3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

日本を滅ぼす傲慢

7月下旬にNHKで『AIに聞いてみたどうすんのよ!?ニッポン』という番組をやっていて、興味深く見た。
AIからの「提言」となっていたけど、実は後先が逆で、データ分析から読み解ける一見関係なさそうな事象の関連性の指摘、という「結果論」だったと思う。
(どうやら、2017年9月2日(土)午前0時55分(1日深夜)に再放送があるみたいなので、興味ある方はぜひ。)
www6.nhk.or.jp

その中でも「40代ひとり暮らしが日本を滅ぼす」という提言がネット上で賛否両論を巻き起こしていたみたいだけど、40代ひとり暮らしの当事者としては、
「そりゃあ私みたいな人間が増え続ければ日本も滅ぶだろう」
と納得してしまった。

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それは、子供のときに、
「結婚なんかしたくないし子どももほしくない」
と思ったときから感じていたことだ。
家事も子育ても介護も全部女性が押し付けられて、それでも「女のくせに黙ってろ!」と言われる。
もし本当に40代ひとり暮らしが日本を滅ぼすならば、
「結婚して母になることは、幸せなことではない」
と小さな女の子に思わせた上の世代が悪い。
願わくば、これからの若い人たちには、家庭を持ったり子供を持ったりすることに夢が持てる日本になってほしい。

40代ひとり暮らし当事者としては、
「日本は滅ばば滅べ!」
としか思わないけれども、結婚もせず子供も産まずにいたことに少し後ろめたさを感じてしまうのは、母がずっと「孫がほしい」と呪文のように唱えていたせいだ。
結婚だの孫だの言われるとうっとおしくて、
「そんなに孫がほしいなら自分で産め!」
とよく憎まれ口を叩いたものだ。

40代になると、もう誰からもそんなことを言われない。
心底せいせいしているけれど、それでもどこかで、社会的責任から逃れてラクをしてしまったような後ろめたさを感じてしまうのだ。
「家事や子育ての苦労から逃げて生きている」ように感じてしまう罪悪感。

特にそう考えてしまうのは、子供の貧困問題について聞いたり見たりしたときだ。
私みたいに働いた分を全部お小遣いにできる大人がいる一方、日々の食べ物にも困っている子供がいると思うといたたまれない。

かといって、
「貧乏な子供はいねーがー、泣いてる子供はいねーがー」
なまはげのように援助が必要な子供を探すわけにもいかない。
ボランティアに行く時間はないし、寄付を継続してできるほどはお金持ちでもないので、私ができる範囲といったら限られている。
何がしてあげられて、何が本当の助けになるのかもわからない。

だいたい、ラクがしたくて面倒が嫌で「結婚問題」から逃げた私に、他人様に何をしてあげられるというのだろう。

あるとき、「最近そんなことを考えてるんだ」、と、ミッション系の私学で教師をしているクリスチャンの友達に話すと、
キリスト教では、ホームレスへの炊き出しとかの奉仕活動をするとき、『してあげてる』のではなく『させてもらう』と考えるんだよ」
と教えてくれた。

その話を聞いたとき、私はすぐには理解できなくて、ずっと胸の途中でつかえていた。

誰かに何かをするということ。
「してあげる」という、傲慢さについて。
わかったようでいて、わからないでいた。


ふいにそのことを思い出し、急に納得したのは、今週の終戦記念日のこと。

Twitterを見ていたら、例のごとくネトウヨの皆さんが「先の大戦」を聖戦と呼んで、NHKが戦争関連のドキュメンタリーを放送することを反日行為だと叩いていた。

そんな一連のツイートの中で、おや?と思ったのは、
「アジアの国では、西欧列強の植民地から解放してくれた日本に感謝している国も多い」
というような記述だった。

真否はわからない。
どう感じたかは、その国の人の声を聞かなければわからないし、人によっても違うだろう。
日本軍の侵攻を感謝した人もいただろう。なんとなく迷惑に思った人もいただろう。激しく憎悪した人もいただろう。

受け手がどうであれ、軍隊を送り込んでそこを戦場にした日本が、
「助けてやった。感謝してもらっている」
なんて、絶対に思ってはいけない、と私は思う。

百歩譲ってアジア解放のための戦争だったとしても(それは政治的タテマエで本当は違うと私は思うけど)、「西欧列強から助けてやった」と考えた瞬間から、その傲慢さは恥になる。
「助けてやった」を、「してやる」ではなくて「させてもらう」に言い換えた場合、「助けさせてもらう」という奇妙な日本語になって、言葉として成り立たない。
となると、「助けてやった」は、受け手のことを考えない「押しつけ」でしかない。
小さな単位で置き換えると、「手伝いに来てやった」という姑を、「迷惑な侵入者がやってきた」と感じる嫁みたいなものか。

考えれば考えるほどに、「他人に何かをしてあげる」ということの傲慢さがお腹にストンと落ちてきた。
だから、他人に何かをするときは、「してあげる」のではなく、「させてもらう」という謙虚な気持ちじゃないといけないのだ。

もしいつか、私が子供の貧困とかの社会問題とかに対して何かするときがあったら、それは単に、罪滅ぼしをさせてもらっているだけだ。
だって、私は日本を滅ぼす害獣だもの。