたけれど、機会をうかがっていてはまた10年くらい会えなくなりそうだったので、意を決して彼女が経営しているスナックまで会いに行ったのだ。
スナックという場所の流儀がわからないまま、とにかく彼女に会うために訪れた。
彼氏からは、
「女ひとりでようスナックに行ったなぁ。ほかのお客さんに変に思われたんちゃうか」
と呆れられた。
ほかのお客さんたちには、「ママの古いお友達」だと紹介してもらうので、別になんてことはなかったけれど、
「どういう友達?」
と尋ねられると困ってしまった。
私が通っていた文章教室の先生を通じて知り合ったのだけど、彼女は見学に来ていただけで生徒ではなかったし、彼女のほうが少し年上で歳の差もあったのに、なんで仲良くなったのか定かに思い出せない。
久しぶりに会う彼女は相変わらず可愛らしく、ガーリーでチャーミングだった。
私が彼女を筋肉少女帯のライブに連れて行ったこととか、閉園前の安土桃山キャッスルランドへみちのくプロレスを見に行ったこととか、昔一緒に遊びに行ったあれこれや、共通の知人の話に花が咲いた。
彼女の見た目が変わらないせいか、それほど昔の出来事のような気がしなかった。
「じゃあじゃあ、Mさんはどうしてますか?」
ふと思い出して私が尋ねた。
「Mさん?Mさんって誰だっけ?」
「えー?親友のS子さんですよ。私紹介してもらって、東京に行ったときお世話になったんです。ほら、旦那さんがギタリストの」
「ああ! Sちゃんね。ギタリストの人とは離婚したの。で、大阪に戻ってきて結婚して、また離婚しちゃった」
私は言葉を失った。
つい昨日のように感じていた思い出も、人が2回離婚するほどの時の隔たりだったのか。
10数年会っていない、というのはそれくらいの時間なのだ。
浦島太郎が玉手箱の白い煙に包まれたように、一気に時の長さを思い知らされた。
毎日顔を合わせていても、友達になるどころか、名前も知らない人がたくさんいる。
そんな中で、出会って友達になって、疎遠になってもまた再会できる人がいる。
神戸から住之江公園までは1時間ちょっとかかった。
住之江公園はもちろん初めて降りた駅で、なんでこんな場所にいるんだろう?と、奇妙な気持ちになった。
彼女に会うのでなければ、一生ここへ来ることもなかっただろう。
人の縁は本当に不思議だ。
だからつい、前世でも出会っていたのかもしれないな、と思ってしまう。
宇宙人もツチノコもいないけれども、縁というのは確実に存在する。
オカルティストなら、「それらもすべてアカシックレコードに書いてある」ってことになるのかも…!?
いや、だから私はビリーバーじゃないってば。