3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

人生は地獄変

ハタチくらいの頃、私は作家になりたかった。

でも、その頃の私は本当に平凡で、才能どころか書くべきことすら持ってなかった。

芥川龍之介の『地獄変』のように、「書くべき何か」を持てるなら不幸になってもよいとさえ思っていた。

 

そのバチがあたったのか、母が大脳皮質基底核変性症という難病になった。

診断がついたのは2009年、私が34歳のときだ。

左手が動きにくい、というところから始まって、徐々に身体が動かなくなり、認知症の症状も出るようになった。

そして、介護の記録を残すとともに、自分の気持ちを整理するために、ブログを始めた。

最初はmixiで自分と友人宛に書いていた日記を、40歳を機に誰でもアクセスできるはてなブログに移した。

 

すいぶん昔、母が知人のお葬式から帰ってきて、こんなことを言った。

「お母さんが死んだら、すぐにみんなお母さんのことなんか忘れてまう。誰も覚えてへん。お母さんが生きてたことなんか、どこにも誰にも、わからんようになってまうんや」

母はそう言って泣いた。

 

私がいる限り、お母さんのことは覚えているよ。

私はそう答えたと思う。

でも、私が死んだあとは?

私が子供を産まずに死んだら、母が言う通り、母が生きていたことすら消えてしまうだろう。

その頃、私は結婚する気も子供を持つ気もなかった。(今でも、自分が既婚者で人の親だなんて信じられない。)

インターネットの片隅にでも、何か書き残さないと母の存在が消えてしまう気がした。

 

ところが、うっかり、私は子供を授かることになった。

まるで、買ってもいない宝くじが当たったみたいに。

 

子供を授かったことと引き換えに、母の介護がほぼ終了した。

妊娠中、母が救急車で運ばれ、入院したが最後、私の出る幕がなくなったのだ。

その後、コロナで会うことすら困難になった。

ブログに書く内容も変わり、介護の記録のはずが、すっかり子育てブログになってしまった。

 

そして、今年7月、母が亡くなった。

 

自己紹介部分もそぐわなくなってしまったし、このあたりでこのブログは終了にしようと思う。

 

新しいブログへ

母が亡くなって人生の憂いがなくなったかというとそうでもなく、それ以上に息子のサトイモの子育てが重い。

どうも育てにくい。

なんだか、何かしらの発達障害があるようだ。

またもや、地獄変に憧れたバチが当たったのかもしれない。

 

毎日七転八倒

ただ、大変だけど、やりがいはある。

楽しくはなくても、とても面白い。

 

平凡でつまらない人生より、紆余曲折でもオモシロい人生を。

 

サトイモが波乱に満ちた人生を楽しく生きていくには、母親としてどうすべきか。

発達障害について、子育てについて、勉強と発見の日々である。

こんな面白いこと、やっぱり記録しておかないともったいない。

 

新しいブログの名前は、「奇才サトイモの元気がでる発達日記」にした。

これからはそちらにお引っ越し。

これまでのあらすじ - 奇才サトイモの元気が出る発達日記

 

これまで読んでくださった皆様、ありがとうございました。

そして、今後もよろしくお願いします。

宮沢章夫さんの逝去とサブカル時代の終焉

宮沢章夫さんが逝去された。

何度もお別れが言えた母の死より、もう一度会いたいと思いつつ会えなかった宮沢さんの死のほうが、私のショックは大きかった。

8月に宮沢さんの最後のツイートが更新されてから、何回か見に行っては、「次のつぶやきはまだだろうか…」と心配していただけに、「さよなら」が本当に最後になるなんて、冗談にしてもひどすぎる。

死の悲しみというものは、悔いの残り方に比例する。

 

宮沢さんに初めてお会いしたのは約20年前、私が25歳のときで、宮沢さんが講師の関西ワークショップ(以下、関西WS)に参加したときだ。

思えば、関西WSは特別な場所だった。

普通、何かの先生というのは、学校なりカルチャーセンターなり主催する機関があって、それに対して希望者を募るものだと思う。でも、関西WSはそうじゃない。

宮沢さんが京都造形芸術大学の講師として京都在住となることを知って、ネット上で関西のファンたちが「せっかく宮沢さんが関西にいる間に教えてもらうことはできないか」と自主的に立ち上げたものだった。

 

関西WSの発起人でリーダーは、関西で演劇活動をしていたサカイヒロトさん。

場所は、扇町ミュージアムスクエアや劇団☆新感線南河内万歳一座が入っていた建物の屋上等を借りた。

「役者にならないための演劇ワークショップ」とテーマをかかげながらも(だから私のような一般人も参加できたのだけど)、参加者の大半は関西の小劇場劇団に所属している若者か、大学生がほとんどだった。

社会人で演劇人でもないのに参加している私のような人は稀だったと思う。

 

WSを始めるにあたって、先行して下見の会があった。

JR大阪駅の改札口を出たところが待ち合わせ場所だった。

待ち合わせ場所で、私が一番最初に宮沢さんを見つけた。

その頃の宮沢さんは髪が長くて、金八先生みたいなボブだった。

東京の人らしい、シンプルだけどスマートな服を着ていた。

宮沢さんのエッセイに出てくる人物のイメージそのものというかんじがした。

「あ、どうも、宮沢です」

 

みんなで扇町周辺を歩いて、喫茶店に入った。

9人くらいだったと思う。(人数は不正確。実家にある日記を今度調べてみよう。)

店の人にテーブルをくっつけてもらって席を作ってもらった。

すると、宮沢さんが、

「コーヒーを9つ」

といきなり注文するので、

「ちょっと待ってください、コーヒーを飲めない人もいるかもしれないんで、一応聞きましょう」

と私が注文を取った。

今から思えばなんとも生意気な奴だ。

 

あのときの宮沢さんの顔や声など、今でも思い出せる。

なんで思い出せるのかというと、私の中の大事な思い出として、何度も反芻しているからだろう。

WSは週に1回、夜に開かれた。

WSの内容については、宮沢さんのエッセイでもちょこちょこ記されていた。

街の会話の録音だとか「気持ちいいこと」の発見、文章の朗読やダンスのグループ発表など、課題をやるのも楽しく、良い思い出がたくさんある。

けれど、宮沢さんと直接会話したのは数えるほどだと思う。

それだけに、話した内容を何度も繰り返し思い出すから、記憶に定着しているのだ。

 

最後に会ったとき

その後、会うたびに、宮沢さんの書籍にサインをもらった。

私が最後に会ったのがいつかすぐわかるのは、サインのおかげである。


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心斎橋のDigmeoutCafeで行われたトークイベントだった。

対談相手はヨーロッパ企画上田誠さんで、東日本大震災後の表現活動についてがトークテーマだったと思う。

原発事故についての話もあった。 

終了後、原発事故について、彼氏(今の夫)が主張していた、

「家庭では節電できても、工場などは大量の電力が必要であり、電力がなかったら生産が止まってしまう。経済活動のことを考えたら原発は止められないのではないか」

という話を宮沢さんに質問してみたら、

「事故の補償金を含めて考えると原発は決して安くないことがわかるはず。コストのことを合理的に考慮すれば経済界だって原発は割に合わないことがわかっていくはずだ」

というようなことを言われた。

 

なるほどな~、と納得したけれど、その後、日本はジャブジャブお金を使って後始末をし(しかもしきれていない)、それでも割に合わない原発を続けている。

こんな非合理なことがあるのかな、どうも日本はおかしいな、と思うばかりだけれど、もう宮沢さんに尋ねることもできない。

 

その日、ヨーロッパ企画の上田さん、本多力くん、制作のYさんと一緒に、宮沢さんを宿泊先のホテルまで見送った。

それが最後に会った宮沢さんだ。

 

そのあと、一度も連絡をとっていなかった。

私のメールボックスの下書きには、いくつかの宮沢さん宛のメールの下書きが入っている。

特に、NHKの「ニッポン戦後サブカルチャー史」の放送のあとは毎回感想のメールを出そうとして、でも気後れして出せないままだった。

 

サブカルの終わり

ラッパーのダースレイダーYou Tubeチャンネルにマキタスポーツがゲストで出た回で、マキタスポーツがこんなことを言った。

水道橋博士のメルマ旬報が終わって、90年代サブカルは終わった」

 

2022年、水道橋博士参議院議員になった。

今年、唯一喜ばしかったニュースだ。

ただ、マキタスポーツが言うとおり、一つの時代が終わる感覚があった。

だって博士が国会議員だなんて。

 

去年のオリンピックでの、小山田圭吾のクイック・ジャパンでの記事の件から、90年代サブカルとは何だったのか、私自身振り返ってモヤモヤすることが多かった。

その時代から地続きである現在が、こんな暗い時代になっていることがつらい。

 

そのうえ、宮沢章夫さんの死。

ひとつの時代が終ったなと、しみじみ思う。

 

個人的には、母の死があり、宮沢さんと時を同じくして父方の伯父も亡くなった。

偶然、世間様も、安倍晋三エリザベス女王の死によって、時代の転換を迎えている。

日本の没落が、あの安倍国葬で見える形になって表れたみたいに思えた。

法律も作らず、国会で予算も決議せず、三権分立も半数以上の国民の声も無視して行われ、民主主義の葬式みたいだった。

 

2022年の漢字は「喪」一択だな、と思う。

たくさん失って、これから何が始まるのだろう。

相続手続きと補聴器

昨日は会社の夏休みを利用して、母のゆうちょ口座や簡易保険の相続手続きをした。

もっと早くすべきなんだけど、グズグズしていたら今になってしまった。

 

思えば、告別式の翌日も、サトイモはお姑さんに預けて、役場へ手続きに行ったのだった。

お盆休みも年金手続きに行ったり、戸籍や印鑑証明を取りにいくなど、この夏の夏季休暇はレジャー要素は皆無だった。

相続手続きに消えた夏。

 

ただし、葬儀屋さんが死後必要な手続き一覧を渡してくれていたので、手続き自体はそれほど難解ではなかった。

そのうえ、役場には中学時代の親友のJちゃんが働いていたので、この上なく心強かった。

 

よく、「役所でいろんな係をたらい回しにされた」と聞いていたけれど、小さな町役場だからか、私達は窓口に座ったまま、係の人が順番にやってきてくれた。

例えば、戸籍係が終わると、次に健康保険係を呼んで来てくれて、また終わると介護保険係へ…、というかんじ。

いちいち書類に住所、名前等を書かないといけないものの、「難しい」とか「大変」という印象はなかった。

 

とはいえ、「こんなこと、データベースがつながっていて死亡の連絡一発で全部終わりにできないの?」と時代遅れ感はいなめない。

日本のDX化の遅れをひしひし感じるものの、アナログな分、係が連携して精一杯がんばってる。

制度とシステムのだらしなさを現場の素晴らしさが補ってる日本の象徴。

 

特に、原戸籍を取るのが煩雑で、あちこちの市役所にいかなければならなかった。

夫婦別姓について反対している右系論客が、

「日本の戸籍制度は、戸籍を見れば祖先までたどっていける素晴らしいものだ。夫婦別姓はそれを壊す」

と言っていて、そんなものかな、と思ったけど、実際の戸籍を見てみたらブツ切れもいいとこ。

こんなの、今のテックならもっと皆が使いやすく素晴らしいデータベースができそうなものなのに。

夫婦別姓反対論者は戸籍を取り寄せたことあるのかしら?

 

わかってないのではなく聞こえてない

役場でも年金事務所でも郵便局でも、一応父は同席した。

けれど父はいつも座っているだけ。

手続きはすべて私まかせだった。

 

コロナ対策でどこの窓口でも透明なアクリル板かビニールの幕がある。

皆マスクをしている。

大声では話さない。

だから、私でも少し聞こえづらい。

 

「お父さん、聞こえてる?」

「え?」

「話聞いてた?」

「いいや」

人の話を聞いていない、聞く気がない、やる気がない。

いや、それ以上に機能として「聞こえていない」。

 

葬儀から相続手続きにかけて、父の聴力低下が切実なことを実感した。

父が耳の遠いことは何年も前から知っていた。

テレビの音量は庭を通り越して道まで聞こえるほど。

言葉を聞き返すこともしばしば。

でも、会話が成立しないわけではないし、補聴器の話をしても本人が嫌がるので放置してきた。

事務的な処理をするわけではないので、困ることがなかったのだ。

 

でも、あまりにひどい。

 

笑ってしまったのは、父が車のサイドミラーをこすった跡があるのを見つけたサトイモが、

「じぃじ、どうしてクルマをこすっちゃったの?」

と尋ねたとき。

父は、

「ああそう!サトイモくんはえらいなぁ」

と笑顔で答えた。

何を聞いとんねん!

つまり、全然聞こえてないのに、適当に返事をしていたのだ。

 

法事や相続手続きの合間をぬって、私は医療機器メーカーに連絡し、補聴器のお試しを申し込んだ。

 

補聴器は老眼鏡のようにはいかない

「新聞を読むときに老眼鏡をかけるように、せめて人と会話するときだけでも補聴器をつけてほしいんです」

私がそう訴えると、医療機器メーカーの担当者は、

「それこそが一番難しいんですわ」

と答えた。

 

「とりあえず、お父様のお宅まで伺って、今どのくらい聞こえていらっしゃるのか、聴力検査をさせてもらいます。そのうえで、一番ご要望に合った補聴器をお試しでお持ちします」

「わかりました。よろしくお願いします」

「ただ、お父さんにお会いして、補聴器をお使いになる可能性が限りなく薄いなぁと判断しましたら、諦めて帰らせてもらいます」

 

えっ?!

耳を疑った。

商売のくせに、一回会って望み薄だったらそんなすぐ諦めるの??

 

「今回娘さんからご要望をいただきましたが、御本人はそれほど困ってないということですよね? 聞こえなくても平気なんですよね? そういう場合、聞こえないことに慣れすぎてしまって、聞こえると逆にうっとうしくなる方が多いんです。そうすると、着けるのも面倒くさくなります。安い買い物ではありませんからね、無駄になる可能性が高いので、お勧めしておりませんのです」

 

そういえば父は、

「聞こえんでええ。聞きたい話なんかあらへんのやから、聞こえんほうが便利や。嫌な話も聞かんですむ」

と言っていた。

なんて勝手な理屈だろうか。

それでいて、面倒な話は全部私に押し付けるのだから。

 

孫の力は偉大

心配していた補聴器のお試しだったが、思いのほかうまく行って、現在、父は補聴器を使っている。

片耳だけなのに15万もする高価な買い物だが、一応使っているだけ大きな進歩だ。

 

夫は法事で補聴器をつけた父の印象として、

「やっぱり聞こえ方がだいぶ違うで」

と、改善を実感できたようだ。

ただ、補聴器をつけたにしては、まだ、

「え?」

と聞き返すことが多く、私は満足度が低かった。

何しろ15万もかけてるんだ、こっちは。

 

補聴器屋に聞いてみたところ、

「今は初めての補聴器なので、音量を最低レベルで始めてます。これまで何年も聞こえてなかったのに、いきなり聞こえ始めるとうっとおしくなりますからね。定期的に聴力を測って徐々に音量を上げていきますから、ご心配無用です」

とのこと。

そのあたりは、「うちのデジタル補聴器はそこらへんの集音器とは違います」というだけのことはあるのだろう。

 

片耳しか入れていないことについても、

「お父さんは聞こえに左右差があります。それで、聞こえている右耳に装着してもらってます。聞こえてないほうに入れると思われるでしょうが、それが違うんです。聞こえるほうに入れるほうが、馴染みやすいんです。聞こえることや補聴器に慣れてきたら、両耳入れてもかまいません。いきなり両耳入れたらうるさいです。それで着けなかったら倍もったいないですからね」

ということだった。

高いお値段もコンサル料含む、と考えて、信じてお任せする。

 

これまでだって、補聴器をつけてみたらどうか、と何度か父に提案したけど、いつも、

「ええわ、いらん」

と話にならなかった。

 

それが、急に前向きになって、嫌がらずに補聴器を着けてくれている。

これは、今回の私の説得が功を奏したのだと自負している。

それはこんな会話だった。

 

サトイモのこと、可愛い?」

「そら可愛いわい!」

「でもあんまり可愛がってないやん」

「可愛がり方がわからんのや」

「だいたい、サトイモの話をちゃんと聞いて、会話してあげてよ。あの子、ずいぶんおしゃべりがうまくなったよ。しりとりが大好きなんやから、一緒に遊んであげてよ。お歌も上手に歌えるようになったよ。可愛いと思うんやったら、歌ってるのちゃんと聞いてあげて。お父さん、あの子の声、ちゃんと聞こえてる?」

 

私がそう訴えたとき、父は珍しく、

「そうやな。これからはちゃんと聞く」

と答えた。

父にとってサトイモは未来そのものなのだ。

 

昨日、補聴器の調子を尋ねたら、

「これ着けたらな、セミの声が聞こえたんや。こんなにセミが鳴いとったんやな」

と父が言った。

うるさいほどの実家のセミの声が聞こえてなかったとは驚きだ。

父に、自然の音に気付くだけの感受性が残っていたことが、なんだか嬉しい。

とはいえ、もう夏も終わり。

この秋は、父にコオロギの声が聞こえるだろう。

葬儀と法事とお値段と

7月26日に母の告別式を終えてから、あっという間に1か月以上が過ぎ、もう四十九日を終えた。

 

その間、お盆に夫が帰国して、サトイモの登園拒否がウソのように治まるなどいろいろあったけど、何より毎週土曜日に行われる七日ごとの法事が心の大半を占めていた。

 

夫は全くの無宗教だ。

それはポリシーではなく、これまで縁がなかっただけで、アメリカにいたときは「週末ヒマやから日曜に教会でも行ってみたろか」と言ってみたり、マレーシアではピンクモスクに観光するのにイスラム教の洗礼を受けてみたり、根付くものがないだけなのである。

だから、子供の頃から仏壇に親しんだ私とは感覚が違う。

「四十九日まで毎週法事なんて聞いたことない。そんなんするん田舎だけや。せんでええんちゃうん? 坊主を儲けさすだけやで」

と夫は言う。

一理あるかもしれないけれど、私としては、母のための法要を「せんでええ」とは失礼な、と気を悪くした。

 

折しも統一教会の多額のお布施が話題である。

「宗教団体にそんなに払うなんて、バカだねぇ」

と客観的には思うけれど、結局自分は葬儀のあとお坊さんにそれなりの金額を渡したのだった。

枕経、通夜式・告別式の読経、法名、還骨法要、初七日法要、それら一式として、25万円。

伯母に尋ね、お寺さんにも直接相場を聞いてみて、私自身が決めた金額だけれど、最初は高額なのにビックリした。

あとで葬儀屋の仏事アドバイザーにも確認してみたけれど、「まあ妥当なところでしょう」ということだった。

夫はそれを聞いて、「俺のときは無宗教でええわ!」と言っている。

 

統一教会問題ともシンクロして、宗教とは何かを考える夏になった。

 

癒やしの火葬場

告別式の日から宗教行事を振り返ってみる。

お葬式というと会館での葬儀のことばかり考えていたが、告別式の日は場所を転々として儀式が続いた。

 

告別式のあとは、棺が火葬場へ運ばれる。

火葬場は葬儀場の隣だけれど、それでも霊柩車が使われた。

霊柩車へは父が乗り、サトイモがボクも乗りたいと言ってダダをこね、大泣きした。

乗れないとわかると、今度は「ママだっこして〜!」とまとわり付く。

しかし、私は遺影を掲げて和装で歩くのだから、抱っこできるわけがない。

結局、従兄弟のお兄ちゃん(といっても来年還暦)に抱っこしてもらって、火葬場まで行く。

 

火葬場はとても新しくて美しい建築物だった。

広々としたホールには意味もなくうっすらと水がはられていて、静謐な雰囲気をたたえていた。

なんとなく、テレビで見たムスリムの影響を受けたスペインの宮殿を思い出した。

とても美しかった。

親族を亡くした人じゃないと来れない場所だと思えば、来れてよかったなぁという観光気分になる。

 

そういえば、母の火葬代は18,000円だった。

母の葬儀費用は約百円。

もし葬儀をしなかったとしても、この火葬代だけは絶対にかかるのだなぁ、と思う。

人は裸で生まれる。

裸で死んだとしても、最低18,000円はかかるわけだ。

 

火葬場で母を炉に入れたあと、焼き上がるまで会館に戻って食事をし、4日間滞在した葬儀場を引き払い、再び火葬場に戻ってお骨上げをする。

実は私はお骨上げ初体験。

これがどこの骨なのかとスタッフが説明をしてくれるのをホウホウと聞く。

母方の親戚も一緒に来てくれたが、お骨を拾う儀式は主に父と私。

普段から箸の持ち方が変で、箸が苦手な私。

皆の見ている前で、儀式用の長くて四角い箸で骨を拾わないといけないのが、落としそうで緊張した。

 

無事母が骨壷に納まったら、そのままのメンバーで実家へ。

そして、一旦荷物を置き、伯母二人に留守居をしてもらって、残りのメンバーは還骨法要のためお寺へ。

 

当初、私はこの儀式がわからなかった。

骨上げをしたら、お寺に行って還骨法要をしないといけないのも知らなかったし、法要が終わって家に帰ってきたとき無人ではダメだといえことも知らなかった。

帰ってくるお骨を迎え入れてくれる人が必要だと言われても、キョトンだった。

 

告別式さえ終わったら、私と父でなんとかなると思っていた。

何かと葬儀は人手がかかる。

昔は葬式があれば村が総出で手伝ったというのもわかる。

でも、これだけ地域や親戚付き合いが薄くなった現代、伝統的な「○○しなきゃならない」ができない家も多いだろう。

 

お寺でもらったもの

親戚の車2台に乗り合って、姫路にあるお寺に行き、還骨法要と初七日法要をした。

開始前に、お坊さんがお焼香の仕方と、喪主から順にお焼香をするように説明があった。

 

還骨法要のあと、

「続けて初七日法要を行います」

とお寺さんが読経を始める。

しばらくして、親戚がザワザワし始めた。

喪主が動かない。

喪主が最初なので、お焼香が始まらないのだ。

 

見ると、父は目をつぶってじっとしている。

「喪主!喪主!」

と、叔父が小声で声をかけても気付かない。

本堂内も一応ソーシャルディスタンスを取っているので、聞こえないのだ。

「お父さん!お焼香!」

私が父のそばまで行って肩を叩いたら目を覚ました。

…コントか?

 

法要終了後、お茶とお茶うけのお菓子を出していただいた。

住職にお礼のお金をいつ渡せばいいのかわからず、私がまごまごしていると、向かいに座っていた叔母が小声で、

今渡したらええやん」

と助け舟を出してくれた。

お布施については、渡す金額も迷うけれど、渡すタイミングも難しい。

 

やることが済んで気楽にお茶を飲みながら雑談していると、住職が紙を一枚と日めくりカレンダーを出してきて父に渡した。

紙は中陰忌日というタイトルで、四十九日までの法要スケジュールが書いてあった。

二七日、三七日、…と7日ごとに法要がある。

私が仕事をしているため、土曜日に設定してくれていた。

 

日めくりカレンダーも、四十九日の満中陰までを数えるための日めくりで、一日ごとに仏教コラムがついていた。

「毎日これをめくって、お線香をあげてください」

と住職が言う。

「これお仏壇の部屋に置いとくから、お父さんやってね」

と私が言うと、

「いや、せえへん」

と父。

「めくるだけですからね。めくって故人がなくなった日を数えてください」

住職が諭すが、それでも父は、

「せえへんなぁ」

と頑なだ。

「せえへんじゃなくて、それくらいやりなさいよ!」

と私は悲しくなる。

(日めくりカレンダーは実家に置いていてもやっぱり父がめくらなかったので、結局私が持って帰ってめくっていた。)

 

「仏教のこと、浄土真宗のことはどれくらいわかっとってですか?」

と住職が尋ねるので、

「いえ、全然」

と父も私も答えると、

「これあげよ。ええ機会やから勉強したったらよろし」

と住職が奥から本を持ってきて渡してくれた。


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浄土真宗門徒モノ知らず

本のおかげで、浄土真宗がどういう宗教なのか、ようやく入口だけわかった。

これまで全然知らずに仏壇に手を合わせていたのだなぁ、と思う。

 

そこで一番意外だったのは、仏事はすべて生きている私達のためのものだということだった。

浄土真宗の教えでは、死んだらすべての人が仏となって浄土(「天国」ではない)に行くので、死後のことは心配もケアもしなくていいのだそうだ。

残された私達の心の安寧のために法事があるという。

 

それでも、私は母のための法事だから、と毎週土曜日には法事をした。

毎回(つまり毎週)、お坊さんにはお布施とお車代を包む。合わせて一万円。

四十九日法要は特別に3万円と御膳料も加わる。

 

そのうえ、父が四十九日には永代供養料を払わないといけないと言い出し、しかもその金額が65万円だというので、一悶着あった。

永代供養料とは何かを調べるところから、金額の相場まで、伯母や葬儀アドバイザーに相談したりして、結局10万円を包むことにした。

こういった宗派や地域で異なる風習・伝統は、ネットで調べても全く役に立たないこともわかった。

 

葬儀はお金がかかる、と言われるが、葬儀屋に払うものよりも、その後にお寺に渡すお金の大きさに驚かさる。

ただ、お寺に払う金額は「気持ち」なので、したくなければやめればよい。

結局、私が「母のために」したかっただけだ。

 

けれど、浄土真宗の教えは、法事は故人のためにするものではないという。

それらのお金は、母のため、と思って払っている「私」の気が済むように払っているわけだ。

 

今日、日めくりカレンダーが最後の一枚になった。

通夜式(2)

一連の葬儀の中で、一番の大失敗は通夜膳だ。

思い出すと、今でも落ち込む。

 

というのも、通夜式に参列してくれた父の妹とその息子(私からすると叔母と従兄弟)を、いい調子でおしゃべりしながら駐車場まで見送った。

そのあと、

「しまった!通夜膳の夜食を食べてもらうメンバーだった!!」

と気づいた。

食事に招かないなんて叔母たちには失礼極まりない。

そのうえ、用意した食事2名分(一人五千円)も無駄になってしまった。

 

父に慌ててそのことを伝えたが、自分の妹だからか、

「まあええやろ」

で終わった。

あとで電話したが、叔母も耳が遠く、こちらの本意をうまく伝えられなかった。

私だけが頭を抱える思い。

 

久々の食事会

父方の親戚がそのように帰ってしまったので、通夜膳の席は母方の親戚で占められた。

母の通夜なのだから、それでよいのだが。

 

ごちそうを囲んで、久々の親戚との会合。

「お義姉さん、こうやってにぎやかにする席が好きやったから、喜んでるんちゃう?」

叔母の一人が言った。

私が子供の頃は、盆に正月にお彼岸にと、しょっちゅうこんな会合を持っていた。

私達子供が独立してからは、夫婦4組でよくシニア旅行にでかけていた。

仲の良い親戚に見えていた。

なのに、母が病気になって以降、すっかりと疎遠になった。

 

懐かしさもあってか、父はごきげんにしゃべっていた。

「宮崎県に新婚旅行に行ったときや。夜寝る前に、『1つだけ言うことがある。オレより先に死ぬなよ』言うたら、『はい』言うたんやけどなぁ!」

母に対する父の「ちょっといい話」。

でも、なんかありきたりの、どこかで聞いたような話で、父らしさも母らしさも感じなかった。

 

「楽しいなぁ!皆でごはん食べるんも久しぶりやもんなぁ!」

ふと見ると、父は日本酒を1合飲み干し、2本目を開けようとしていた。

「飲んでるん?!車で来とうくせに!?」

「今日は泊まったらええ」

「泊まるって、着替えとか持ってきたんか!」

「持ってきとうへん」

「どないするん」

「着替えんでもええやろ」

 

叔父や叔母たちも、

「まあまあ。今日くらいかまへんやん」

と私をなだめる。

しかし彼らは、一昨日椅子を濡らすほど父がおしっこを漏らした前科を知らないから、そんな呑気なことを言えるのだ。

喪服を汚されたら、明日の告別式をどうすればよいのか。

 

「それやったら、早めにトイレに行きなさい。今すぐ!」

と私。

「大丈夫や」

「大丈夫なことあらへん。行きなさい。」

「行っても出えへん」

「それでも行くだけ行き」

「いや、大丈夫や」

「一昨日の夜、自分がどんな失敗したか、よう考えてみ!皆の前で言うたろか!」

 

そんな私と父のやり取りを聞いていた叔母たちが、

「なかなかしぶといなぁ」

「子供やったら言うこと聞くのにねぇ」

と笑う。

うちは子供も言うこと聞かないけどね、と思いながら、父を無理矢理に立たせようとした。

が、酔いが回り、すでに足が立たなくなっていた。

 

仕方なく、会館の来館者用車椅子を借り、叔父に手伝ってもらって父を乗せた。

サトイモが喜んで押して行こうとする。

叔父とサトイモとで、父をトイレに連れて行ってもらった。

 

夏の花火

会食が終わった後も、叔父たちに父を車椅子で親族控室へ運んでもらった。

「和室の座布団の上に転がしとうけど、明日まで寝かしとってもかまへんやん」

そう言って叔父たちは帰っていった。

 

しかし、喪服を着たままでは、汚されたら困る。

私は急いで父を叩き起こし、喪服を脱がせ、会館備え付けの作務衣のようなパジャマに着替えさせた。

なんとかまだ汚れていない。

「大丈夫や。酔うてへん」

そう言って父はまた眠った。

 

父が寝て、会館のスタッフが帰ったあと、私とサトイモは駐車場に出て、手持ち花火をした。

母の祭壇からマッチとロウソクを借り、空いたペットボトルに消火用のお水を用意した。

 

誰もいないだだっ広い駐車場、隣は火葬場と墓地。

考えてみるとちょっと怖いけれど、サトイモはそんなこと知らない。

夜ふかし、火遊び。

うれしくてしょうがない。

初めての手持ち花火を存分に楽しんだ。

 

花火は人生みたいに、はかない。

 

喪主は粗大ゴミの如く

いつまでも父を畳の上で転がして置くわけにはいかない。

幸い、親族控室にはベッドが一つあって、前日には私とサトイモはそこに寝た。

この夜は、脚の悪い父をベッドに寝かせ、私達は布団を敷いてねよう。

そう思い、父を起こしてみると、ズボンの股のところが盛大に濡れていた。

 

…やってしまった。

 

「濡らしてるやないの!!」

私が目をつり上げて怒ると、

「これのどこが濡れとんや〜」

と父はフラフラして立ち上がった。

やっとの思いでズボンを脱ぐ。

紙オムツが股からぶら下がるほど、尿でパンパンだった。

漏れるのも当然だ。

 

それにしても、父が、

「大丈夫や、漏れてへん」

と言い張る。

何を言っているんだ?!?

こんなに漏れてるのに?!

「漏らしたパンツで、大丈夫なわけないでしょ!明日告別式やのに!」

「ほんなら、家帰るわ」

「帰れるか!」

 

パジャマの替えはあるけど(葬儀会館はホテル並みにアメニティも整っていた)、パンツの替えがない。

家に取りに帰るにしても、買いに行くにしても、鍵を持っていないし、会館を無人状態にできない。

夜遅く、サトイモを連れても出られないし、残しても行けない。

 

父は平気で帰ると言うけれど、フラフラの老人が夜中に車を運転して帰るなんて、事故率100%に近い。

しかも、タプタプのオムツでは、座っただけで座面を濡らしてしまいそうだ。

その証拠に、ベッドの端にちょっと腰掛けただけで、シーツにシミがついた。

慌ててバスタオルを重ねて敷いて、ベッドが汚れないようにする。

バスタオルからはみ出ないようにと父に言い聞かせて、とりあえず寝かせる。

 

父を寝かせてからも、替えのオムツをどうするか、悩ましくて頭を抱えながら眠った。

親戚の誰かに、告別式に来る前にドラッグストアで買ってきてもらおうか。

それとも、朝、葬儀屋のスタッフが来たらすぐに、サトイモを連れて買いに走ろうか。

 

浅い眠りについてしばらくすると、父が起きてきた。

「帰って着替えてくるわ」

昨夜とは違って、少ししっかりしている。

「いつのまにこんなに漏らしとったんかな? 全然覚えてないんや」

と父。

 

そうか、昨夜は、漏らしたのかどうかすら判断できないほど酔っ払っていたのか…。

眠ってスッキリしたのか、一応シッカリしていたので、父を信頼して家に帰すことにした。

父は朝5時に、会館のパジャマのまま帰っていき、葬儀スタッフが来る前にちゃんと戻ってきた。

やれやれ。

通夜式(1)

湯灌のあと、母の兄弟とその配偶者一同が来てくれて、お供物の段取りの確認をした。

私の喪服について、従兄弟の配偶者が着付けが得意だというので、通夜と告別式の両日とも着付けを頼むことに。

そして私とサトイモは葬儀会館に泊まり、父は家に帰った。

翌日の25日は、17時から通夜式である。

 

通夜式の準備が始まるまで、昼間は時間に余裕がある。

実家で洗濯していたサトイモの服を一旦取りに帰ったり、サトイモが蚊にかまれたのでかゆみ止めを買ったりするため、外出することにした。

 

外出するといっても、会館を留守にするわけにはいかないので、留守番のため父には早めに来てもらった。(父は喪主で当事者なのだから、「もらう」という表現はおかしいのだが。)

やってきた父は喪服を着てきたが、ジャケットを脱いだ姿を見て、

「あれ? お父さん、そのシャツ、白じゃないよね?!?」

と気がついた。

「そうか?黄ばんどんや」

「でっかい食べこぼしのシミがついとうし」

「ネクタイで隠れるやろ」

「そもそも半袖シャツやん。式服ちゃうやん!」

「脱がへんかったらわからへん」

「参列者ちゃうで!喪主なんやで!!」

 

やれやれ。

出かけるついでに白いシャツ買ってくるよ、という私に、

「買わんでええ。これでええ」

と父が言い張るので、私がどやしつけた。

「誰のための葬式や!自分の葬式やったらヨレヨレの服着てええけど、お母さんの葬式やで!最後くらいちゃんと見送ってあげてよ!」

怒鳴られて父は不承不承黙り込んだ。

 

父の車を借り、サトイモを乗せて、実家に、紳士服屋に、ドラッグストアにと用事を済ます。

ドラッグストアでは、ついついあれこれ買いこむ。

サトイモは、入り口にあるアンパンマンのガチャガチャを目敏く見つけ、

「これほしかったやつ、こんなところにあったよ〜!」

とねだる。

ふだんは、ガチャガチャをさせない主義で、「ばあばと行ったときにさせてもらいな」とお姑さんに奢ってもらうよう押し付ける私だったが、この日ばかりはサトイモの甘えを許した。

 

ふと、子供用の手持ち花火が目についた。

「ねぇサトイモ、花火、買ってあげようか」

「うん!」

 

神戸の自宅周辺では、手持ち花火ができる場所がない。

道路や公園などのパブリックスペースではおしなべて禁止されている。

でも、いつかどこかで、夏の思い出として花火をさせてやりたいなぁ、と思っていた。

 

葬儀会館の周辺は、隣が火葬場、その隣が墓地という絶好のロケーションで、やたらと広い駐車場がある。

幸い、弔い用のマッチとロウソクもある。

「お通夜が終わったら花火をやろう!」

と私は一番お手軽な値段の手持ち花火を買った。

 

通夜式

通夜に母の同級生たちが来てくれたことが、私にとって一番うれしいことだった。

母の兄弟たちは、集まっても自分たちの話ばかりで、ほとんど母を偲ぶ話をしてくれなかった。

でも、わざわざ来てくれた同級生たちは、自分たちが知っている、若い頃の母の話をしてくれた。

 

その中に、母の高校時代の恋人がいた。

認知症が軽く進んできた頃、判断力を失ったのかボケたのか、母は私に、

「本当はMさんと結婚したかったのに、親に反対された。今でも親を恨んでいる」

という旨の話をしたことがあった。

同級生として、通夜に来てくれたMさんにそのことを伝えた。

「当初はふられたと思って落ち込みました。ずいぶん経ってから、親御さんに反対されたと聞きましてね。それも若い日の思い出です」

とMさんは語ってくれた。

そんなふうに思い出を持ってくれている人が来てくれたことがうれしかった。

 

お姑さんからお供物が届いていた。

それを見た父が、

「あれはお義母さんか?」

と尋ねる。

「わざわざ悪いな」

昔の田舎の感覚からすると、配偶者である夫の不在に加え、その親類関係が全く参列していないのはちょっと不自然に感じるはずだ。

ただ、親戚たちに尋ねられても、今は「コロナ禍なんで」で済ませられるのはありがたかった。

それを差し引いても、うちの父は私が籍を入れたことに関して全く興味がない。

娘婿についてもよくわかっていないのだから、その親についても何ら関心がないのだ。

 

職場からも供花が届いた。

「あれはなみ松の会社か?」

と父。

「なみ松はまだ仕事行っとったんか」

…衝撃の発言。

私に興味がないのは知ってたけど、そこまでとは。

そりゃあ、どんなに私が体調を崩しても、毎回「サトイモは元気か」としか尋ねないわけだ。

 

式自体はつつがなく終えた。

サトイモも、始まるまでは走り回っていたものの、始まると着席して静かにしてくれた。

一応、私と一緒にサトイモもお焼香をした。

お寺さんがお経を読んでいたとき、退屈して口でブーブー鳴らしてふざけ始めたが、エスカレートする前にお経が終わり、父がたどたどしく挨拶をして、式はすぐ終わった。

 

 

 

 

臨終の2日目

母が亡くなった夜、ひしひしと感じたのは、人手不足、労働力不足だった。

葬儀のことは私しか動けない。

サトイモの面倒は見ないといけない。

取るものもとりあえず神戸を出てきたので、不足しているものも多く、自分のことですら容量よくできない。

そのうえ、葬儀とかお寺とかしきたりについて、私自身の知識と経験がなさすぎる。

 

銀行などにある遺産相続相談のチラシに、「ご遺族は悲しむ暇もなく事務的な手続きに追われ…」という文章が書いてあったけれど、本当にそのとおりで、もっと母のことを考えていたいのに、本当にそんな暇はなかった。

 

途方に暮れる感覚に襲われながら、ふと頭に浮かんだのは、サトイモの児童発達についての書類に出てきた、自立についての話だった。

「自立というのは、自分一人で何でもできることだけを言うのではない。できないことがあれば、周りの人に助けを求めることができることも自立の一つ」

サトイモは発達支援教室で、できないことに対して「せんせいてつだって」と適切な場面でヘルプを言う練習をしている。)

 

そこで、私は2人に助けを求めた。

 

喪服という遺産

まず一人頼ったのは、K叔母だった。

K叔母は母の弟K叔父の配偶者である。

K叔母は京都府丹後半島出身で、実家は丹後ちりめんの帯を作っている工房だった。

その縁で、K叔母から紹介してもらった呉服屋さんから、母はいくつか着物を買っていた。

 

「あんた、訪問着こさえたったからな」

母はいつも唐突に、欲しくもないものを買ってやったとおしつけがましく言うのだった。

「訪問着?!そんなんいつ着るん?着付けもできへんのに!」

「訪問するときに着たらええやんか。どこなと着て行ったら?着付けは自分で習たらどう?」

母自身も着付けができないくせに、よくそんなことを言った。

 

喪服も、そのパターンだった。

「あんた、葬式用の喪服も作っといたったで。親の葬式にワンピースはあかん。着物着とかな恥ずかしいで。これから、お父さんのときとお母さんのときと2回は着れるからな」

 

そう言われていたのだから、母の葬儀で着ないわけにはいかない。

そのために、2年前着付け教室に通ったのだが、すっかり着方を忘れてしまった。

喪服はどこにあるか確認をしていたものの、いざ出してみると、ニ枚ずつある。

どれがどれなの?!?

どうやら夏用と冬用だと思われるものの、間違ったら目も当てられない。

 

そこで、K叔母に連絡することにした。

連絡するのに腰が重かったのは、母が病気になって以降、うちの父とK叔父・K叔母との関係がギクシャクしていたからだ。

それでも、勇気を出して電話をしてみると、叔母は快く、うちまで見に来て着物を確認してくれることになった。

 

午前中やってきたのはK叔母と、母の兄の配偶者Y伯母の二人だった。

Y伯母はしきたりに詳しいので、K叔母がわざわざ連れてきてくれたのだった。

 

着物や小物を見さだめながら、二人でにぎやかに仕分けをしていってくれた。

コーリンベルトがない、とわかると、K叔母は家から持ってきてくれると約束してくれた。

 

草履を出したときに、Y伯母が、

「たか松さんはピーズのええ草履を持っとったよ。これでもええけど、それ履いたらどう? どこにあるかわからへん?」

と私に尋ねる。

「ビーズの草履ですか?」

「そう、ピーズの草履」

「ビーズの」

「ピーズの」

伯母がビーズをピーズと発音するのが気になってしょうがなかった。

伯母、85歳。

からしたらピーズはロックバンドでしかないんだけど。


伯母が言う、母が持っていた素敵な「ピーズ」の草履は、結局靴箱には見つからなかった。

母の着物箪笥のほうにあるのかもしれないけれど、探すのも大変だ。

正直、良い品とかオシャレな品を身につける余裕は全くなかった。

やりこなすことで精一杯。

 

着物の仕分けが終わったあと、伯母が、

「そしたらなみ松ちゃん、あれ、替えとこか」

と床の間を指差した。

お正月のときのまま、「百福」の掛軸が掛かっている。

「あ。確かにまずいですね」

 

そのあと、二人に手伝ってもらいながら、押し入れから法事用の「南無阿弥陀佛」の掛軸を探し出して、掛けかえ作業。

一人ではこんなことできなかった。

 

伯母が言うには、葬儀の後、皆でお寺に行って、そのあと家に戻ってくるから家(仏壇周り)を片付けておかないといけないらしい。

そのときは、なんでお寺に行くのか、そのあと何が家に来るのか、伯母が言っている意味がさっぱりわからなかったが、あとで伯母のアドバイスどおりだったことが判明する。

 

伯母たちが来ていたその時間、父は何をしていたかというと、のそのそと起きてきて、ダイニングでタバコを吸っていただけだった。

伯母たちの挨拶に適当に相槌を打つ。

しかし、感謝とか申し訳なさはない。

またもや、

「見舞いに行ったかて、しゃべられへんのやから」

と母の最期のことを言っていた。

 

サトイモは、私達がにぎやかに作業する横でグーグー眠っていた。

前日は夜中まで起きていたのだから、昼まで寝ていても仕方ない。

「寝かしとき寝かしとき」

と伯母たちが言うので放っていたが、伯母たちが帰ってから後悔したのは、サトイモがオネショをしていたのがわかったときだ。

取るものも取りあえず出てきたから、着替えも乏しい。

ゲンナリしながら慌てて洗濯し、布団の始末。

 

親友の助け

もう一人、助けを求めたのは中学時代の親友。

 

こんなときばかり友達を頼るなんて、と申し訳なく思いながら、Jちゃんにラインを送った。

この日は午後から、葬儀屋が「末期の儀」と呼ぶ湯灌の儀式があるし、葬儀の段取りについて、まだ打合せも残っている。

火葬許可証の申請に必要な死亡診断書の手続きや、遺影に使う写真選びなど。

その時間、少しサトイモを見ていてくれる人がいてくれたら、どんなに助かるか。

 

友達は快く引き受けてくれて、かけつけてくれた。

日曜でよかった、と思う。

このとき、友達と会えただけで、私の緊張が少し和らいだ。

昨日以来、たくさんの人と言葉は交わした。

病院スタッフ、葬儀屋スタッフ、お寺の住職、親戚たち。

会話だけれども、それは用事でしかない。

父やサトイモは、一緒にいても「話」が通じない。

連絡をした親戚たちは心が遠い。

Jちゃんが来てくれて、やっと「私」を知ってくれていて、そのうえで言葉が交わせる人が来てくれた気がした。

孤軍奮闘していた中で、唯一の味方。

本当にありがたかった。

 

Jちゃんは母に丁寧に手を合わせてくれたあと、2時間ほどサトイモを預かって、兵庫県立こどもの館に連れて行ってくれた。

あまつさえ、彼女の息子さんが使っていた絵本やおもちゃを探して持ってきてくれた。

私は彼女に何もしてあげてないのに、と後ろめたく思う。

 

こういうとき、サトイモはなかなかおりこうさんで、人見知りをすることもなく、ワガママも言わず、興味津々でJちゃんの車に乗り込んで出掛けて行った。

困らせる言動もなかったという。

帰ってきても、

「Jちゃんはすごくやさしいねぇ〜」

と上機嫌だった。(いまだに、「Jちゃんはやさしい」と口にする。)

好奇心旺盛で、非日常に強いところはサトイモの大きな長所である。

 

末期の儀

15時から、湯灌が始まった。

母の遺体をお湯できれいに洗って、着せ替えてくれる作業。

作業、というか儀式なので、ヒシャクで母の身体に清めのお水をかけたり、綿棒で口に水を含ませたりする。

 

この水が生前の悩みや苦しみを洗い流す、と言われると、いっぱいいっぱいかけてあげたい気持ちになる。

ところが、

「喪主様からどうぞ」

と言われても、父は椅子に座ったきり、

「ええわ」

と手を振る。

ええわって何やねん…。

仕方がないので、

「代わりに私が」

と全部の行程、私が2回ずつ行った。

 

その後、母はキレイにお化粧をしてもらった。

死にたて(!)のときと比べて、なんと美しくなったことか。

ポカンと開いていた口も閉めてもらう。

さすがプロ!

自然な光沢のあるアイメイク、今どきのツヤ感あるリップカラーで、思わず私も同じメイクをしてもらいたくなった。

 

そして、これが最後かもしれないので、手を握らせてもらう。

冷たいけど、まぎれもない母の手だった。

再び泣き崩れる。

 

そののち、遺体はきれいにお棺に納められ、私達が過ごす親族控室にやってきた。

お棺の中には保存のためにドライアイスが入っているので、決してアクリル板を開けないようにと言われる。

これを開けて中の二酸化炭素を吸ったために、死亡事故を起こした人がいるらしい。

冗談のようなホントの話。

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そして、一緒に過ごす夜は2日間。