3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、趣味と母の介護と育児に追われる日々の記録。

親戚って虚しい。

大人になるまでは、大人が怖かった。

ところが自分が大人になってみると、「敵意を持ってませんよ」という態度でこちらが接すればさほど怖いものではないことがわかってきて、知らない人と話すことにも慣れ、人間関係のバランスのとり方もなんとなく覚えてくるようになった。

 

…と、タカをくくっていたのは、まだまだ私が世間知らずのあまちゃんだからだろう。

 

実家に帰ってきて、父とドラッグストアへの買い物に出かけた車の中で、父から嫌な話を聞いた。

 

母の弟が、父の妹夫妻にわざわざ会いに行って、

「姉ちゃんに何があっても、オレはもう面倒は見られないから」

と言ったというのだ。

ちなみに「姉ちゃん」というのはうちの母のこと。

またそれを、父の妹の旦那が父に報告してきたわけだ。

 

最初意味がさっぱりわからなくて、何度も聞き返し、情報を整理した。

父はただでさえ話が下手なので、誰が誰に誰の話をしているのか、理解できるまで時間がかかった。

今、この文章を書いていても、読んでくださる皆さんが理解できるように書けている自信もない。

 

理解しづらいのは、父の話下手だけではなく、理解しづらい行動だからだ。

だいたい、なぜ普段交流がないのに、母方の親戚が父方の親戚に会いに行ったのか。

だいたい、なぜ母の弟が、やってもいない母の面倒を見られないと言い出したのか。

 

さっぱりわからない。

 

例えば、私や父が

「うちの母に万が一のことがあったら、頼みます」

と言ったなら、その行動は理解できる。

ただ、そんなことは絶対あり得ないし!!!

 

「おじさん、またえらく変なこと言いだしたね」

「そやから、もう年賀状書かんとこと思とんや」

ということで、話題は年賀状の話になったわけだけれど、思い返すたびに癪にさわる。

 

母の弟夫妻は、うちの実家から一番近い親戚だ。

母が元気なうちは頻繁に行き来して仲良くしていたので、リタイアした夫婦同士、一緒に旅行に行ったり食事に行ったりしていた。

だから、母の病気発症後もまだ歩けて右手が使える頃は、私が帰れなくて食事の準備ができないときに、

「4人で一緒に食事に行ってもらえないでしょうか」

と私が頼んだことはあった。

 

叔父は畑仕事や庭仕事が得意な人で、父の家庭菜園や庭いじりのアドバイザー的存在だった。

父も甘えて、

「うちとこの庭木も切りに来てくれよ」

と頼んだりしていた。

実際、昔はときどきうちの庭の手入れを手伝ってくれたりしたものだ。
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母が家事をできなくなって、父が最低限のことは自分でやらないといけなくなった当初、父は家事についてわからないことがあれば母の弟の嫁(つまり叔母)を訪ねて、アドバイスをもらっていた。

ただ、私の印象では、レクチャーしてもらうと言っても、世間話の一環だったろうと思う。

食器の洗い方についてわざわざ教えてほしいと言い出した話を聞いたとき、私は恥ずかしくて卒倒しそうになったけれど。

 

思い返せば、その頃からおばさんも、

「そんなことは、なみ松ちゃんに聞いたらどうですか」

と言っていた。

ということは、いちいち頼ってくる父が面倒臭かったのかもしれない。

 

そういうのも親戚ならではの心やすさからくるコミュニケーションのうちだと思っていたけれど、向こうには迷惑がられていたんだな、と思うと、ひどく虚しくなった。

母は自分の兄弟が大好きだっただけに、裏切られた気がする。

 

私が子供の頃に知っていた大人は、学校の先生と、親戚やご近所のおじさんおばさんだけだった。

そりゃ大人嫌い、人間嫌いにもなるわな。

 

子供が産まれたらしばらく実家に戻るのもアリかと思っていたけれど、実家では誰も頼れる人がいない。

親戚はこんな調子だし、ご近所には超面倒臭い「進撃のおばはん」(拙ブログお向かいのおばさんに辟易している話。 - 3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録参照)がいる。

 

実家の周囲は味方どころか敵だらけ。

考えただけでもストレスだ。

 

友達は選べるけれど、親戚とご近所は選べない、という事実に、ああ私はやはり世間知らずだったなと思い知らされる。