3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

『狂い咲きサンダーロード』はいま観ても狂っていた。

ここのところ、ニュースやワイドショーの籠池ファミリーが気になってしょうがない。
不謹慎を承知で言うけれど、これだけ強烈なキャラクターの登場は久しぶり。サイコパス炸裂!
なんとなく、園子温監督『冷たい熱帯魚』のでんでんを思い出してしまうのは私だけだろうか。
籠池氏関連で気の毒に思ってしまうのは鳥肌実で、こういう本物のオモシロ右翼が出てきちゃったら、絶対に勝ち目がないよね。

そんなことを思っていたところ、元町映画館で石井聰亙(現・岳龍)監督『狂い咲きサンダーロード』のリマスター版の上映があったので、観に行ってきた。

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伝説のカルト映画だから、ずっと見なきゃ見なきゃと思いつつ縁がなかった作品なので、ちゃんとスクリーンで見れてうれしい。元町映画館ありがとう。

この映画の主演だった山田辰夫が亡くなったとき、『社会派くんがゆく!疾風編』で唐沢俊一村崎百郎がこんなふうに語っている。


村崎:山田辰夫っていうと、とにかく石井聰亙監督の『狂い咲きサンダーロード』のムチャクチャにバイオレンスは主人公のイメージが強烈すぎてさ。やさぐれたダミ声と凶暴な存在感が鬱陶しいくらいギラギラ光ってたね。
唐沢:あれ、最初観たときは"どっから連れてきたんだ、こんなチンピラ"とマジで思ったもの。全編何言ってんだか聞き取れないような絶叫口調でね。
村崎:あの映画のあの役はホントにマジでヤバかったわ(笑)。どうやったってマトモに言葉が通じるとはとても思えないような凶暴な人種を、まんまリアルに演じてたよね。


こういう情報は事前に知っていたので、とにかく主人公が強烈なキャラクターなんだな、という覚悟はしていた。
だから「狂い咲き」という形容詞は、主人公を表すものなのだと思っていたが、実際に観てみると、主人公だけじゃなくて映画全体が狂い咲いていた。
ストーリーや設定、絵全体がムチャクチャなのだ。
かつてオーケンが映画のイベントを企画して、お気に入りの青春映画の名作としてこの映画を上映したけれど、参加したファンたちは大爆笑の渦だった、というのもよくわかる。(こちらは大槻ケンヂ著『オーケンの、私は変な映画を見た2』を参照されたし。)

暴走族「魔墓呂死」(まぼろし、と読む。文献やサイトによっては魔墓狼死となっているけど、今回映画館に置いてあったチラシの表記に合わせます。)の特攻隊長の仁(山田辰夫)は、「愛される暴走族」を目指す周囲の暴走族たちと衝突し、とにかく暴れまくる。
その仁を諌めるために登場したのが、魔墓呂死OBである小林稔侍なんだけど、戦闘服を来たその男の自己紹介にぶっ飛んだ。

「私は見てのとおり、政治団体のものだ!」

見てのとおり、と言われても何か全然ピンとこなかったけれど、日の丸を掲げた街宣車の登場でようやくそういう政治団体だとわかった。
その名もズバリ、日本会議、いや違う、スーパー右翼!!
ネーミングがスゴすぎる…。

スーパー右翼の皆さんは、暴走族の若者をスカウトする。
「君たちの力を国のために使ってみないか!」
そして、何人かの若者が政治団体に入り、厳しい軍事訓練に明け暮れる。
仁もしばらくは参加をしているが、繰り返される毎日の思想教育や訓練に退屈し、周囲との衝突のすえ抜け出してしまう。

ふと、不良少年つながりで、映画『クローズ』では先輩が反社会的勢力さんになっていたのを思い出した。
不良少年→暴力団組織、暴走族→スーパー右翼。
ケンカが好き、ケンカができるお仕事に就きたい、ということでそうなるんだろうか。
そうすると、右翼って政治じゃないよね、と改めて気づかされる。

スーパー右翼は国のためといいつつ、訓練しかしない。
本当に国のために力を発揮するなら、日がな訓練するより真面目に働いてもらったほうがよっぽど日本国のGDPに貢献できるはずだ。
もちろん、彼らがそんな生産的なことをするわけがない。(ここのあたりネトウヨにも似てるかも。)

暴走族もスーパー右翼も、単にムシャクシャしているのだ。
すべてのことが気に入らなくて、あらゆることに腹が立っている。
理屈じゃない。
破壊衝動が次から次へと押し寄せてくる。
彼らは自分自身でさえ、消えてなくなってしまえばいいと思っている。

若者だなぁ。
と、40歳を過ぎたおばさんは思う。
10代のときにこれを見ていたら、もっと共感できたのかもしれない。

私も若い頃は、「みんなみんな大嫌い!」とわけもなく思うことがあった。
何もかもが嫌になる。
何もかもが退屈してしまう。
何よりも自分が大嫌い。
若いときにはそんな時期があるものだ。
ただ、そんな時代は嵐のように過ぎ去ってしまう。

もし魔女が現れて、
「あなたを10代に戻してあげますよ」
と言われても、私はお断りする。
大人になって、少しずつ自分以外の物事が見えるようになって、ようやく心穏やかに暮らせるようになった。
若い頃のような毎日がイライラする日々には二度と戻りたくない。(やがて更年期が来たら同じようになるのかもしれないけど。)

狂い咲きサンダーロード』という映画は、そういう若い頃の愚かしさを凝縮させたようなところがある。
痛々しく、ヒリヒリし、恥ずかしく、ばかばかしい。

仁はスーパー右翼を抜けた後、好き勝手な振る舞いをしたせいで闇討ちに合い、チェーンソーで右手を切り落とされてしまう。
同じように右翼を抜け出した仲間の一人は襲われて植物状態に、もう一人は仁を置いて街を逃げ出してしまう。
さらに自暴自棄になる仁。
ほっつき歩く街も荒んでいて、まるで彼の心象風景のように薄気味悪い。

この街の薄気味悪さ、松井良彦監督『追悼のざわめき』の街並みの気持ち悪さに似ているなぁと思っていたら、松井監督も編集で参加していた。
どうりで、街の空気感が似ている。世界が地続きといっていい。
荒廃という言葉では足りないほどの汚れたかんじ。
ニンゲンはいるのに誰一人として心が通じ合わないかんじがして、見ているだけで孤独を感じてしまう。

そのうえ、舞台は近未来ということになっているけれど、とてもじゃないけど未来都市には見えない。
安っぽっく、みすぼらしいかんじは、どうみても80年代だ。

そう考えてみたら、当時の未来である2017年の現代は、清潔で安全で、ニンゲンもずいぶんおとなしい社会になっている。
暴走族もいなくなったし、不良少年も犯罪もずいぶん減った。
表面的には整然とお行儀よくなったけれど、臭いものはふたをされ、汚れは巧妙に隠されているだけで、貧富の格差は広がっているし、心を病む人も増えている。
見た目をキレイに掃除したらゴミ箱のゴミが増えるように、お行儀よくなった社会の闇は深くなっているかもしれない。
仁が現代にやってきたら、なおさら暴れまくるんじゃないだろうか。

クライマックスは、暴走族連合&スーパー右翼の総合団体VS仁のバトル。
戦車にロケットランチャーに、もうめちゃくちゃ。
そしてラストに生き残った仁はバイクに乗って去っていく。
唯一の味方であるジャンキー小学生に、「その右手じゃブレーキが握れないだろ」と指摘されるけれど、そんなことは意にも介さず走り始める仁が清々しい。

さて、私のような中年はともかく、現代の10代のコたちはこの映画をどう見るんだろう。
行き場のない怒りや憤りが狂い咲く青春映画として感動するのか、トンデモ映画として大笑いするのか。
今なお色あせない映画、と言われているけれど、心に響くかどうかは世代によるかもしれない。

ただ、古びないままだと思えるのは音楽だ。
泉谷しげるPANTA&HAL、THE MODSのロックが全編に流れ、使われ方はまるで最近の映画のようだ。
これだけは掛け値なしに今の感覚でもかっこいい。
音楽の力の偉大さを感じた。