通夜式(1)
湯灌のあと、母の兄弟とその配偶者一同が来てくれて、お供物の段取りの確認をした。
私の喪服について、従兄弟の配偶者が着付けが得意だというので、通夜と告別式の両日とも着付けを頼むことに。
そして私とサトイモは葬儀会館に泊まり、父は家に帰った。
翌日の25日は、17時から通夜式である。
通夜式の準備が始まるまで、昼間は時間に余裕がある。
実家で洗濯していたサトイモの服を一旦取りに帰ったり、サトイモが蚊にかまれたのでかゆみ止めを買ったりするため、外出することにした。
外出するといっても、会館を留守にするわけにはいかないので、留守番のため父には早めに来てもらった。(父は喪主で当事者なのだから、「もらう」という表現はおかしいのだが。)
やってきた父は喪服を着てきたが、ジャケットを脱いだ姿を見て、
「あれ? お父さん、そのシャツ、白じゃないよね?!?」
と気がついた。
「そうか?黄ばんどんや」
「でっかい食べこぼしのシミがついとうし」
「ネクタイで隠れるやろ」
「そもそも半袖シャツやん。式服ちゃうやん!」
「脱がへんかったらわからへん」
「参列者ちゃうで!喪主なんやで!!」
やれやれ。
出かけるついでに白いシャツ買ってくるよ、という私に、
「買わんでええ。これでええ」
と父が言い張るので、私がどやしつけた。
「誰のための葬式や!自分の葬式やったらヨレヨレの服着てええけど、お母さんの葬式やで!最後くらいちゃんと見送ってあげてよ!」
怒鳴られて父は不承不承黙り込んだ。
父の車を借り、サトイモを乗せて、実家に、紳士服屋に、ドラッグストアにと用事を済ます。
ドラッグストアでは、ついついあれこれ買いこむ。
サトイモは、入り口にあるアンパンマンのガチャガチャを目敏く見つけ、
「これほしかったやつ、こんなところにあったよ〜!」
とねだる。
ふだんは、ガチャガチャをさせない主義で、「ばあばと行ったときにさせてもらいな」とお姑さんに奢ってもらうよう押し付ける私だったが、この日ばかりはサトイモの甘えを許した。
ふと、子供用の手持ち花火が目についた。
「ねぇサトイモ、花火、買ってあげようか」
「うん!」
神戸の自宅周辺では、手持ち花火ができる場所がない。
道路や公園などのパブリックスペースではおしなべて禁止されている。
でも、いつかどこかで、夏の思い出として花火をさせてやりたいなぁ、と思っていた。
葬儀会館の周辺は、隣が火葬場、その隣が墓地という絶好のロケーションで、やたらと広い駐車場がある。
幸い、弔い用のマッチとロウソクもある。
「お通夜が終わったら花火をやろう!」
と私は一番お手軽な値段の手持ち花火を買った。
通夜式
通夜に母の同級生たちが来てくれたことが、私にとって一番うれしいことだった。
母の兄弟たちは、集まっても自分たちの話ばかりで、ほとんど母を偲ぶ話をしてくれなかった。
でも、わざわざ来てくれた同級生たちは、自分たちが知っている、若い頃の母の話をしてくれた。
その中に、母の高校時代の恋人がいた。
認知症が軽く進んできた頃、判断力を失ったのかボケたのか、母は私に、
「本当はMさんと結婚したかったのに、親に反対された。今でも親を恨んでいる」
という旨の話をしたことがあった。
同級生として、通夜に来てくれたMさんにそのことを伝えた。
「当初はふられたと思って落ち込みました。ずいぶん経ってから、親御さんに反対されたと聞きましてね。それも若い日の思い出です」
とMさんは語ってくれた。
そんなふうに思い出を持ってくれている人が来てくれたことがうれしかった。
お姑さんからお供物が届いていた。
それを見た父が、
「あれはお義母さんか?」
と尋ねる。
「わざわざ悪いな」
昔の田舎の感覚からすると、配偶者である夫の不在に加え、その親類関係が全く参列していないのはちょっと不自然に感じるはずだ。
ただ、親戚たちに尋ねられても、今は「コロナ禍なんで」で済ませられるのはありがたかった。
それを差し引いても、うちの父は私が籍を入れたことに関して全く興味がない。
娘婿についてもよくわかっていないのだから、その親についても何ら関心がないのだ。
職場からも供花が届いた。
「あれはなみ松の会社か?」
と父。
「なみ松はまだ仕事行っとったんか」
…衝撃の発言。
私に興味がないのは知ってたけど、そこまでとは。
そりゃあ、どんなに私が体調を崩しても、毎回「サトイモは元気か」としか尋ねないわけだ。
式自体はつつがなく終えた。
サトイモも、始まるまでは走り回っていたものの、始まると着席して静かにしてくれた。
一応、私と一緒にサトイモもお焼香をした。
お寺さんがお経を読んでいたとき、退屈して口でブーブー鳴らしてふざけ始めたが、エスカレートする前にお経が終わり、父がたどたどしく挨拶をして、式はすぐ終わった。