3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

胎児の鼻筋

初めて読んだ寺山修司は、学校の図書室で借りた『愛さないの、愛せないの』という詩集だった。 

 

愛さないの、愛せないの (ハルキ文庫)

愛さないの、愛せないの (ハルキ文庫)

 

 
おそらく本のタイトルとも関連している『十五歳』という詩に、高校生だった私は心酔してしまった。
(検索したら、こちらに全文が載っていたのでどうぞ。そしてこの方も寺山の入り口は大槻ケンヂオーケン偉大!)

 

十五歳の3倍近く生きてきたくせに、いまだに私はこの詩に共感する。

それでもって、妊娠している今、お腹の子供についてやはり同じ心持ちでいるのだ。

 

寺山が「ぼくに愛せない人なんているだろうか」と書くように、どんな赤ん坊であれ愛しいような気がする日もある。

また、「ぼくに愛せる人なんているだろうか」と書くように、赤ん坊を可愛がる自信が持てない日もある。

 

問題は後者だ。

だいたい、私はこれまで、赤ん坊に全く興味がなかったのだ。
ヒトの赤ちゃんより仔猫やサルの赤ちゃんのほうがよっぽど可愛いと感じてしまう。
赤ん坊とか赤子とか言ってしまうのも、「赤ちゃん」というのが何か気恥ずかしい。
何なら昔の小説のように「赤さん」と呼びたいくらいだ。

 

そう思う度、うちの子は不憫だなぁ、と悲しくなってしまう。
両親から望まれて望まれて生まれてくる赤ちゃんがいっぱいいるのに。

 

特に金曜日の夜は、そう感じる日が多い。
実家に帰る電車で帰宅ラッシュに揉まれ、帰ってからは母の介護をしていると、お腹が張って苦しくなってくる。
マタニティマークをつけていても、混雑する新快速電車の中では立ちっぱなしだし、帰宅してからは母のおむつ替えや食事の世話で休憩していられない。

 

あまり無理をすると切迫早産になる危険性があると聞くので、私も気にはなる。
下腹がキューッと痛くなるとやばいらしい。

まだ下腹が痛くなることはないけれど、お腹全体が張ってイテテテ、となっても休めないときには、気持ちに余裕がなくなる。

そんなときは、お腹に向かってこんなふうに叱りつける。 

「こんな程度のことで切迫早産とか死産なんかになるなら、最初から生まれてこようとするな! うちは厳しい状況なんだぞ! 甘えんな! 生まれてきたかったら自分でしっかり育ちなさい! わかったか!」

…まったく不憫な、うちの赤さん。


胎児超音波検査

先週の水曜日は、胎児超音波検査の日だった。
超音波で胎児の発育に異常がないか調べる検査だ。

いつものエコーのちょっと丁寧版、といったかんじだけど、調べる内容が違う。
私の内臓を見るのは現代医学的に普通のことだけれど、私のお腹にいる赤ん坊の内臓のサイズまでわかってしまうのだから恐れ入った。

 

これまで4回診察を受けたけれど、4回とも違う先生で、今回は若くて親しみの持てる女性の先生だった。

「わかりますか、これがお顔ですよ」

黄土色の粘土がぐにゃぐにゃしている映像の中で、言われてみればなんとなく顔のようなものが浮かび上がってきた。

 

「あっ!ちゃんと顔ができてる!」

初めて顔を認識できると、子供が育ってるんだなぁと実感がわいた。

「手をこうやって額にあてて、お口を開けてますね」

先生がそう教えてくれた赤さんの顔は、鼻筋がすっと通っていた。
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可愛い!

よかった、私もちゃんと、子供を可愛いと思えてる!

 

映像は毎回プリントアウトしてくれて、USBにも記録してもらえる。

プリントアウト画像の中でも、私が一番気に入ったものを彼氏に見せた。

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「これが一番可愛いと思うんだけど」
と言ったら、
「これのどこが顔かもわからん」
と言われてしまった。

「ここに、すっと鼻筋が通ってるでしょ?!』
と説明しても、
「早くも親バカ」
と取り合ってくれない。

 

そうか、私は親バカか。

子供を愛せないより、親バカのほうがよほどマシ。

私のひばりも、飛び立とうとしている。