3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

父の栄養失調

あんなに孫を見たがっていた父だったけれど、私たちが病院にいる間に面会には来なかった。

今日で息子が生まれて29日目になるけれど、まだ父は孫の顔を見れていない。

 

思いがけず出産することになったので、父には生まれてしまってからメールを送った。

それに対する返信がこれ。

「おめでとう。元気ですか。部屋掃除する」

…どういう脈略で部屋を掃除するのかよくわからなかった。

孫が来たときのために掃除する、ということかなと思うけれど、帰省できるのはまだまだ先だ。

 

その後、電話で連絡をすると、

「また駅員に迷惑をかけたらあかんから、神戸に行くには誰かについてきてもらおうと思とんや」

と殊勝な心がけを口にした。

父の妹の夫(私にとっては叔父)についてきてもらう約束をしているらしい。

けれど、自営業だった叔父は引退した今でも何かと忙しくて、なかなか時間が取れないという。

「しばらく病院にいるから、急がなくても大丈夫だよ」

と言っているうちに、2週間の入院は終わり、退院が決まっても父は来る気配がなかった。

 

「来るなら日を決めて、連絡してから来てよ。いきなり来んとってよ」

と、これまでの父の悪しき行動パターンから私は非難がましく電話したら、

「ちょっと足の調子が悪いんや」

と、父にしては珍しく素直に不調を訴えた。

 

その間も、父はちゃんと母の病院には通ってくれており、お見舞いに行った日には、

「今病院。お母さん元気。ミライくんの写真見せたらウンウン言った」

「お母さん寝ていた。オイと言っても起きない。洗濯物持って帰る」

などなど、メールで様子を送ってくれていた。

心配していた洗濯物も、小さい失敗(よごれ物と洗濯済みの区別がつかなくなるなど)はあるものの、なんとかこなせているようだ。

推奨したコインランドリーは、

「トイレがない使えない。ションベンしたくなったら困る」

との理由で拒否のメールが届いた。

その場で待たなくても喫茶店でも行けばいいって教えたのに…、とは思うけれど、言うだけムダだと思ったので、黙認した。

家でちゃんと洗濯できているなら、それでいいんだし。

 

ケアマネさんからの間違い電話

なんとか父は父でうまくやってくれている、と思っていたところ、父のケアマネさんから電話がかかってきた。

「ごめんなさい、お父さんの携帯と間違ってかけてしまいました。こちらは娘さんの番号でしたね」

と言う。

父のケアマネさんは今年2月に替わったばかりで、まだあまり慣れていない。

前のケアマネさんの引き継ぎのときに、1度だけ会っただけだ。

「何かありましたか?」

「実は最近、お父さんリハビリを休みがちで。今日も先ほどお休みの電話連絡があったそうなんで、様子をうかがおうと思いまして」

初耳である。

理由は足の調子が悪いから、ということらしい。

足が悪いから通ってるリハビリなのに、本末転倒だ。

 

時間をおいてから、様子を尋ねようと父に電話をしてみた。

「リハビリを休みがちらしいやないの。どないなん?」

と尋ねると、

「お父さんな、大失敗してもうた」

と言う。

また転倒してケガをしたり、車をぶつけたりしたんじゃ?!と心配になり、

「一体何を失敗したん?!」

と肝を潰した。

 

「テレビでな、コレステロールを下げる、いう薬をやっとったから買うたんや。4日飲んでな、どうもあれを飲んでから足の調子が悪なったみたいや。高かったのに損した」

 

なんだそんなことか!

「だいたい、なんでコレステロールを下げる薬なんか買うたん?」

「電話で注文するとき訊いたら、コレステロール下げたら脳梗塞にも効く言うたんやけどな」

コレステロールの値が高い人にはそうかもしれんけど、お父さんコレステロールの値は高くないでしょう? 関係ないやん?」

「そうか…」

 

父は、足の調子が悪くなったのはそのコレステロールを下げる薬(父は薬と言っているけれど、おそらくは健康食品)のせいだと言いはった。

またテレビの宣伝にだまされた、と。

 

おそらくは低栄養

私が思うに、コレステロールの薬は原因じゃない。

おそらく、食事をちゃんと摂っていないせいで、父は低栄養状態になっているんだと思う。

母が入院してから、父はセブンイレブンの宅配弁当をやめてしまった。

宅配に来る時間に、病院に行っていて不在の日が続き、配達担当者から小言を言われたのだ。

時間の管理ができない父が悪いのだけど、すねてしまって、

「味も飽きたし、もういらん」

と言い出してしまった。

病院の帰りにスーパーで買ったり外食したりするから大丈夫、と言うので、それを信じて私も注文をストップしてしまった。

結局、何も大丈夫ではなかったのだ。

 

私が毎週帰っていたときには、一応私が食事を作っていた。

だから、曲がりなりにも週末はちゃんとした食事を食べていたのだけど、それも私が帰れなくなって途絶えてしまった。

 

きっと、1日1食、それもインスタントラーメンばかり食べているに違いない。

そんな低栄養状態で、コレステロールを下げたら、調子も悪くなるに決まっている。

 

本人に言うと、

「栄養失調かなぁ」

と自覚たっぷりに呟いた。

昔の人間は「栄養不足」でも「低栄養」でもなく、「栄養失調」という言葉のチョイス。

 

そこで、宅配弁当の再開をすすめたら、しぶしぶ了承してくれた。

リハビリがある日、週に3回だけならさほど飽きないだろうし、病院に行っていて不在ということもないはずだ。

お弁当の種類は、工夫していろんなものを選ぶようにする。

 

「リハビリも休まずに行くように」

としつこく言い聞かせた。

「わかっとんやけどな。どうもあかん」

栄養が足りてないせいで、父の言葉は覇気がなかった。

 

母の病院に行ってもらってるだけありがたいけれど、父にはもう少し自分の体調管理もできるようになってもらいたい。

こっちは赤ん坊を抱えて手一杯なのに。

お爺さんの面倒までみきれない。 

今日がいつなのかわからない日々

産科の病院には、結局18日間入院した。

通常は5日で退院するので、想定外のロングステイとなった。

 

赤ちゃんのことは何もかもわからないことだらけで、病院にいたからこそ、ちょっとしたことでも看護師さんや助産師さんに相談することができたし、毎日小児科医の診察と説明があったので安心できた。

しょっちゅうクシャミをするけれど寒いのではないか、とか、ずっと右目だけ目やにが出ているけど大丈夫か、とか、睾丸の下の皮膚がめくれているけれど痛くないか、などなど。

「退院後は、どんなことでも気軽に電話で相談してもらったらいいですからね」

と看護師さんたちは言ってくれたけれど、クシャミや目やにみたいなことで、いちいち電話をかけられない。

だから、病院にいて雑談の中であれこれ話が聞けたことはラッキーだったと思う。

逆に、たった5日で赤ちゃんと二人きりの生活にさせられたら、どんなに不安だっただろう。

 

寝なくても大丈夫だなんて

「やっと家に帰れますね」

と看護師さんたちは言ってくれたけれど、入院中に引っ越しをしたので、新居は「帰る」という感覚ではなかった。

今日で6日目になるけれど、まだ仮住まいのような心持ちだ。

その理由は不慣れさや身の回り品がまだ段ボールから出てない不自由さだけではなくて、3時間おきに授乳する朝も昼も関係ない生活リズムのせいが大きい。

1日の区切りがあいまいなうえ、ずっと家の中に閉じこもっていると、今日がいつなのか何曜日なのかわからなくなってくる。

 

授乳の合間に1時間くらいの睡眠を3回くらい取れるかどうかという日々。

母乳を飲ませたり搾乳したりするためにずっと自分の胸を見ているので、首がおかしくなったり肩がこったりで、とうとう喉が赤く腫れてしまった。

でも、その程度である。

たった3時間前後の睡眠で20日間以上過ごしてて、それでも元気でいられるなんて。

少し睡眠不足が続いただけですぐ風邪をひいて寝込んでしまっていた私なのに、こんなこと考えられない!

自分でも驚いたことに、ほんの小1時間でも眠れればずいぶんスッキリ回復する。

授乳時間に起きられるようにスマホで目覚ましをかけていても、それまでにハッとなって赤ちゃんが気になり起きてしまう。

きっと、子供を産んだ母親特有のホルモンか何かで身体がそうなっているんだろう。

 

それでも、眠い…。

あれこれ、山ほど出来事があって、できれば記録を残しておきたいと思うけれど、ブログを書いてる時間があるなら眠りたい…。

今は、育児記録を書いておくだけで精一杯。


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そうそう、この育児記録をつけているノートは、いわゆる「神戸ノート」である。


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同じ兵庫県でも播州で育った私は、子供時代、普通にジャポニカコクヨなどのノートを使っていた。

まあそれが全国的に当たり前だと思う。

ところが、神戸の子供たちだけは、昔から現在にいたるまで、神戸ノートという地域限定のノートを使っている。

それが当然だと思っているから、神戸の人たちは恐ろしい。

それを知ったとき衝撃を受けて、大人のくせに面白がって神戸ノートを購入したものの、使い道がなくて新品のまま置いていたのだった。

ここにきて使い道ができ、陽の目を見た神戸ノート。

まだ赤ん坊のうちの息子も、あと7年もすれば神戸ノートを使うようになる。

そう思うと感慨深い。

出生届を出しに行く。

赤ん坊の黄疸の光線治療が終わった日からは母子同室になったものの、赤ん坊は「ミルク飲み」、母親の私は「母乳出し」のトレーニングの日々が続いている。

頑張れ頑張れと励まされながら無理やり目標の量を飲まされる息子は、本来ならまだ妊娠36週目の胎児だった。

お腹にいたなら、何もしなくても胎盤から栄養が送り込まれ、肺呼吸もせず、羊水の中で快適な環境だったにもかかわらず、うっかり生まれてしまったがために、自分で息をし、自分でミルクを飲まないといけない。

自立心が半端ない。

嫌そうにミルクを飲む息子に、

「そうまでして早く生まれなくてもよかったのに」

と私が言うと、授乳のアドバイスをしてくれる助産師さんは、赤ん坊の小さい手を握りながら、

「どうしてもその日に生まれたかったんだよね〜」

と言ってくれた。

そう言われてみれば、きっと何か意味があって出てきたんだろう、という気がする。

 

息子の名前のこと

私の産後の入院は一区切りついて、あとは息子の付き添い入院ということになった。

外出したければ、ナースステーションに届を出せば外へ出られる。

それで、授乳と授乳の合間をぬって、区役所へ出生届を出しに行くことにした。

 

息子の名前は「みらい」にした。

直感的に、配偶者と二人で決めた名前だ。

 

英会話教室に通っていたとき、先生から、

「日本人の名前にはそれぞれ意味がある、と言うけれど、これまで生徒に名前の意味を尋ねてもみんな『特に意味はない』って答えるんだ。一体どうなってるんだ」

と言われたことがある。

私の名前も字画がよかったから付けられただけで、特に意味はない。

だから、息子が海外に出たときに、

「I am the future!」

と自己紹介でツカミができたらいいなぁ、なんて考えた。

 

名付けについては何一つ迷わなかったけれど、出生届を書いていると、

「これを出せば、この子の名前が正式に決定してしまうのだな」

と緊張してしまった。

覚悟を決めるためにも、母子手帳にある名付けのページを埋めた。


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ふと、どうしても息子にこの言葉を贈りたくなった。

明日世界が滅びるとしても

今日あなたはリンゴの木を植える

これは、配偶者が好きな小説家の開高健が好んで使っていた名言で、もとはマルティン・ルターの言葉らしい。

書きながら、その言葉をかみしめていると、なぜかものすごく感動してしまって、涙があふれて止まらなくなった。

悲しいわけでも、うれしいわけでもないのに。

 

産後のヒダチは…

区役所はさほど遠くなく、病院の看護師さんたちからも、

「ゆっくり外出を楽しんできてください」

なんて言われたけれど、いざ出かけてみると、妊婦以上にノロノロとしか歩けず、ひどく疲れてしまった。

産後まだ10日にもなってないのに、うろうろするには早かったかも。


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行き帰りに、散り行くばかりの桜を見た。

急に破水して出産・入院するまでは、まだ咲き始めたばかりだったのに、病院にいるうちにすっかり盛りを過ぎてしまった。

これからは桜の時期になるたびに、息子が生まれたときのことを思い出すかもしれない。 

第4日目の母と子

赤ん坊の仕事はミルクを飲むこと。
我々の仕事はミルクを飲ませることだ。

「もうちょっとお口を大きく開けて〜! は〜い、カプカプしてみよう〜! 美味しいよ〜!」
と、飲む力がまだ弱い赤ん坊に無理やりミルクを飲ませるかんじは、嚥下が難しくなった老母に無理やり介護食を食べさせていたのと同じだ。

励まし励まし、ゆっくり辛抱強く。

ただし、老人介護と決定的に違うのは、赤ん坊はどんどんできるようになっていく。
10ccのミルクが飲めない、と言っていたのに、半日で15ccが飲めるようになり、今日は20ccが飲めるようになった。

すると、目標はどんどん高く設定されていく。

「もうちょっと頑張れ! ゴールは見えてきたぞ! あと少し! ゆっくりでいいから完食を目指そう!ちょっとだけ残すより、 全部飲めたほうが達成感があるよ! やればできる子!」

気の毒に息子は、生後3日目にして目標を背負わされ、頑張らさせられる。
人生は赤ちゃんの頃から努力の連続だったんだなぁ。

順調に成長しているものの、今日は小児科の先生から残念なお知らせがあった。
新生児高ビリルビン血症の検査で値が基準値を越えていたので光線治療を行うというのだ。
いわゆる黄疸治療のことらしい。

これまで新生児治療室にいたので、何人もの先輩赤ちゃんたちが光線治療を受けていたのを知っていた。
だから、「はいはい、うちの子もなんですね」というかんじ。


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ただ、せっかく昨日、初めて新生児治療室を出てお部屋デビューできたのに、また逆戻りである。
しかもまた保育器。
3歩進んで2歩下がってしまった。


私もある意味新しく。

私の方は、沐浴セミナーを受けたり、相変わらず母乳をしぼったりして過ごしている。
今日は産婦人科の検診があった。
体温測定ではまだ毎日微熱があるし、血液検査のあと貧血の治療薬が出たりしたけれど、いたって順調に回復していて、会陰の傷の具合もキレイだと言われた。

自分でもすごく元気だと思っていて、もう妊娠前の状態に戻ったくらいの気持ちでいたりする。
…気持ちだけは。

実際、身体はもう妊娠前の私ではないんだなぁ…としみじみ実感したのが、シャワー室で出産後初めて鏡を見たときだった。

まだ妊娠6ヶ月くらいのお腹回りなのである。

今日の検診で体重測定もしたけれど、赤ん坊が出たはずなのに、体重もさほど減ってない。
ど、どゆこと?!?!

よくダイエットサプリなどのCMで、
「◯人の子供のママとは思えない体型の◯◯さん」
なんて成功者が讃えられているが、そのわけがようやくわかった。

こりゃ元に戻すの相当大変だわ…。

フクフクしているのはお腹回りだけではなくて、ひざ下も象の足のようだと思ったら、こちらはひどいムクミだった。
水風船のごとく、パンパンになっている。

これまでも足はムクミやすいほうだったけど、こんなひどいのは体験したことがない。
しかも、マッサージしてみても全然治らないし、足を上げて寝てみても常に張っていて、朝でもむくんでいる。
母乳のために水分を多目にとっているけれど、身体の循環ができてないみたい。

きっとこれから先の日々も、思いもよらない身体の変化やマイナートラブルが続出するのだろう。
こんにちは、新しい生活、そして新しい身体。

ミルク記念日、おっと、ウンチ記念日

昨日は出産1日目(誕生した日を0日目と数えるらしい)のミッションについて書いたけれど、実は息子はすでに1日目にすでにミルクを飲むことができてしまった。

スポイトで飲み、哺乳瓶で飲めた。
そして2日目の朝には、点滴を外してもらえることとなった。

鼻からチューブだなんて脅されていただけに、ちゃんと口から飲めて、点滴も外れてホッとする。

ミルクが飲めた第1日目はミルク記念日だ!

と喜んでいたら、看護師さんの肛門刺激のおかげで初ウンチも出た。

…じゃ、ウンチ記念日に改定!

日進月歩どころか、分進時歩の早さで成長していく。


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点滴が外れると、2日目の昨日の午後には保育器からも出され、看護師さんたちが「コット」と呼ぶカゴに移された。
まだ新生児治療室の中にいるけれど、出られるのもすぐだろう。


でた!!

赤ん坊も成長しているが、私も変化した。
第2日目の午後、母乳が出たのだ。

まだまだじんわりにじむ程度だけど、電動搾乳器を使っているときに、左の乳頭の上に、小さな小さな水滴の玉を見つけた。

初乳は濃くてクリーム色をしている、と聞いていたが、その小さな水玉は白色で、化粧品で例えると美容液程度の薄さである。乳液やクリームには程遠い。

「なんかちょっとだけ出てきましたけど、汗ですかね」
と看護師さんに尋ねると、
「それ母乳ですよ。ちゃんと出ましたね!」
とのこと。

歩みの早い息子に比べて、ママの成長はゆっくりじんわり。
でも、一歩前進できた!


その頃のパパのお仕事

早産してしまったせいで、私が住んでいたワンルームの引っ越し作業を、すべて配偶者に任せることになってしまった。

やってもらってわかったことは、片付けられない人と片付けられる人の違い。
「仕分けする時間もないと思うから、とりあえず全部詰め込んで持っていって〜」
と言った私に対して、
「仕分けする時間がなかったから、冷蔵庫の中身は全部捨てといた」
と言った彼。
買ったばかりの果物やパックのお惣菜もあってもったいないと思ったけど、やってもらって文句を言うとバチが当たる。

そのほかにも、クローゼットの中身だとか、最後まで使っていた洗面用品など、詰め込み作業もまだずいぶん残っていたので、29日の深夜は徹夜で作業をしてくれたという。
本当に申し訳なくて、もう一生頭が上がらない。

生後1日目の母と子のミッション

早産で生まれたうちの子は、2,064グラムの低出生体重児
けれど、小児科の先生から、
「35週と1日で生まれたとは思えないくらい元気です。ちゃんと自分で呼吸ができていて、酸素も問題ありません。生命力がある子ですよ」
と言ってもらえるほど、順調に育っている。我が子がほめられると、とにかくうれしい。

それなのに、念のために保育器に入れられてしまった。
まだ口からミルクを吸う力がないので、点滴もすることになった。

あんな小さな身体に点滴なんて…、と親としては不憫に思えてしまう。
しかも、どこに針を刺すかというと、手の甲だ。

そして、もしもしばらく口からミルクが飲めないようなら、鼻からチューブを入れて栄養を入れるという。

手の甲の点滴、そして鼻からチューブ!!

おいおい、要介護のうちの母と同じじゃないか!!

なんとか早くミルクを飲めるようになってちょーだい、と願うばかり。
うちの子には、まず「ミルクを飲む」という人生最初の試練が与えられたのだった。


一方、ママのお仕事は…

産休前、世話焼きおばちゃん的な職場の先輩から、
「男の赤ちゃんは弱いんやから、母乳で育てなアカンで! 免疫付けささな!」
と散々言われた。

理屈はわかるけれど、自分の胸から母乳が出る気が全くしない。

だいたいうちの母が、母乳が出なかった人だった。
完全な粉ミルク育ちの私に、母乳を出すことなんてできるんだろうか?

出産後1日目の母親の仕事は、母乳を出すために乳頭を刺激することだった。

「妊娠中に乳頭のマッサージはしてましたか?」
と尋ねられたが、
「予定日はまだまだ先だと思っていたので…。妊娠線予防でお腹にクリームを塗るついでに、バストも塗ってはいましたけど…」
と答えると、看護師は「ん〜…」という反応。

「でも大丈夫です! 胎盤がお腹から出たあとに母乳を出すホルモンが分泌されますから、これからですよ! 頑張って刺激していきましょう!」

神戸市からもらった子育てハンドブックに、「臨月くらいから乳頭のマッサージをしよう」と書いてあって、やらないといけないことはわかっていたし、マッサージのやり方は図解でなんとなくわかったつもりでいたけれど、実際に看護師にやってもらったら全然違っていた。

痛ぁぁっっっっ!!!

遠慮も何もなくギューギューつねられて、痛いのなんの。
マッサージとか柔らかい表現するから誤解してたわっ!!
「乳頭ひねり」と言い換えたほうがいい。

母乳を出すためのホルモンは夜中に多く分泌されるらしく、
「これを自分でもやってくださいね。特に夜中にできればなお良いです」
と言われた。

やる気はあるけれど、自分では強さを少し加減してしまう。
だって、痛いんだもの。

人の手による「乳頭ひねり」とは別に、電動搾乳器による刺激も行われる。
機械のほうは痛いほどではないので、
「搾乳器を15分間やりましょう」
と言われても、素直に「頑張ります」と言える。

電動搾乳器は下記のリンクのもので、やっている姿は相当マヌケ。

どちらにしても、母乳が出るまで乳頭を刺激し続けるのが、私のお仕事。


母乳を出すために

母乳を出すには1にも2にも乳頭刺激なんだけれど、そのほかにも、「水分を多く摂ること」「しっかり食べること」「身体の循環がよくなるよう温めること」を言われた。

出産後1日目の夕食には、お祝い膳が出た。


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食べきれるかなぁ、と思っても、出産後はペロリと食べきれてしまう。妊娠中にはありえなかった量。
このお祝い膳もしっかり完食。

赤ん坊がミルクを飲めるようになる頃には母乳が出ているように、私は私で努力しなければ!

とにかく、1日1日の変化が目まぐるしい。

昨日のお産のこと。

出産後10時間が過ぎたあたりから、トイレには歩いていけるようになった。
それまでは、産後なかなかおしっこが出せなくて、カテーテルで尿を取ってもらわないといけなかった。
産後に尿がうまく出せなくなるのは、まあまあ、あるそうだ。
膀胱にはなんと1,200ミリの尿がたまっていて、カテーテルの処置が終わるまで20分もかかった。

それにしても、初めて入れる尿道カテーテル
入れるときチクチクと刺すように痛かった。
母は今、ずっとバルーンをつけているけれど、カテーテル交換のときは痛いんだろうな、と入院中の母を思う。

お腹に生理痛のような鈍い痛みがあるので(悪露といって生理みたいな出血がしばらく続くらしい)、無理をせずに病室でゴロゴロしている。

赤ん坊が出てくるとき、会陰切開といってあそこを少し切った。
その切り傷の痛みがあって、座るにしても病院から円座クッションを借りている。

ひとくちに「産後のヒダチ」と言っても、いろんな事があるもんだ。
自分が経験してみないとわからないことばかり。


陣痛の乗り越え方

痛かった陣痛から分娩までのことは、今となってはまるで夢の中の出来事のようだ。

でも、想像していたより痛みに耐えられたのは、ひとえに赤ん坊が小さかったおかげ。
あんなに早く生まれないよう言い聞かせてたのに…、と残念に思った反面、軽いお産で済むよう小さいうちに出て来てくれたのかとも思う。孝行息子に感謝である。

それでもやっぱり痛かった。

朝7時くらいに病院に来てから、午前中はまだ痛みの合間にメールしたりブログを書いたりする余裕があったけれど、正午を過ぎてからは息つく暇もなくやってくる痛みに昼食すら食べられなかった。

食事が喉を通らないのではなくて、痛みが静まった隙に起き上がってお箸を動かして一口運ぶうちに、また痛みがやってくるのである。


その頃になってくると、痛みもだんだん強くなってきて、どうやって耐えるかの勝負になってきた。

お産といえば、ラマーズ法の、
「ヒー、ヒー、フーッ」
というのを思い出すけれど、看護師さんからは、
「フーーッ、フーーッ、っと長く吐いてください」
と教えられた。

痛みが来ると、とにかく「フーーッ」と吐く。
それを繰り返して、「フーーッ」の回数を数えてみると、たいてい10回目がピークで、それ以降20回目くらいまでに痛みがおさまった。
個人差があるだろうし、他の人はどうかわからないけど、私の場合はそうだった。
だから20回吐けばおさまる、それまで我慢!と信じて耐えた。

それと、ある時間までは、
「間近になれば、無痛分娩の麻酔処置をしてくれるだろうから、それまでの我慢!」
と思っていたけれど、看護師に尋ねると、
「早産で週数が足りませんから、無痛分娩は適用できませんよ。それと、どちらにしても今日は麻酔医の先生がお休みです。普通分娩で頑張りましょう!」
と言われて大ショック…。早産はわかるけど、先生休みとかの情報必要?!
こうなったら、
「無痛分娩代13万円が浮いたっ!」
と思って、ドケチ根性で頑張るしかない。

フーーッ、と吐きながらもあまりに強い痛みのときは、これまで出産を経験したすべての女性が乗り越えた痛みなんだから、と勇気をもらうことにした。
お母さんも、おばあちゃんも、親戚のおばさんも、友達のJちゃんも、同僚のAさんも、あの人もこの人も、みんなが乗り越えてきたんだ。
だからきっと、私も乗り越えられるはず。
そう信じてとにかく耐えた。


信心は助けになる

だんだん痛みが強くなってくると、20回吐いても痛みがおさまらなくなってきた。
それなのに、
「まだ子宮口が5センチくらいなんで、分娩台に行くには少し早いかな。もう少しここでゴロゴロしときましょうか」
と言われ、まだこの痛みを我慢する時間が続くのか…、とつらくて泣きそうになった。

こうなると、
「すべてのお母さんたちが乗り越えた痛み」
という程度では自分を励ませなくなってきて、もっと心の拠り所になるものはないか、と記憶の引き出しを探した。

拠り所のひとつになったのは、安産祈願に行った中山寺の観音様。
普通は妊娠5ヶ月の戌の日に行くものだけれど、その頃はそれどころじゃなかった。
たまたま2月の祝日が戌の日だったので、配偶者となる彼氏が誘ってくれて、参拝したのだった。
阪神間では超メジャーな安産祈願のお寺、そして祝日とあって、妊婦が列をなして参詣していた。
7,000円のご祈祷腹帯がジャンジャン売れていく。
「中山観音様はボロ儲け!」
と毒づきながらも、せっかく来たんだからとご多分にもれず、私も並んでご祈祷腹帯を買った。
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鰯の頭も信心から。
すごい痛みがやってきて、
「誰か助けて!」
とすがりたいとき、
「中山観音様、お願い助けて!」
と特定の「誰か」を信じて願った。

「少なくても7,000円分は助けて!」
という意地汚い信仰心だけど。(お金のことばっかり言うなって!)


好きなキャラクターは助けになる

拠り所の二つ目として思い出したのは、『北斗の拳』の南斗水鳥拳のレイだった。

ラオウに秘孔を突かれ、余命わずかとなったレイがマミヤの復讐のためにユダを倒しに行く。
だけど、とてもじゃないが日数が足りない。
それで命を伸ばすため、トキに秘孔を突いてもらう。

その秘孔は副作用としてとんでもない苦しみを伴うもので、死ぬほうがマシだというほどの苦痛なのだ。
もがき苦しむあまりにレイの指の爪は剥がれ、髪は真っ白になる…。

あのときのレイの苦しみに比べたら、私のお産の苦しみはまだ耐えられる…。
もがくあまりに爪が剥がれるほどじゃない…。

そう思って耐えた。

レイよりマシ! レイよりマシ!

…人間は痛みや苦しみに耐えるとき、いろんな事を考えるもんだ。


結局は赤ん坊

分娩台に移動した頃には、中山観音様や南斗水鳥拳のレイどころじゃなくなった。

もう何も考えることすらできないくらいの痛み。

最後に頭をよぎったのは、産婦人科の待合室で読んだ『ひよこクラブ』の、
「ママが苦しいときは、赤ちゃんも苦しいんだよ。赤ちゃんも頑張っているので、ママも一緒に頑張ろうね」
という記事だった。

赤ん坊も私以上に頑張って出てこようとしてるんだ!
私も頑張るぞ!

最終的に、心は当然の目的にたどり着いた。

お腹も痛かったけど、腰全般が痛くてお尻も痺れて、途中は横向きでいきむことになった。

おっと、これはフリースタイル分娩!

横向きのままいきんでいると、大きなものが股の間から出てこようとしているのがわかった。

最後は、もとの仰向けに戻って、全力を振り絞った。

「子宮口全開です!」
と言う声が聞こえたときには、勇気が出た。
あとひと踏ん張り!!

私も頑張るから、赤ちゃんも頑張って出て来て!!

赤ん坊は出てきた瞬間、まるで絵本の桃太郎が桃から出てくるように真っ赤な手足を大きく広げていた。

ちっちゃな身体をプルプル震わせながら、カタカナで書くごとく、
「オンギャー!オンギャー!」
と全身全霊で泣いた。