3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

臨終の1日(2)

葬儀会館に着いて、一息ついたと思ったら、葬儀屋さんから、

「お寺さんには連絡がつきましたか?」

と言われた。

「え? いえ、まだ電話してないです」

と私がキョトンとしていると、

「それではすぐに電話してください。枕経をあげにきてもらわないといけませんので」

と言われた。

 

枕経???

なんだかわからないけど、うちが檀家になっているお寺の名前でネット検索して、電話をかけた。

母が亡くなりまして、と伝えたら向こうはすぐ理解してくれて、すぐ行きます、と答えてくれた。

私が知らないだけで、浄土真宗(西)はそういう仕組みらしい。

 

お寺さんが到着するまで、葬儀屋さんとの打ち合わせ。

何を言っても何を聞いても父は、

「ようわからん」「好きなようにせえ」「なんでもかまへん」

と答える。

私だって判断つきかねることがいっぱいあっても、相談する相手がいない中、ひとつづつ葬儀の内容を決めていく。

 

そんな中、父がいて役に立った場面が一つだけあった。

「家紋はわかりますか?」

「家紋?!」

「参列の方にお渡しする礼状はがきに印刷するのですが」

「家紋ですか…。あっ、母がそういえば、喪服を作るときに五三の桐って言ってたような…」

「それは女紋ですね。女性の方が継いでいく紋です。そうではなくて、波野家の家紋です」

そんなことを言われても、さっぱりわからない。

「お父さん、家紋ってわかる??」

「丸に桔梗や」

丸に桔梗。

これが、唯一父が役立った発言。

 

その後、お寺の住職が枕経をあげにくる。

終わってから少し話し、葬儀屋と通夜と告別式のスケジュール確認をしたあと、お寺さんが、

「ほな、法名を考えときます」

と言って帰った。

なるほど、「葬式仏教」なんて言葉があるけれども、お葬式においてお寺の役割はけっこう大きい。

 

お寺さんが帰ったあと、その後しばらく私達の滞在先となった親族控室に場所を移して、打合せの続き。

棺をどうするか、祭壇をどうするか、母に着させる装束をどうするか、お供物をどうするか、参列者に渡す粗供養をどうするかなどなど、一つ一つ、説明を受けながら決めていく。

 

途中、サトイモが退屈してしまって、邪魔ばかりする。

それも仕方がないことで、夕食をまともに食べていないから(病院の駐車場でアメリカンドッグを食べただけ)、

「おなかすいたよ〜、なにかたべたいよ〜」

とグズるのも当然だった。

しかも、お寺さんが帰った段階でも時間は22時半を回っていて、4歳児がまだ眠くならずに遊んでいるのが不思議なくらいだった。

かわいそうだけれど、私以外に葬儀を取り仕切る人はいないし、私以外にサトイモの世話をする人もいない。

父は何もせず横に座って、何を聞かれても「わからん」と言うだけ。

だったらせめて孫の相手をするとか何かできることもあるだろうに。

 

すべての打合せが終わったときには、時計はもうすぐ午前になろうとしていた。

このまま会館に泊まるか帰るかが悩みどころだった。

葬儀屋も帰るらしく、私達が帰ったら、誰もいない葬儀場に母は一人ぼっちになってしまう。

母を残して帰るのは忍びなく、私は泊まろうかと思っていたのだが、父はしきりに、

「はよ帰ろう」

と言う。

父のその態度が自分本位に思われてめちゃくちゃ腹が立ったが、葬儀屋が一旦部屋を退出したあとに父が椅子から立ち上がったときに、事情を了解した。

 

「お父さん、ズボンが濡れてる!!」

ズボンだけではない、椅子も濡れている。

考えてみたら、母が危篤だと病院に呼ばれて以降、トイレに行くタイミングがなかった。

だとしても、子どもじゃあるまいし、いくらでも席を外してトイレに行くことはできたはずだ。

しかも、父はリハビリパンツを履いているから、何回分かの尿は吸収できるはずなのに。

なんで?!?

なんで椅子まで濡れるほど漏れた?!

絶句したが、やってしまったものは言ってもしょうがない。

母には本当に申し訳なかったけれど、家に帰ることになった。

 

これが母が亡くなった日の一日目。