葬儀と法事とお値段と
7月26日に母の告別式を終えてから、あっという間に1か月以上が過ぎ、もう四十九日を終えた。
その間、お盆に夫が帰国して、サトイモの登園拒否がウソのように治まるなどいろいろあったけど、何より毎週土曜日に行われる七日ごとの法事が心の大半を占めていた。
夫は全くの無宗教だ。
それはポリシーではなく、これまで縁がなかっただけで、アメリカにいたときは「週末ヒマやから日曜に教会でも行ってみたろか」と言ってみたり、マレーシアではピンクモスクに観光するのにイスラム教の洗礼を受けてみたり、根付くものがないだけなのである。
だから、子供の頃から仏壇に親しんだ私とは感覚が違う。
「四十九日まで毎週法事なんて聞いたことない。そんなんするん田舎だけや。せんでええんちゃうん? 坊主を儲けさすだけやで」
と夫は言う。
一理あるかもしれないけれど、私としては、母のための法要を「せんでええ」とは失礼な、と気を悪くした。
折しも統一教会の多額のお布施が話題である。
「宗教団体にそんなに払うなんて、バカだねぇ」
と客観的には思うけれど、結局自分は葬儀のあとお坊さんにそれなりの金額を渡したのだった。
枕経、通夜式・告別式の読経、法名、還骨法要、初七日法要、それら一式として、25万円。
伯母に尋ね、お寺さんにも直接相場を聞いてみて、私自身が決めた金額だけれど、最初は高額なのにビックリした。
あとで葬儀屋の仏事アドバイザーにも確認してみたけれど、「まあ妥当なところでしょう」ということだった。
夫はそれを聞いて、「俺のときは無宗教でええわ!」と言っている。
統一教会問題ともシンクロして、宗教とは何かを考える夏になった。
癒やしの火葬場
告別式の日から宗教行事を振り返ってみる。
お葬式というと会館での葬儀のことばかり考えていたが、告別式の日は場所を転々として儀式が続いた。
告別式のあとは、棺が火葬場へ運ばれる。
火葬場は葬儀場の隣だけれど、それでも霊柩車が使われた。
霊柩車へは父が乗り、サトイモがボクも乗りたいと言ってダダをこね、大泣きした。
乗れないとわかると、今度は「ママだっこして〜!」とまとわり付く。
しかし、私は遺影を掲げて和装で歩くのだから、抱っこできるわけがない。
結局、従兄弟のお兄ちゃん(といっても来年還暦)に抱っこしてもらって、火葬場まで行く。
火葬場はとても新しくて美しい建築物だった。
広々としたホールには意味もなくうっすらと水がはられていて、静謐な雰囲気をたたえていた。
なんとなく、テレビで見たムスリムの影響を受けたスペインの宮殿を思い出した。
とても美しかった。
親族を亡くした人じゃないと来れない場所だと思えば、来れてよかったなぁという観光気分になる。
そういえば、母の火葬代は18,000円だった。
母の葬儀費用は約百円。
もし葬儀をしなかったとしても、この火葬代だけは絶対にかかるのだなぁ、と思う。
人は裸で生まれる。
裸で死んだとしても、最低18,000円はかかるわけだ。
火葬場で母を炉に入れたあと、焼き上がるまで会館に戻って食事をし、4日間滞在した葬儀場を引き払い、再び火葬場に戻ってお骨上げをする。
実は私はお骨上げ初体験。
これがどこの骨なのかとスタッフが説明をしてくれるのをホウホウと聞く。
母方の親戚も一緒に来てくれたが、お骨を拾う儀式は主に父と私。
普段から箸の持ち方が変で、箸が苦手な私。
皆の見ている前で、儀式用の長くて四角い箸で骨を拾わないといけないのが、落としそうで緊張した。
無事母が骨壷に納まったら、そのままのメンバーで実家へ。
そして、一旦荷物を置き、伯母二人に留守居をしてもらって、残りのメンバーは還骨法要のためお寺へ。
当初、私はこの儀式がわからなかった。
骨上げをしたら、お寺に行って還骨法要をしないといけないのも知らなかったし、法要が終わって家に帰ってきたとき無人ではダメだといえことも知らなかった。
帰ってくるお骨を迎え入れてくれる人が必要だと言われても、キョトンだった。
告別式さえ終わったら、私と父でなんとかなると思っていた。
何かと葬儀は人手がかかる。
昔は葬式があれば村が総出で手伝ったというのもわかる。
でも、これだけ地域や親戚付き合いが薄くなった現代、伝統的な「○○しなきゃならない」ができない家も多いだろう。
お寺でもらったもの
親戚の車2台に乗り合って、姫路にあるお寺に行き、還骨法要と初七日法要をした。
開始前に、お坊さんがお焼香の仕方と、喪主から順にお焼香をするように説明があった。
還骨法要のあと、
「続けて初七日法要を行います」
とお寺さんが読経を始める。
しばらくして、親戚がザワザワし始めた。
喪主が動かない。
喪主が最初なので、お焼香が始まらないのだ。
見ると、父は目をつぶってじっとしている。
「喪主!喪主!」
と、叔父が小声で声をかけても気付かない。
本堂内も一応ソーシャルディスタンスを取っているので、聞こえないのだ。
「お父さん!お焼香!」
私が父のそばまで行って肩を叩いたら目を覚ました。
…コントか?
法要終了後、お茶とお茶うけのお菓子を出していただいた。
住職にお礼のお金をいつ渡せばいいのかわからず、私がまごまごしていると、向かいに座っていた叔母が小声で、
「今渡したらええやん」
と助け舟を出してくれた。
お布施については、渡す金額も迷うけれど、渡すタイミングも難しい。
やることが済んで気楽にお茶を飲みながら雑談していると、住職が紙を一枚と日めくりカレンダーを出してきて父に渡した。
紙は中陰忌日というタイトルで、四十九日までの法要スケジュールが書いてあった。
二七日、三七日、…と7日ごとに法要がある。
私が仕事をしているため、土曜日に設定してくれていた。
日めくりカレンダーも、四十九日の満中陰までを数えるための日めくりで、一日ごとに仏教コラムがついていた。
「毎日これをめくって、お線香をあげてください」
と住職が言う。
「これお仏壇の部屋に置いとくから、お父さんやってね」
と私が言うと、
「いや、せえへん」
と父。
「めくるだけですからね。めくって故人がなくなった日を数えてください」
住職が諭すが、それでも父は、
「せえへんなぁ」
と頑なだ。
「せえへんじゃなくて、それくらいやりなさいよ!」
と私は悲しくなる。
(日めくりカレンダーは実家に置いていてもやっぱり父がめくらなかったので、結局私が持って帰ってめくっていた。)
「仏教のこと、浄土真宗のことはどれくらいわかっとってですか?」
と住職が尋ねるので、
「いえ、全然」
と父も私も答えると、
「これあげよ。ええ機会やから勉強したったらよろし」
と住職が奥から本を持ってきて渡してくれた。
浄土真宗門徒モノ知らず
本のおかげで、浄土真宗がどういう宗教なのか、ようやく入口だけわかった。
これまで全然知らずに仏壇に手を合わせていたのだなぁ、と思う。
そこで一番意外だったのは、仏事はすべて生きている私達のためのものだということだった。
浄土真宗の教えでは、死んだらすべての人が仏となって浄土(「天国」ではない)に行くので、死後のことは心配もケアもしなくていいのだそうだ。
残された私達の心の安寧のために法事があるという。
それでも、私は母のための法事だから、と毎週土曜日には法事をした。
毎回(つまり毎週)、お坊さんにはお布施とお車代を包む。合わせて一万円。
四十九日法要は特別に3万円と御膳料も加わる。
そのうえ、父が四十九日には永代供養料を払わないといけないと言い出し、しかもその金額が65万円だというので、一悶着あった。
永代供養料とは何かを調べるところから、金額の相場まで、伯母や葬儀アドバイザーに相談したりして、結局10万円を包むことにした。
こういった宗派や地域で異なる風習・伝統は、ネットで調べても全く役に立たないこともわかった。
葬儀はお金がかかる、と言われるが、葬儀屋に払うものよりも、その後にお寺に渡すお金の大きさに驚かさる。
ただ、お寺に払う金額は「気持ち」なので、したくなければやめればよい。
結局、私が「母のために」したかっただけだ。
けれど、浄土真宗の教えは、法事は故人のためにするものではないという。
それらのお金は、母のため、と思って払っている「私」の気が済むように払っているわけだ。
今日、日めくりカレンダーが最後の一枚になった。