3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

母の転院

母の転院は1日仕事だった。
雨降りだったから余計だったのかもしれない。

朝9時に元の病院に行って荷物を片付け、精算や退院手続き。
会計は父に行ってもらった。
看護師さんたちに、私が今妊娠9ヶ月で、早産の危険性があるため本来は安静にしないといけないという事情を話し、できるだけ座らせてもらう。

10時に介護タクシーが出発。
ストレッチャーが入る車で、母は寝たままの移動。
車椅子でもいいんじゃないかと思うけれど、病院側の手配なので仕方ない。
持っていく荷物のほとんども、一緒に積み込んでもらい、私も同乗した。
父には家の車で追いかけてきてもらうことになった。

移動中のタクシーの中で、母は久しぶりに見る外の景色をじっと眺めていた。
私は運転手さんと少し世間話をしながら、母の手を握っていた。

会話がふと途切れたときふと思い立ち、運転手さんに、
「音楽をかけてもかまいませんか?」
と声をかけ、スマホ美空ひばりの曲を再生した。
「お母さん、聞こえる?」
返事はしなかったけれど、母は少し笑顔を見せた。

病院に行けば、もう音楽を聴く機会もなくなる。
私がお見舞いに行けるならイヤホンで聴かせてあげられるけれど、私以外そんなことをしてくれる人もない。
気付くのが遅かったから、病院に到着するまでたった2、3曲しか聴けなかったけど、少しは楽しんでもらえただろうか。

移動方法は元の病院が手配してくれたので何も考えなかったのだけれど、到着したときに運転手さんから、
「7,000円になります」
と言われて、初めてそれが「タクシー」だと思い知らされた。
ストレッチャー付だし、ベッドからベッドまでの乗り降りまで介助してもらったのだから、高いのは仕方ない。
けれど、事前に費用について聞いていなかったので、少し驚いた。
何にしてもとにかくお金がかかり、費用については何の事前連絡もない。
病院というところは患者のフトコロにまるで配慮がない。


病院に到着してからが本番

元の病院は設備の整った病棟だった。
しかも、2年ほど前に増築したばかりの新館にいたのでなおさらだ。

それに比べると、転院先の病院は建物も老朽化しているうえ、設備も不足していて、どうしても見劣りがした。
同じ4人部屋でも、今度の病院には仕切りのカーテンすらなく、私物を置けるのはキャスター付のキャビネットひとつとカゴひとつだけ。
とても足りない気がしたけれど、荷物を入れてみると案外余裕で納まった。

ここでも、看護師さんに私が本来は安静にしないといけない妊婦であることを伝えて、椅子を持ってきてもらった。
前の病院ではベッド脇にひとつずつパイプ椅子があったのだけど、ここは病室ごとに丸椅子が1つあるだけだった。

同室の方々は皆寝たきりの患者のようで、テレビの音だけが響く。
のちほど気付くのだが、病棟全体がどうやらほとんど寝たきり高齢者のようだった。
療養病棟というのは、そういうものなのだろうか。

病院から病院への荷物の移動は完了したのだけれど、手続書類関係は父に運んでもらっていた。
ところが、その父がなかなかやって来ない。
病棟の場所がわからずに迷っているのか、それとも転んだり何かあったのかと気を揉む。

その間、母のバイタルチェックとか身体チェックなどが行われ、私は廊下で1人ポツリと座って待った。
看護師さんたちが、母の身体について、
「キレイ、キレイ!キレイやわ」
とやたら言っている。
床擦れや傷がない、という意味なのはわかっているけど、ほめられているみたいで悪い気はしない。

ようやく到着した父によると、近い駐車場が一杯で、第2駐車場に停めたから遅くなったと言う。
もちろんそれもあるだろう。
けれど、父の吐く息からして、タバコを吸っていたせいで余計時間がかかったこともすぐわかった。
最近はどこの病院も敷地内禁煙なので、どこかで車を停めて休憩していたのだろう。

父と書類がやってきたことで、主治医の先生のお話が始まった。


主治医にホッとする

事前に面談をした名誉院長がかつて強制わいせつ事件を起こした人だったので、もし主治医があの人だったら絶対に替えてもらおう、と思っていたが、それは杞憂だった。

主治医の先生は50代くらいの男性で、とても丁寧に治療方針の説明をしてくれた。
わかりやすく、はしょることなく、おごることなく話す態度には誠実なかんじがあって、とても好感がもてた。
私にとって、医者の半数はいつも上から目線で接してくる印象だったので、今度の主治医がそうではない残り半分であったことに感謝した。


話の大半は延命治療

元の病院では毎日昼食に口から食べるリハビリをしてもらっているものとばかり思っていたが、ここ数日はそれもやめていたらしい。
ムセがあり誤嚥の危険性が高くなったからだという。

「肺炎のリスクをとってまで口からの食事を続けるか、安全をとってやめるか」
という選択について、
「鼻からチューブが入ってるせいで飲み込みが悪くなっていることはないんですか? 胃ろうにしたら、飲み込みが良くなることはないんですか?」
と私が質問をしたら、主治医は、
「おそらくそれはないと思います。」
と即答した。

脳梗塞の後遺症など、回復の見込みがある患者であれば、胃ろうにして改善することもあります。ただ、この病気は進行性ですから、昨日までできていたことが今日はできなくなる、明日はもっとできなくなる、ということがありえます。胃ろうにしても鼻からでも、食べる機能が落ちていくことにかわりはありません。」

母はお正月にはおせちも食べた。
救急車で運ばれる日までは、家でごはんを食べていたのだ。
だから、私にはどうしても、母がもう食べる力がないなんて信じられなかった。

母が家にいたのは昨日のことのように思うものの、よく考えれば母が入院してからすでに1ヶ月以上が経過していた。
信じたくないけれど、1月に出来ていたことが3月はできなくなっていてもおかしくはない。

「確かに胃ろうのほうが食事の負担はありません。でも、身体に穴をあけるわけですから、手術は痛いです。血も出ますし、術後しばらく痛みます。胃カメラを飲んでの手術は、高齢の方だと負担も大きいです。」

名誉院長と違って、主治医の先生が語る胃ろうは現実的だった。
長くなるので省略するけれど、主治医は胃ろうを作る手術内容について丁寧に説明してくれた。
「胃ろうは楽」という話ばかり聞いていたけれど、具体的手術を聞くと、身体に穴を開けることが楽なことだけなわけがない。
すでにターミナルケアに入っている母が、そんな痛みに耐えてまで胃ろうを作るメリットがどこにあるだろうか。

「鼻からのチューブについては、交換のときは確かに負担です。でも、ずっとチューブが入った状態に慣れればさほど違和感はないはずです。ピアスの穴と同じですよ。開けたときは違和感があっても、やがて慣れるとピアスをつけていることも意識しなくなるでしょう。」

理屈としてはわかるけれど、身体的に納得できない。
だって、私は去年の健康診断で鼻から胃カメラを入れたけれど、めちゃくちゃ苦しかったからだ。
それを思うと、四六時中鼻からチューブが入っている母が可哀想でならない。

私がそう言うと、横にいた父が、
「俺は鼻から胃カメラ入れたことあるけど、どうもなかったで」
と横槍を入れた。
主治医は、
「個人差もありますけど、年齢もあるんですよ。若い方ほど反応は強く出ます。歳がいくほど感じなくなるもので、高齢の方はそれほどのつらさを訴えられませんよ」
と言う。
星の数ほど高齢の患者を見てきたであろう医者が言うのだ、「若い人が思うほどつらくない」という言葉を信じてみようかという気になった。

 

肺炎は苦しい

突然父が、
「あれは昔から口がいやしかったんです。何でも食べよったんです。あれが食べられへんなんて信じられへん。とにかく、好きなように食べたらええ。それで肺炎になったら、なったときのこっちゃ、…と思うんですけど、あきませんか?」
と言い出した。

そんな父に、主治医はやや驚きながらも冷静に対応してくれた。
「なんで肺炎にならんようにするかというと、肺炎というのはめちゃくちゃ苦しいからです。呼吸困難になるし、熱は出るし、そら苦しいもんです」
「そんな苦しいんですか」
「ずっと息をしている肺が炎症を起こすんです。苦しいに決まってますよ」
そう言われて、ようやく父も、なぜ誤嚥の危険性をやかましく言われているのか理解したようだった。

結局、栄養摂取の着地点は、
「口から食べられるかどうかもう一度トライしてもらい、それでもムセて一口も食べられないようなら諦める。胃ろうはせず、このまま鼻からの摂取でいく」
ということになった。

その後、肺炎になったときの対処、人工呼吸器の対処などについて話し合った。
私からのお願いは、
「とにかく、命を永らえさせることよりも、母に痛みや苦しみがないようにしてあげてください」
ということだけだった。
それについては、父も、主治医も、同意してくれた。


疲れてヘトヘト

その後も、看護師長との確認事項、医事課との事務的な書類手続きなど、やることはまだまだ続いた。
父は横にいるだけで、書類記入どころか返事もせず終始目をつむっていた。

朝寝坊をした父は朝ごはんも食べていないので、お願いをして昼食休憩を取らせてもらった。
私が言い出さなかったら、ノンストップで手続きが続いたことだろう。
すべてが終了したのは午後3時を過ぎていた。

妊婦の私も高齢の父も、心身ともに負担がかかる作業だった。
移動で身体も疲れたけれど、それ以上に治療方針や看護方法の話し合いに疲れた。

その夜、父は11時に寝室に入って、翌日は正午まで起きてこなかった。
よほど疲れたのだろう。

私がいなくて、父だけだったらどうなっていただろうか。
老老介護で、ほかにサポートがないご家庭はどうしてるんだろう?と思うと気の毒で仕方ない。

いや、これからはうちも同じなのだ。
赤ん坊が産まれて1ヶ月を越えるまでは、父1人で頑張ってもらわないといけないのに。
不安が消えることはない。