3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

チャウ・シンチーの『人魚姫』には痛覚がない。

「最近の小さい子はどんなアニメが好きなの?」
と、幼稚園児のお母さんである友達に尋ねると、
「うちの子はディズニープリンセスが大好きなのよ」
という答えが返ってきた。
なるほどなるほど。小さい女の子らしい可愛い趣味だ。

しかし私はディズニープリンセスの映画をひとつも見たことがない。
だいたい、聞くところによると原作とずいぶん違うっつーじゃないですか。

「しかしまあ『ラプンツェル』なんて、あんな残酷な話がよく映画になったね」
と重ねて私が尋ねると、彼女が話す映画のストーリーと、私の知っている『チシャ菜姫』(ラプンツェル)は全く異なっていた。
えっ? 王子は塔から突き落とされて目をつぶされないわけ?
しかしそれよりもっと驚いたのには、人魚姫である『リトルマーメイド』のラストだった。
なんで?
なんでめでたしめでたしになってんの?
ディズニーめ、なんでもハッピーエンドにすりゃあいいと思うなよ!!

私の手元に、中原淳一『七人のお姫さま』という本がある。

七人のお姫さま

七人のお姫さま

主人公がお姫様の七つの童話(親指姫、人魚姫、白雪姫、白鹿姫、雪姫、シンデレラ、ポストマニ)に、中原淳一の愛らしい挿し絵がついた絵本だ。

どこの店だったか展覧会会場だったか、装丁の美しさに惹かれてこの本を手に取った。
しかし、購入の決め手となったのは『人魚姫』が入っていたことだ。

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『人魚姫』の物語は、ほかのお姫様童話と一線を画す。
人生経験のない子供よりも、何回か失恋を繰り返した大人の女の方が心に沁みる。

何といっても、他のお姫様と比べて人魚姫は能動的だ。
冒頭からして、王子に助けられるのではなく、逆に助けちゃう、という強さと勇敢さ。
恋する王子に逢いたいために、魔女の薬を飲んで尾ひれを脚に変え、激痛に耐え、魔女に舌を取られて声も失うという激情。
王子を助けたのは自分なのに、勘違いでよその女に王子を取られるという悲劇。
王子を殺せば元の人魚に戻れるのに、自ら泡と消える選択をした切なさと虚しさ。

何この童話、中島みゆき?!
アンデルセンすごすぎ!!
と、今振り返っただけでも彼女の痛々しさに悲しみが込み上げてしまう。
これほど激しい恋心と痛々しい片想いの童話はないはずだ。

そんなわけで『人魚姫』は私の特別な童話なのだけれど、今週から元町映画館で『人魚姫』が上映されているので観に行った。

www.ningyohime-movie.com


なんと、監督は『少林サッカー』のチャウ・シンチーだというではないか。
西遊記~はじまりのはじまり~』では史上最悪最低かつ最もゲスい孫悟空を登場させた監督のことだから、『リトルマーメイド』以上にアンデルセンの人魚姫とは別物なのはわかっている。
わかってるけど、あの悲恋がチャウ・シンチー流のコメディにされてしまうのか…、と思うと、若干の抵抗感はぬぐえない。

決してチャウ・シンチーが嫌いなわけではない。
だから覚悟のうえで見たけれど、良くも悪くも予想通りのコメディ映画だった。
笑えることは笑えるし、ヒロインもとても可愛らしい。
「半人半魚」の説明を聞いた警察官が似顔絵を描くシーンなんかは思わず吹き出した。(皆さんも、何が半分半分なのか想像してみて。)

人魚というか魚人たちはCGで描かれ、それなりのファンタジー映画にもなっている。
カンフーこそなかったけれど、アクションシーンもある。

しかしハリウッド大作と比べるとCGに若干の見劣りがし、そのちゃちさに懐かしさをかんじるほどだ。
まだネットで動画を見ることが少なかった時代、中華圏ではVCDという動画を見るためのCDが普及していたのだけど、この映画は映画館のスクリーンで見るより、正規か海賊版かわからないVCDで見るほうがしっくりくるかんじがする。
それくらい、なんとなーく古くさい。
わざと‘やや古’感を出すように、チャウ・シンチーが仕掛けているのかもしれない。
でなかったら、オープニングとクライマックスに『ドラゴン怒りの鉄拳』のテーマを使わないかもね。

ストーリーとしてはこんなかんじだ。
大金持ちで実業家のリウは、買収した湾を埋め立てるために、ソナーを使って海洋生物を排除しようとしていた。
ソナーのせいで湾の行き場を失った魚人族たちは、主人公シャンシャンをリウ暗殺の刺客として送り込む。
ニートラップなはずが、二人は恋に落ちて…、というかんじ。

人間に変装させるため、ナイフで人魚の尾びれをサクッと切って脚にする。
そこには、本家の人魚姫が持つ決死の覚悟はない。
変身ではなく変装なので痛みもない。
本家の人魚姫が、歩くたびに刃の上を歩くような激痛が走るのとは大違いだ。

途中も、仲間のタコ男が脚を鉄板で焼かれたり、ナイフでタコの脚が切断されたりするシーンが出てくるけれど、深刻なものではない。

クライマックスでリウが身体をはってシャンシャンを守るときでさえ、超人のごとく痛みが少なかった。
胸に矢が刺さって貫通しているのに歩き続ける、人間の不思議なことよ。

魚には痛覚がないというのは俗説らしいけれど、どうもチャウ・シンチーの映画には痛覚がない。
確かに、いちいち痛みを感じていたら、笑えるものも笑えないとは思う。
例えば、『トムとジェリー』でトムがぺっしゃんこになるたび身体的苦痛が伝わってきたら、笑えるどころか辛くて見ていられなくなるだろう。

身体的苦痛はまあなくてもいいとしても、心の痛みもほとんどないのはいかがなものか。
物語中には、二つの三角関係が出てくる。
タコ男はシャンシャンのことが好きなようだし、リウには事業上のパートナーでもあった実業家の彼女ルオランがいた。
ルオランはあからさまな怒りを爆発させるけれど、単なる腹立ちにしか見えない。
恋の悲しみが感じられないのだ。

そもそも主人公二人は、人間と人魚という生物学的な壁を悩むこともないまま、くっついてしまう。
実にアッケラカンとしている。
悲哀も何もなく、頭を動かすとカランカランと音が鳴りそうに軽い。
だから笑えるんだろうなぁ。

この映画、中国歴代興業収入第一位、アジア歴代収入第一位なのだそうだ。
日本ではミニシアター上映なのに?
中国人にとって、いったいこの映画のどこが魅力だったんだろう?

ひとつ考えられるのは、バカバカしくて笑えるコメディの中に、拝金主義VS環境保護というテーマが感じられることだ。
まさに今、中国が抱える二つの社会問題。
お金よりも美しい海とキレイな空気。

ていうか、中国ではラブストーリーよりお金の話、お金の話より環境問題が深刻!ってことなのかしら。
いずれにせよ、原作どおりの悲恋だったら、中国ではヒットしなかったかもしれないね。