『牯嶺街少年殺人事件』の少女は孤独だった。
大学の勉強なんて意味がない、なんてことを言う人がいるけれど、私はそうは思わない。
どんなものでも使いよう。
大学の講義だってそうで、今でも印象に残っている講義のひとつは「芸術論」である。
友達が誘ってくれて受講した講義だった。
大学時代の私の履修表は、必修科目と教職免許用の科目でギチギチ。
講義は選ぶというより、単位を取らないといけないものを必然的に取っているだけだった。
けれど、その友達は、
「この授業、面白そうだから一緒に取らない?」
と、まるで映画でも選ぶように履修科目を選んでいた。
そのせいで逆に彼女は必修科目の履修が危なかったけれど、学びたいことを学ぶ、という点で彼女の履修方法のほうが正しいと、今では思う。
「芸術論」はその最たるもので、日本文学科の私たちには受けても受けなくてもいい講義だった。
彼女に誘われるまで、私はその講義の存在も、そんな学問があることすら知らなかった。
その学期の「芸術論」のテーマは第七芸術、つまり映画だった。
『戦艦ポチョムキン』や『市民ケーン』など映画のシーンを見ながら、モンタージュやクローズアップ、光と影の使い方など、その半年間で映画に使われる技法を体系的に教えてもらった。
フェリーニやゴダールみたいにアングラ・サブカルな映画監督はそれまでにも知っていたけど、イングマール・ベルイマンやエリック・ロメールはその講義で初めて知った。
そしてロングショットの傑作として紹介されたのが、『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』だった。
「3時間もある長編なので見るのは大変ですが、人生の中で絶対に見ておかないといけない映画のひとつです」
担当の教授がそう言ったのをよく覚えている。先生の名前は忘れたけど。
その後、レンタルビデオ店でこの映画を借りた。
当時はまだDVDではなくてVHSで、しかも長いから1本に入りきらずに2本組だったと記憶している。
ところが、その長い映画を見ていると、途中でついつい眠ってしまうのだ。
何度トライしても寝てしまううちに一週間が来て、最後まで見れずじまいで返却してしまった。
『牯嶺街少年殺人事件』はいつか見なきゃいけない映画のストックに入ったまま年月は流れていったのだけど、とうとう4Kレストア・デジタルリマスター版が元町映画館で上映されることになった。
ちょうどいいことに、元町映画館のスタンプカードがたまったところだった。
スタンプが5つたまったら、1回無料で映画が見られるのだ。
だったらこれで決まり!と、喜び勇んで元町映画館に行ったのが先週の火曜日。
退社が遅くなったので走って映画館に向かい、上映開始時間ぎりぎりに到着した。
「スタンプカードがたまったので、これで!」
と息を切らしながら差し出す私に、
「特別上映になっていますので、スタンプカード適用外なんです」
とムゴイ返答が。
「火曜日はレディースデーで1,100円ですよね?」
「いえ、それも適用外なんです。当日2,200円になります」
「えっ!?!2,200円!?」
「4時間近くあるんで」
「上映時間の長さですか?!?」
記憶では3時間ちょっとの作品だったと思ったけど、どうやらレストアされてさらに長くなっているらしい。
それにしても、長いから高いなんて!!
わかるけど、映画ってそういうもんなの!?
20年以上の期間を経て、ようやく全編を通して見ることができた『牯嶺街少年殺人事件』。
自分でも驚いたのは、「芸術論」で見たつもりの、少年が少女を刺すシーンが記憶と違っていたことだ。
刺すまでを長回しにしている昼間のシーンだったと思っていたのだけど、全くの記憶違いだった。だとしたら私は何の映画と勘違いしていたんだろう?(長回しのロングショットで少年が少女を刺すシーンがある映画。わかる方がいたら教えてください。)
ほんと、私の脳は嘘ばっかり。
今回はあらかじめ眠気覚ましの薬を飲んでいたので、バッチリ覚醒状態で鑑賞できた。
でも、若い私が眠くなったのもよくわかる。
登場人物が複雑で、台湾に関する基礎知識がないと混乱するような部分が少なくないからだ。
中国語を勉強したり台湾のことを知ったりしたから今では理解できることもあるけれど、学生時代の私では全くわからなかったはずだ。
例えば、主人公の名前は張震(俳優の名前そのまま!)だけれど、みんなからは愛称で「小四」と呼ばれている。
これだけで「ああ、この子は兄弟の中で4番目なんだな」とわかるけれど、知識がなければなんで張震=小四なのかわからないだろう。
同じ仕組みで、お兄さんは「老二」と呼ばれていて、上から2番目。
「老」はビッグブラザー、「小」はリトルブラザーという意味なのだ。
老二がビリヤード場に行ったときに、「この若造が『老二』?」と笑われるシーンがあるけれど、それをからかわれているのである。
あと、名前ということでいうと、バンドのヴォーカルをしている友達の王茂が小猫王と呼ばれていたっけ。
「猫王」はエルヴィス・プレスリーのことだから、「小猫王」はリトル・エルヴィス。
ただ、発音すると王茂は「ワン・マオ」、「猫王」は「マオワン」だから、発音が似ていることの遊びも入っているんだと思う。
また、昔の私に教えてあげたい重要要素は、当時の台湾の歴史的背景と、「外省人」と「内省人」の問題だ。
当時の台湾と日本と中国の関係を知らなかったら、彼らがなぜ日本風家屋に住んでいるか、とか、お父さんがなぜ尋問を受けたのか、とか、そのあたりがわからずにムニャムニャと夢の世界に入ってしまうに違いない。
少年が少女を刺すナイフは、小猫王が自分の家の屋根裏で見つけたものだった。
それが、かつての住人だった日本人の、「日本の女が自決をするための小刀」だったということに意味がある。
この映画は人によって良いと思う部分が違うような気がするけれど、私はどうしたって被害者の少女・小明のことを考えてしまう。
少年たちと違って、彼女は女友達もいなさそうだし、母子家庭(←たぶん)なうえ母親が病気という家庭環境だ。
楽団の演奏を背景にして、小四が彼女に「君を守る」と宣言するシーンは本当に甘酸っぱい素敵なシーンだけれど、人生に冷めている彼女にしてみたら、鼻で笑ってしまうような子供の世迷言だったに違いない。
刺される直前、彼女は小四にこう言う。
「私を変える? この社会と同じ、何も変えられないのよ」
彼女の孤独を誰もわかってあげられないまま、彼女は逝ってしまった。
たくさんの男性が異性として彼女に好意を寄せたけれど、彼女の理解者は一人もいなかった。ハニーでさえ。
小四は彼女のことを愛したかもしれないけれど、そんなのは小四の勝手であって、小明は知ったこっちゃない。
その証拠に、小四は何度か「自分勝手」だと言われている。
自分が好きなことで精一杯で、小明が持っている世界が見えていなかったからだ。
ま、少年には無理だと思う。
彼女が医者や少年たちと性的にどこまで何をしていたかは明らかではないけれど、彼女の身体を手に入れたとしても、彼女の心を手に入れた人は誰もいなかったはずだ。
映画を反芻すればするほど、
「僕は君の希望になる」
と言った小四の言葉が虚しく響く。
小明はきっと、「なれるわけないじゃん」と寂しく思ったに違いない。
小四が一生懸命になればなるほど、小明は冷めたに違いない。
「簡単にそんなことを口にできる子供に、いったい何ができるの?」と。
小明の気持ちは、ほとんど語られないし説明もないので、これは私の勝手な想像でしかないけれど、少年と少女は全く異なる生き物だということだけは当たっているはずだ。
そうそう、思い出した。
昔、睡眠学習で夢うつつにこの映画を見たときに唯一得た教訓は、
「モテすぎると刺される」
だった。
少女の皆さんに、この教訓は今でも通用すると思う。