3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

帰ってきたマリリン・モンローと妊娠・出産の視差

筋肉少女帯の新しいアルバム『ザ・シサ』は、タイトルの「視差」と同様に、多くの曲でオカルティックなこともテーマになっていて、『マリリン・モンロー・リターンズ』もそのひとつだ。

野坂昭如マリリン・モンロー・ノー・リターン』のシャレにもなっているこの曲については、オーケンがインタビューで「大人になった今しかできないなと思いました」と語っているように、これまでの歌詞とはちょっと異なる。

マリリン・モンロー・リターンズ』は、テレビの企画でイタコのおばあさんにマリリン・モンローの霊を呼び寄せてもらいゲラゲラ笑うはずが、本物の霊が降りてくる、という内容の歌。

筋少には『イタコLOVE』という恋人の霊を呼ぶ曲があるし、ゾンビになって死んだ男が恋人の元へ帰ってくる『トゥルー・ロマンス』や、特撮の曲だけれど生まれ変わって戻ってくる『パティ・サワディー』もある。
そんなふうに、これまでのオーケンの歌詞でも死からの再来が何度も描かれているけれど、『マリリン・モンロー・リターンズ』がそのどれとも違うのは、モンローが「復讐」のために戻ってきたという点だ。

小説『ステーシー』をモチーフにした『再殺部隊』に出てくる少女ゾンビが、「好きな人にもう一度会うため」よみがえったのと対照的な気がする。
少女は恋心を、女は恨みを抱く。

対して、相手の男はというと、少女ゾンビなら「血まみれだって抱いて」くれるのに、モンローでは「世界の美女が帰る夜 すべての男は怯える」。
なんだか、クラリスがあれほど魅力的なヒロインなのに、峰不二子がいまいち魅力的に描けなかった宮崎駿を思い出す。

「女の帰って来る日は 置いてきた猫取りに来る時だよ」というフレーズに、私は別れのせつなさを感じたのだけれど、作者のオーケン自身は「ゾッとしますね」と語っていて、これこそ男女の視差だと思ってしまった。

そう、最も大きな視差は、男女の間にある視差なのだ。


「4回しか」なのか「4回も」なのか

 

今回のアルバムが、
「同じものでも視点が異なれば違って見える」
という視差がテーマだと聞いたとき、

それな!

とひざを打った。
妊娠・結婚・出産・子育てを経て、一番感じているのが夫婦間の視差だったからだ。

同じものを見、一緒に経験しているはずなのにまるで違う。

少し前になるけれども、NHKで『透明なゆりかご』というドラマを放送していた。
産院が舞台のこのドラマを、毎週夫婦で一緒に見ていた。
去年までの私たちなら興味すら持たなかったようなドラマだ。
妊娠・出産という経験が、私たちの趣味すら変えていく。

ドラマを見ながら夫が、
「こういう風景懐かしいなぁ~、俺もずっと通ってたからなぁ」
というので、ギョッとした。

そのセリフ、私が言うなら当然だけど、あなたが言いますか!?

そう思ってしまうのは、私の中では、
「産まれる前まで妊婦健診に付き添ってくれたこともないし、入院中もあんまり来てくれなかった」
という思いがあるからだ。

特に覚えているのは、出産後初めての土曜日に、会いに来てくれなかったことだ。

引っ越しと出産が重なってメチャクチャなことになってしまったのも、わかっている。
でも、5分でいいから会いに来てほしかった。
平日は仕事が忙しいからあまり来れないのだから、せめて休みの日くらいは来てくれるだろう、と期待していただけに、傷ついたのだ。

私がそのことを恨みがましく言うと、
「あのとき引っ越し作業でどんなに大変やったか! ベビーベッドや必需品の手配も全部俺一人でやったんやで!」
と夫に逆に怒られた。

「だとしても、ほかのパパに比べて、病院に来た回数は少ない!」
と主張する私。
「いいや、よう行ってた!」
と言い張る夫。

仮に週に4回来てくれていたとしたら、私は「週に4回しか」と感じ、夫は「週の半分以上も行った」と感じているのだろう。
これこそが視差そのもの。


妊婦さんは無理しちゃいけない

 

これもだいぶ前の話になるけれども、多めに買っていたサトイモのオムツがサイズアウトして、某アプリで売りに出したときのこと。
宅配だと送料がかかるので手渡しを希望していたら、ある妊婦さんが手を挙げてくれた。
彼女の仕事帰りに駅で受け渡しをすることになった。

「ベビーカーにオムツ2パックもぶら下げて駅まで行けるかなぁ」
と私が不安がっていると、
「家まで取りに来てもろたら?」
と夫が言う。
「相手の方は妊娠中なのよ。向こうの都合に合わせてあげないと」
「それやったら余計に、ちょっとくらい歩いたほうが運動になってええんちゃう?」
「とんでもない! 重いもの持たせて歩かせられへんわ!」

私は妊娠中、会社の人などからよく「無理をするな」と声をかけられていたけれど、私自身はよく理解していなかった。

重いものを持つな、エレベーターを使え、あんまり歩き回るな…。

無理をした結果こういうことになるのだ、とわかったのは産道が短くなっていると指摘されてからで、結果1か月以上も早産になってしまったときには後悔に変わった。

夫と歩いていたとき、ちょくちょくお腹が張って、
「もうちょっとゆっくり歩いて」
とお願いすることが多かった。
物件探しも兼ねて私たちはよく散歩に出かけたけれど、
「どうしてこの人は、妊婦の私をこんなに歩かせるだろう…」
とよく不満に思っていた。

オムツの受け渡しについて話をしているうちに、夫は「妊娠中は身体を動かしたほうが良い」と思い込んでいたことがわかった。
妊娠中の運動を推奨する文章なども目にするし、鍛えておいたほうが出産時に難産になりにくいとも言われる。
確かに、一般論においてはそうだ。

けれど、私の場合は仕事もしていたし、電車で1時間かかる実家までの往復に母の介護もあり、「無理をしないように」と言われている状況下だった。
「身体を動かしたほうがいい」のは、家でゆっくり休める妊婦さんの話だ。

「運動させたろうと思って歩いていた」
と言う夫に、私は愕然としてしまった。

私も、健診で医者に言われていることを夫にちゃんと話さなかったのが悪かった。
自分のことだから自分さえしっかりしていればいいと思っていた。
無理をするなと言われたことを伝えたのは、「このままでは早産しますよ」と脅されてからだったと思う。

わかるだろう、わかっているはず、が一番危ない。
視差を縮めるのは、対話だけ。
ただでさえ、男と女の間には深くて暗い川があるのだから。