3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

宮沢章夫さんの逝去とサブカル時代の終焉

宮沢章夫さんが逝去された。

何度もお別れが言えた母の死より、もう一度会いたいと思いつつ会えなかった宮沢さんの死のほうが、私のショックは大きかった。

8月に宮沢さんの最後のツイートが更新されてから、何回か見に行っては、「次のつぶやきはまだだろうか…」と心配していただけに、「さよなら」が本当に最後になるなんて、冗談にしてもひどすぎる。

死の悲しみというものは、悔いの残り方に比例する。

 

宮沢さんに初めてお会いしたのは約20年前、私が25歳のときで、宮沢さんが講師の関西ワークショップ(以下、関西WS)に参加したときだ。

思えば、関西WSは特別な場所だった。

普通、何かの先生というのは、学校なりカルチャーセンターなり主催する機関があって、それに対して希望者を募るものだと思う。でも、関西WSはそうじゃない。

宮沢さんが京都造形芸術大学の講師として京都在住となることを知って、ネット上で関西のファンたちが「せっかく宮沢さんが関西にいる間に教えてもらうことはできないか」と自主的に立ち上げたものだった。

 

関西WSの発起人でリーダーは、関西で演劇活動をしていたサカイヒロトさん。

場所は、扇町ミュージアムスクエアや劇団☆新感線南河内万歳一座が入っていた建物の屋上等を借りた。

「役者にならないための演劇ワークショップ」とテーマをかかげながらも(だから私のような一般人も参加できたのだけど)、参加者の大半は関西の小劇場劇団に所属している若者か、大学生がほとんどだった。

社会人で演劇人でもないのに参加している私のような人は稀だったと思う。

 

WSを始めるにあたって、先行して下見の会があった。

JR大阪駅の改札口を出たところが待ち合わせ場所だった。

待ち合わせ場所で、私が一番最初に宮沢さんを見つけた。

その頃の宮沢さんは髪が長くて、金八先生みたいなボブだった。

東京の人らしい、シンプルだけどスマートな服を着ていた。

宮沢さんのエッセイに出てくる人物のイメージそのものというかんじがした。

「あ、どうも、宮沢です」

 

みんなで扇町周辺を歩いて、喫茶店に入った。

9人くらいだったと思う。(人数は不正確。実家にある日記を今度調べてみよう。)

店の人にテーブルをくっつけてもらって席を作ってもらった。

すると、宮沢さんが、

「コーヒーを9つ」

といきなり注文するので、

「ちょっと待ってください、コーヒーを飲めない人もいるかもしれないんで、一応聞きましょう」

と私が注文を取った。

今から思えばなんとも生意気な奴だ。

 

あのときの宮沢さんの顔や声など、今でも思い出せる。

なんで思い出せるのかというと、私の中の大事な思い出として、何度も反芻しているからだろう。

WSは週に1回、夜に開かれた。

WSの内容については、宮沢さんのエッセイでもちょこちょこ記されていた。

街の会話の録音だとか「気持ちいいこと」の発見、文章の朗読やダンスのグループ発表など、課題をやるのも楽しく、良い思い出がたくさんある。

けれど、宮沢さんと直接会話したのは数えるほどだと思う。

それだけに、話した内容を何度も繰り返し思い出すから、記憶に定着しているのだ。

 

最後に会ったとき

その後、会うたびに、宮沢さんの書籍にサインをもらった。

私が最後に会ったのがいつかすぐわかるのは、サインのおかげである。


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心斎橋のDigmeoutCafeで行われたトークイベントだった。

対談相手はヨーロッパ企画上田誠さんで、東日本大震災後の表現活動についてがトークテーマだったと思う。

原発事故についての話もあった。 

終了後、原発事故について、彼氏(今の夫)が主張していた、

「家庭では節電できても、工場などは大量の電力が必要であり、電力がなかったら生産が止まってしまう。経済活動のことを考えたら原発は止められないのではないか」

という話を宮沢さんに質問してみたら、

「事故の補償金を含めて考えると原発は決して安くないことがわかるはず。コストのことを合理的に考慮すれば経済界だって原発は割に合わないことがわかっていくはずだ」

というようなことを言われた。

 

なるほどな~、と納得したけれど、その後、日本はジャブジャブお金を使って後始末をし(しかもしきれていない)、それでも割に合わない原発を続けている。

こんな非合理なことがあるのかな、どうも日本はおかしいな、と思うばかりだけれど、もう宮沢さんに尋ねることもできない。

 

その日、ヨーロッパ企画の上田さん、本多力くん、制作のYさんと一緒に、宮沢さんを宿泊先のホテルまで見送った。

それが最後に会った宮沢さんだ。

 

そのあと、一度も連絡をとっていなかった。

私のメールボックスの下書きには、いくつかの宮沢さん宛のメールの下書きが入っている。

特に、NHKの「ニッポン戦後サブカルチャー史」の放送のあとは毎回感想のメールを出そうとして、でも気後れして出せないままだった。

 

サブカルの終わり

ラッパーのダースレイダーYou Tubeチャンネルにマキタスポーツがゲストで出た回で、マキタスポーツがこんなことを言った。

水道橋博士のメルマ旬報が終わって、90年代サブカルは終わった」

 

2022年、水道橋博士参議院議員になった。

今年、唯一喜ばしかったニュースだ。

ただ、マキタスポーツが言うとおり、一つの時代が終わる感覚があった。

だって博士が国会議員だなんて。

 

去年のオリンピックでの、小山田圭吾のクイック・ジャパンでの記事の件から、90年代サブカルとは何だったのか、私自身振り返ってモヤモヤすることが多かった。

その時代から地続きである現在が、こんな暗い時代になっていることがつらい。

 

そのうえ、宮沢章夫さんの死。

ひとつの時代が終ったなと、しみじみ思う。

 

個人的には、母の死があり、宮沢さんと時を同じくして父方の伯父も亡くなった。

偶然、世間様も、安倍晋三エリザベス女王の死によって、時代の転換を迎えている。

日本の没落が、あの安倍国葬で見える形になって表れたみたいに思えた。

法律も作らず、国会で予算も決議せず、三権分立も半数以上の国民の声も無視して行われ、民主主義の葬式みたいだった。

 

2022年の漢字は「喪」一択だな、と思う。

たくさん失って、これから何が始まるのだろう。