ピッコロ劇団『踊るシャイロック』の憂鬱
かつて元町高架下にBee’s Kneedsというバーがあった。
Rock’n Jelly Beanのポスターが飾られ、古い日本のアニメのおもちゃなんかが置いてあり、トイレに生首がぶら下がっている楽しいお店だったので、会社帰りにときどき立ち寄っていた。
お酒が飲めなくてクランベリージュースしか頼まない私でも、店主のカナダ人は優しく接してくれて、私の拙い英語のおしゃべりに付き合ってくれた。
いろんなことを話したけれど、ひとつ印象に残っているのが、「Jewish」に関する私の素朴な疑問だ。
「私たちなら日本人・韓国人・中国人の見分けがつくけど、あなたたちからすれば同じでしょう。それと同じで、私たちからするとユダヤ人(Jewish)と白人(Caucasian)の違いがわからないのよ」
なぜそんな話をしたか経緯は覚えていないが、私がそんなことを言うと、
「僕らだってわからないよ」
とカナダ人は言った。
「わからないの? てっきり何か違いがあるのかと思ってた」
「Jewishってのはユダヤ教を信じている人のことだよ。Religion(宗教)なんだよ」
「そうなの?Race(人種)じゃないの?」
それ以上はうまく英語で言えなくて、話の記憶もそこで終わっている。
正直言って、私はいまだに「ユダヤ人とは何なのか」がわかっていない。
「ユダヤ教」と「ユダヤ教徒」についてなら、少しずつ知識は増えた。
教会じゃなくてシナゴーグに通う(神戸にもシナゴーグがある)とか、クリスマスじゃなくてハヌッカーを祝う、とか、神父様じゃなくて司祭はラビという、などなど。
でも、人種じゃないなら、どうして「ユダヤ人は頭がいいから金儲けがうまい」なんて言われたり、「ボブ・ディランのカーリーヘアと鉤鼻は典型的なユダヤ人だ」なんて言う人がいたりするんだろう。
宗教を信じるかどうかと、血統や遺伝子は異なるはずじゃないか。
なぜユダヤ人は迫害されているの?
欧米では自明のことのようにはびこっているが、私たち東洋人には理解できない。
逆に、日本人・中国人・韓国人がお互いに差別し合っていても、欧米では東洋人でひとくくりにされるのと同じ。
違う地域に来てみれば、宗教の違いも何国人かの違いも、目くそ鼻くその世界。
それで差別しあうなんて、あほくさく、愚かしい。
なのに、狭い地域では差別意識が空気のようにねっとりとまとわりつく。
先週、神戸アートビレッジセンターにピッコロ劇団『歌うシャイロック』を見に行った。
元・新宿梁山泊の鄭義信が手掛ける関西弁のミュージカルで、シェイクスピアの『ベニスの商人』がベースになっている。
『ベニスの商人』という喜劇について、私は「嫌われ者のユダヤ人金貸しが登場する話」という知識しか持っていなかった。
原作を知らないまま劇を見たのだけど、『ベニスの商人』ってこんなにすごい話だったのか!と目からウロコが落ちた。
シェイクスピア喜劇にこれほど感動するなんて思ってもみなかった。
(※これ以降、ネタバレを含み内容に言及しますが、舞台を一度見ただけのうろ覚えのセリフであることをご容赦ください)
原作はどうか知らないが、『歌うシャイロック』でフォーカスされているのは金貸しシャイロックとその娘ジェシカのユダヤ人親子である。
被差別者としての苦しみと悲しみと孤独が真に迫っていて、特にジェシカの、恋人ロレンゾとの恋の顛末については涙を誘う。
ジェシカは、「あの人が、私をこの冷たい井戸の底から救い上げてくれる」と信じ、父シャイロックの金を持ち出し、ユダヤ人であることを捨ててまでロレンゾと駆け落ちをする。
しかし、金を手にしたロレンゾは人が変わってしまい、ジェシカの苦悩は深まる。
そしてふとしたセリフから、ロレンゾも心のどこかで自分を差別していたのだと知ったときの絶望。
最後は気が狂ってしまって幼児がえりする様子はちょっとやりすぎな気もしたけれど、ジェシカがこの物語の影のヒロインであることは間違いない。
ジェシカが影なら、表のヒロインは剣幸が演じる大金持ちの貴婦人ポーシャだ。
鄭義信の独自の解釈なのか、ポーシャという女性についても、すごく深みを感じさせてくれた。
ポーシャには、金・銀・銅の箱のいずれかのうち、正しい箱を選んだ男と結婚するようにという死んだ父親の遺言があった。
箱を開けられる人が現れないので‘行かず後家’になってしまった、という設定で、ポーシャは年増に描かれていて(配役に合わせたのかしら?)、ポーシャと侍女の二人の関西弁のやりとりはオバハンそのものである。
最初ポーシャは、「誰でもいいから早く箱を開けてくれないかしら」と言っているが、やがて誰ともわからぬ男との結婚が不安になってきて、「女は結婚しないといけないの?」と疑問を呈するようになる。
「父の遺言」に左右され、自分の人生を生きられない不自由さ。
この物語のクライマックスである裁判のシーンでは、男に変装したポーシャが法学者として登場し、一休さんばりのトンチで主人公アントーニオを救う。(さすが元宝塚のトップスターさんだけあって男装がとても素敵。これほどの適役はない。)
覆面ヒーローとして活躍するポーシャは、知識があり、頭が良く、度胸もある。
でも、「女である」ために、変装しなければ実力を発揮できない。
「男のふりをしなければ活躍ができなかった」というところに、ポーシャの悲劇がある。
「十年後、五十年後、百年後には、女性が女性のままで活躍できる世界になっていますように」と高らかに歌うポーシャに、希望の光が当たる。
『ベニスの商人』というのは貿易商アントーニオのことで、彼が主人公である。
けれど、正直言って彼はそんなに出てこないし、そんなに目立つ人物ではない。
冒頭、アントーニオが「憂鬱」であることが話題になるが、憂鬱の原因が何なのかはっきりとは語られない。
これについてはどうやらシェイクスピアの原作でもそうらしい。
ただ、現代の私たちの眼からすると、アントーニオとパッサーニオの不自然なほどの仲良しっぷりが同性愛っぽく映る。(そういう演出なんだろうけど。)
パッサーニオはポーシャに求婚するくらいだからストレートなのは明らかなんだけど、アントーニオは実はパッサーニオのことが好きなんじゃないか、と推測される。
シャイロックの証文どおりに「身体の肉を切り取られてもかまわない」と言うアントーニオの「死にたい願望」は、冒頭の憂鬱とつながっている。
もしかしたら、同性愛者である自分の、パッサーニオへの愛が報われないことによる厭世観なんじゃないか、と観客の腐女子は確信してしまう。
だからこそ、アントーニオがパッサーニオを見限るシーンが切ない。
裁判のあと、シャイロックの行く末を案じるアントーニオに対してパッサーニオが言った、
「あんなユダヤ人なんかのために君が悩む必要はない」
という言葉にアントーニオがひっかかる。
「僕が迫害を受ける立場になったら、君は石を投げる側に回るだろう。自分に似合わない帽子を被りたがる君を、僕は特別な存在だと思っていたが、それは勘違いだった」
と悲しむアントーニオ。
観客はアントーニオの気持ちを深読みしてしまう。
アントーニオがもし同性愛者だとカミングアウトして世間から迫害を受けたとしたら、パッサーニオはどうするだろうか、と。
これまでと変わらずに「僕たちは友情で結ばれている」と言ってくれるのか…。
エンディングはパッサーニオがポーシャのもとに戻り大団円を迎えるが、アントーニオはパッサーニオから離れていく。
気の毒なアントーニオ。彼の憂鬱は消えない。
そしてアントーニオの憂鬱は、あらゆる差別の中で生きている私たちの憂鬱でもある。
作・演出の鄭義信は、在日コリアンならではの作品を描き出してきた作家だ。
シェイクスピアが意図したかどうかにかかわらず、物語が内包する普遍性を感じずにはいられない。
ちなみに、舞台はイタリアなのにみんな関西弁でしゃべる不思議な空間について、ちょうど同時期に見たツイッターのイラストが重なった。素敵すぎるので勝手に紹介。
自分が南米に旅行したりするのは「母をたずねて三千里」の影響が大である…という話を知人にしたところ、関西弁マルコと言われまして。
— 中村豪志 (@F_M_U) 2017年2月23日
まぁ、こういう絵面が思い浮かんだワケですよ。 #高畑勲 pic.twitter.com/XFkLuX2nvA
シェイクスピアを関西弁でやるというのは、こんなかんじなんだよね。