3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

喫煙者と嫌煙家のヤマアラシのジレンマ

最近、映画やドラマで人が死ぬシーンが、自分が追体験したように感じられてすごく怖い。

切られるとか撃たれるとかは何でもないんだけど、溺れ死ぬのを見ると息苦しくなって恐怖を感じてしまう。

 

私がオカルティストだったならば、

「きっと私はかつて溺れ死んだことがあり、それがトラウマになっているのだ」

と、前世の記憶をたどるかもしれない。

前前前世では僕は きっと溺れ死んでたよ~、なんて歌ったりして。

 

幸い私はオカルティストではないので普通に考えてみた。

切られたり撃たれたりしたことはないから、その痛みや苦しみがどんなものかわからないけれど、呼吸ができない苦しさは、息を止めれば簡単に体験できる。

溺れたことはなくても、水泳で息継ぎができないときの苦しさも知っている。

これまでの経験から、映像の中の水死の苦しみがリアルに感じられてしまうのだろうと思う。

 

ていうか、私は毎週、息ができない苦しみを味わっている。

 

父がタバコを吸うとき、または吸ったあとの部屋に入るときは、ずっと息を止めているからだ。

 

父はところかまわずタバコを吸う。

本来、脳梗塞後は禁煙するようにと医者から止められているにもかかわらず、タバコをやめる気は一切ない。

最初は隠れて吸っていたものの、だんだんと平然と吸うようになった。

 

世の中のお父さんたちは、外で吸ってくれたり、換気扇の下で吸ってくれたりするが、うちの父は傍若無人である。

せめて換気扇を付けるように何度も注意した結果、最近では換気扇のスイッチは入れてくれるようになった。ただし、よく忘れるのでそれすら完璧ではない。

 

何より、病気で身体が動かない母に副流煙を吸わせたくないのだが、

「お母さんのいるところで吸わないで。お母さんに煙を吸わせないで」

と注意しても、

「換気扇付けとうやんか」

と換気扇のスイッチが免罪符のように主張するので腹立たしい。

 

週末の夜、リビングで両親が二人並んでテレビを見ている際、

「私、お風呂入ってきてもええかな? お父さん、その間お母さんをよろしくね」

と頼むことがときどきある。

たいして何をしてもらうわけでもない。

私が入浴している30分程度の間、一緒にいてくれたらいいだけだが、父はそれすらまともに務めてくれず、母を残してどこかへ行ってしまうこともしばしばである。

どこか、といっても、庭へタバコを吸いに行くか、タバコを買いに行くかだ。

「たった30分程度やのに、なんでじっとしてられへんの!?」

と怒った翌日、今度は母の隣でタバコを吸っていた。

席を外すな、と私が怒ったせいだろう。

でも、そっちのほうがやってほしくなかった…。

 

父が肺を患って死ぬのは本人の勝手だ。

肺がんでも肺気腫でも、好きになればよい。

けれど、家族の健康を考慮してくれないのは問題だ。

血管に対するタバコの害悪は世間的にもよく知られていること。

母は心筋梗塞を患ったことがあるのだ。

kenko100.jp 

 

「逃げることもできへんお母さんの横で、平気でタバコを吸うなんて!」

と私が怒鳴ると、父は、

「タバコ吸うてもええか、って訊いたけど、お母さんはアカン言わへんかったで」

と答えたので余計に腹が立った。

返事ができない母に対してそれはないじゃないか。口がきけない相手に対して卑怯すぎる…。

 

ただ、思い返せば、母は父のタバコに対していつも、

「お母さんは慣らされとうからかまへんよ、我慢するわ」

と寛容だった。

けれどそれは「我慢」なのだ。

タバコを吸いたいのを我慢する「我慢」と、煙を吸いたくないのに吸わされる「我慢」は、果たして同じ「我慢」なのか?

 

相手を苦しめる行為をする。

そこに愛なんかない。

家族を守るどころか、平気で苦しめる父は何なんだ、と思ってしまう。

タバコを吸う父に対して、

「うちのお父さんは、私やお母さんが病気になってもかまわないんだな。大切に思ってないんだな」

としか思えない。

タバコに火が点くとき、私の心に悲しみが積もる。

 

若者には信じられないことだろうが、昔は電車や映画館の中でも喫煙可能だった。

私が入社したときのオフィスでもだ。

隣の席の人はチェーンスモーカーで、タバコに火がついてないときがないほどだった。

それが普通だったし、それを毛嫌いするほどのこともなかった。

 

そう、当時は私も煙が平気だったのだ!

 

けれど、世間の空気がどんどん澄んでくるにしたがって、タバコの煙がだんだん耐えられなくなってきた。

もともと喉が弱いので、ちょっと煙を吸うとすぐに喉が痛くなってくるし、ひどいときには気分が悪くなり、頭痛がしてくる。

きっとタバコの毒性に耐性がなくなってきたんだろう。

魚に例えると、ドブ川に住んでいた頃は汚水に慣れていたけれど、水がキレイになって清流に暮らしてしまうと、元のドブ川に戻ったら死んでしまうようなものだ。

 

あるとき、若者や女性が吸っているタバコの煙は父の煙ほど臭くないな、と気が付き、タバコの銘柄を変えてもらったらどうか、と思いついた。

父が吸っているタバコはピース。

「ピースってキツイんちがうの?」

と訊くと、

スーパーライトやで」

とドヤ顔で言う。

しかし、スーパーライトでもタールは6mg。

これを1mgに変えてもらえないだろうか、と頼むと、

「どんなんがあるんかわからん。買うてきてくれたらそれ吸うわ」

と言う。

 

だったら、私が選んで1mgのタバコを与えればよい。

私が一番苦しくない煙のものを選べばよいのだ。

…と、スーパーで見てみたものの、弱ってしまった。

同じような箱がずらりと並んでいて、何が違うのかさっぱりわからない。

メビウスのタール1mgだけでも種類がありすぎる。

ボックスとかインパクトとか何ですかそれは。

レジのところにあり、とてもじゃないけれどレジ係に、

「これとこれは何が違うんですか?」

と訊けるはずはない。

とりあえず、適当に3つ買ってみた。

 

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買ったものを父に吸ってもらったけれど、やっぱりタバコ臭いことには変わりなかった。

タールの問題じゃなかったのか…。

自分が門外漢なので、何がどうなのか見当もつかない。

本人は美味しくなさそうだし(やっぱり吸い慣れたピースが良いらしい)、私の喉はラクにならないし、出費しただけで何もいいことがなかった。

 

父に副流煙健康被害について知識がないというのもあるけれど、父は私がタバコの煙を嫌がるのを「私のワガママ」だと思っているフシがある。

単に嫌いなのではない、喉の痛みや頭痛があるのだ、と訴えても理解してくれない。

吸っている自分が平気なのに、周りが苦しむなんて想像もつかないようだ。

 

おそらく、世間の喫煙者のほとんどが父と同じだろう。

「なぜ嫌がられるのか理解できない、吸わない奴のワガママではないか」

と、どこかで思っているんじゃないか。

喫煙者が差別されている、と自分たちを被害者だと感じているかもしれない。

 

こうなると、喫煙者と嫌煙家の溝は深まるばかりだ。

けれど、根本原因は、嫌煙家がどれだけ苦しんでいるかがわからない点にあるのではないか。

将来の健康への悪影響を説いても、先のことすぎて感覚的にはピンとこないのもあるだろう。

でも、「今ここにある苦しみ」をまず理解してほしい。

 

タバコの煙を吸わないようにするため、私はリビングやキッチンで息を止める。

隣の部屋まで行って息継ぎをして、また戻って冷蔵庫から物を取り出したり食器を片付けたり、用事を済ませる。

息ができずに苦しんで苦しんで窒息寸前、それでも我慢する。

タバコの煙を吸って長時間喉の痛みを伴うより、数分息を止めるほうがまだマシだから。

 

私だって、タバコの煙を吸っても平気だった昔に戻りたい。

そうすれば喉も痛まず、咳も出ず、頭痛もせずに済むから。

でも、もう清流に住んだ魚は、ドブ川に戻れないんだ。