お食い初めと赤ちゃんの私
話は前後するけれど、土曜日にサトイモのお食い初め式を行った。
食器はお食い初め用のものではなく、その後も使える実用的なベビー用食器をネットで買った。
ネットで調べてみるとお食い初めに必要なのは、
- 歯がための石
- 祝い鯛
- 赤飯
- お吸い物
- 蛸
といったところ。
歯がための石はお宮参りのときに神社でもらった。
赤飯は近所のスーパーで出来合いのものを購入。
お吸い物は同じくスーパーでパックのハマグリを買って私が作った。
そして、鯛と蛸といえば、これはもう釣りバカな夫の得意分野である。
両方とも明石の海で釣れる代表選手だからだ。
蛸は3週間前くらいに釣ってきたものを冷凍してあるのでOK。
問題は鯛である。
この日、是が非でも、絶対に絶対に釣ってくる、という約束で夫は海に出てくれた。
お食い初めは生後100日目に行うとされているから、本当は先週する予定だった。
けれども大雨が続いていたので、釣りに行けないので延期になっていたのだった。
内祝いを送ったお礼の電話をかけてきてくれた伯母にお食い初めの話をすると、
「“食い延ばし”って言うてなぁ、延期するのはええことなんやで」
と言ってくれた。
普段は釣りに行っても一匹も釣れない丸ボウズなこともあるのだけれど、この日、夫は約束どおり、魚焼きグリルにちょうど入るいいサイズの明石鯛を釣りあげてきてくれた。
さばいて塩焼きにするところまで、全部夫がやってくれて、私は見ているだけ。
一応、手作りで質素ながら形になった。(と本人たちは自負しているのだけれどどうだろう。)
お食い初めで食べさせる真似をするのは父親の役目らしく、夫がサトイモを抱いてお箸を口に運んだ。
残念ながらサトイモはこのときも寝っぱなしで、目をつぶったまま渋い顔をして口をムニャムニャ。まったく、どこまで寝太郎なんだか。
豪雨で延期していたお食い初めがようやく果たせて、大満足。
どっちに似ているか
サトイモは周囲から夫にそっくりだと言われ続けている。
あんまり似ていると言われるもんだから、夫は自分の赤ちゃんのときのアルバムを引っ張り出してきた。
確かに、夫の赤ちゃんのときは今のサトイモにうり二つ。まるで同じ顔。
頭のハゲ具合も同じである。
でもしかし。
私も赤ちゃんのとき、ずっとハゲだった。
それでよく男の子と間違われたらしい。
夫にそっくりでもあるけれど、私の赤ちゃんの頃にも似ているはず!
それで実家に帰った際に私も自分のアルバムを引っ張り出してみたけれど、思ったよりも髪の毛があった。
「でも、ちょっと似てない?」
「俺のが断然似とうわ」
「男の子と女の子やから。でも、全く似てないってことはないでしょ?」
「似てないよ」
納得がいかないので、父にも尋ねてみた。
「サトイモと私の赤ちゃんの頃、似てるよねぇ?」
「似てへんな」
撃沈。
ちぇっ!
まあ考えてみれば、赤ん坊が父親に似ているというのは救いである。
母親は自分の身体で産んだから赤ん坊を自分の子として認識できて当然なんだけど、父親はそうでもないだろうから。
父親似で幸い。
やっぱり気になる発達
驚いたのは、お食い初めの写真で私はベビーチェアに座り、フォークを手にしていたことだった。
サトイモは座るどころかまだ首が座っていないし、私の服の端をひっぱることはあってもまだまともに物がつかめない。
私が早かったのか、サトイモが遅いのか、うまく写真を撮っただけなのか。
発達は赤ちゃんの個性によってそれぞれだ。
よその子と比べて早いだの遅いだの言ってもしようがないし、スピードを気にすることはない。…と、わかっているものの、やっぱり比べてみてしまう。
今回は自分との比較だけれど、これから山ほどこんなことが起きるんだろうなぁ。
子供の頃から何度も何度も繰り返し見た、自分の赤ちゃんのときのアルバム。
けれど、こんなに発見があったのは初めてだ。
自分目線で懐かしく見るのではなく、サトイモとは別の赤ちゃんの成長記録として親目線で見てしまった。
客観視すると、これまで見えていなかった手書きの添え書きが目についた。
誰から何をお祝いにもらったとか、何か月でどんな状況だったとか、その写真は何月何日何のときに撮ったものか、写真に説明が書かれていたからだ。
父の字もあれば、母の字もあった。
今はスマホでばんばん画像が撮れるだけに、デジタルのままデータをためっぱなしになっている。
「やっぱり紙ベースで残してやらなあかんなぁ。こうやって手書きしたら、愛情がわかるやんか」
と夫が言った。
「これ見とったら、一人っ子で大事にされたのがようわかるな。そらワガママに育つわ」
「ワガママは余計!!」
夫が言うように、1歳の誕生日くらいには0歳の記録を紙のアルバムにまとめようか。
面倒くさがりだから、やっぱりアプリにお任せしちゃうかもな~。