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3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住むアラフォーOL、波野なみ松の、仕事と趣味と母の介護を両立させる日々の記録。

映画『函館珈琲』を激しく勝手に思い込む。

昔の上司の口癖は、「もうあかん、会社やめてタコ焼き屋するわ」だった。
なぜタコ焼き屋なのかわからない。
とにかく脱サラをしたかったのだろう。

最近、私もすごくそんな気持ちになっている。
会社をやめて、人の役に立つこととか、自分が思いきり打ち込めることとか、何かもっと違うことをしたい。

でも、だからといってタコ焼き屋をやろう、とは思えないので、やるなら珈琲屋か古本屋だけど、本気でやりたいかと問われれば、そうでもない。
じゃあ何をすればいいのか。
それがわからない。
自分に何ができるのか、何がしたいかもわからない。
すでに人生の半分が過ぎているのに、いまだにこの調子だ。

『函館珈琲』は、そんな私のような、モラトリアムな大人たちのための映画だった。

トンボ玉職人、テディベア職人、写真家、という、何かを目指している人たちを支援するシェアハウ翡翠館。
そこに、古本屋を自称する主人公が1か月のお試し期間でやってきたことから物語は始まる。
函館の美しい港町を舞台にした、爽やかな映画だった。

実はこの映画を監督した西尾孔志さんはなぜか知り合いで、Facebookなどでこの映画の話を知っていたから、公開を楽しみにしていた。

西尾さんの前作『ソウルフラワートレイン』は大阪を舞台にした愉快な映画で、『カルメン故郷に帰る』の逆というか、‘お父さんカルメンに会いに行く’といったかんじの佳作であった。

『函館珈琲』は今月上旬に元町映画館で上映があったけれど、時間が合わなくて見に行けず、今日やっと十三シアターセブンで見ることができた。
しかも、上映後はアフタートークのおまけつき。

(このあとネタバレ含みます。)

主人公の桧山くんは、家具職人の先輩の代わりに翡翠館へやってきた。
しかもその先輩が作ったイスを抱いて。
その先輩は海外に行ってしまったというけれど、どうも渡航先で亡くなってしまったようだ。しかも事故ではなく自殺の可能性もあるような…。

桧山くんのイスに対する異常な思い入れ、グジグジ思い悩むかんじからして、私はてっきり、彼と先輩は恋人同士だったんだな、と思い込んでしまった。
先輩のところに居候していたとも言っている。
同棲してたなら、やっぱり恋人だ!

実は彼は古本屋ではなく、処女作で賞を獲った小説家。
その小説を読んだ翡翠館の住人イチコさんは、彼のことがよくわかった、というような感想を述べる。
何がわかったかって?
そりゃあ、彼が同性愛者で、それなりの恋愛をしてきたことをさ!
さらに私の確信は深まっていった。

イチコさんは彼にキスをしようとするけれど、彼は本で遮る。
印象的なシーンだ。
私は、イチコさんは彼が同性愛者だと知っていてカマをかけたんだろう、と思った。
ほうらね、こんな美人のキスを嫌がるなんて、やっぱり男性が好きなんだ。

ところが、アフタートークによると、それが大ハズレ。
なんと最初はイチコさんとのベッドシーンを思わせるようなカットもあったという。
本当はキスシーンも撮りたかったけど、脚本家が嫌だと言ったらしい。

ええっ!?
彼はゲイじゃなかったの??

…おお、なんという私の腐女子度の高さよ。
美男を見たらゲイと思え、というのは、二次元だけの常識なのか…。(←二次元でも常識ではありません)


物語の後半、主人公の桧山は、翡翠館にある廃車寸前なバイクの修理を始める。
毎夜徹夜で修理し、とうとう、彼はバイクのエンジンを動かすことに成功する。
ブンブンと唸るエンジン音が、翡翠館中に轟く。
まるで、船が出港する汽笛のように。

しかし、音が響くだけで、決してそのバイクは走り出さない。
走れるけど、まだ走らないんだ。
そこにとどまって、ゆっくりとした函館時間を楽しもうとしている主人公みたいに。
あえて走らないことで、主人公の吹っ切れた気持ちを表現してるんだなぁ。
…と思ったのだが、これもまた大ハズレ。

西尾さんによれば、なんとバイクが走るシーンがちゃんとあったらしい。
しかも、翡翠館オーナーがライダースーツで桧山くんを待っていて、二人乗りして走る、というシーンだったそうな。
オーナー役の夏樹陽子さんもノリノリだったとのこと。
しかし、
「修理したばかりのバイクを登録もせずに走らせるのは…」
という指摘により、残念ながらそのシーンは没になってしまった、という。

なーんか、アフタートークでことごとく覆される私の妄想。
映画制作の裏には、いろんな事情があるもんだ。

昨日、西尾さんから、
「平日はお客さんが少ないからぜひ見に来て」
とわざわざメッセージをもらったので、そうなのかと思って行ったら、お客さんがけっこういて、アフタートークもぎっしり。

そんな状況の中、西尾さんに感想を求められたけれど、
「またメールします」
とだけ言って、ただ会釈して帰った。
私が何も言わずに帰ったことで、西尾さんは私が映画を気に入らなかったのかな、と不快に思われたに違いない。

実際のところは、そんなたくさんの人の前で、
「主人公と先輩はできてると思ってました」
なんてアホな感想を言えないよ、というのが真相。
書くのはいくらでも書けるけど、人前でしゃべるのはちょっと苦手だ。

そんなおしゃべり下手な私から見て、唯一、映画でディスりたくなったところが、写真家の女の子だ。
対人恐怖症という設定で、1日にしゃべった一言二言を日記に書くという寡黙ぶり。
そのわりには、主人公とけっこうしゃべってるよねぇ、という違和感。
世の中、声が出ないわけじゃないのに、ほんとに何も言わないヤツってけっこういる。
返事すらしないで首を振るだけだったりする若者ってそこそこ多くて、それに比べたら、写真家の女の子はごくフツウだ。
彼女のコミュ障ぶりが中途半端で、そこが消化不良な気がした。
…とはいえ、もしかしたら、彼女がコミュ障だというのも私の思い込みだったりして??


この映画の登場人物の中で最もいいなと思ったのが、テディベア職人の男の子だ。
ドイツ人のハーフという設定みたいだけど、とてもナチュラルで魅力的。
この俳優さんのほかの役も見てみたい。

テディベア職人の彼が翡翠館を出ていくと言ったあと、熊の着ぐるみを着て登場する。
とてつもなく可愛い、私のお気に入りシーンだ。
ただ、熊の着ぐるみが出てくる映画がなんかあったよな、と記憶をたどれば、ジョン・アーヴィング原作の映画『ホテル・ニューハンプシャー』がそうだった。
西尾さん、熊の着ぐるみはズバリ、『ホテル・ニューハンプシャー』の影響でしょ!?

…ああ、でもきっとこれも私の思い込みにちがいない。

『狂い咲きサンダーロード』はいま観ても狂っていた。

映画

ここのところ、ニュースやワイドショーの籠池ファミリーが気になってしょうがない。
不謹慎を承知で言うけれど、これだけ強烈なキャラクターの登場は久しぶり。サイコパス炸裂!
なんとなく、園子温監督『冷たい熱帯魚』のでんでんを思い出してしまうのは私だけだろうか。
籠池氏関連で気の毒に思ってしまうのは鳥肌実で、こういう本物のオモシロ右翼が出てきちゃったら、絶対に勝ち目がないよね。

そんなことを思っていたところ、元町映画館で石井聰亙(現・岳龍)監督『狂い咲きサンダーロード』のリマスター版の上映があったので、観に行ってきた。

www.youtube.com

伝説のカルト映画だから、ずっと見なきゃ見なきゃと思いつつ縁がなかった作品なので、ちゃんとスクリーンで見れてうれしい。元町映画館ありがとう。

この映画の主演だった山田辰夫が亡くなったとき、『社会派くんがゆく!疾風編』で唐沢俊一村崎百郎がこんなふうに語っている。


村崎:山田辰夫っていうと、とにかく石井聰亙監督の『狂い咲きサンダーロード』のムチャクチャにバイオレンスは主人公のイメージが強烈すぎてさ。やさぐれたダミ声と凶暴な存在感が鬱陶しいくらいギラギラ光ってたね。
唐沢:あれ、最初観たときは"どっから連れてきたんだ、こんなチンピラ"とマジで思ったもの。全編何言ってんだか聞き取れないような絶叫口調でね。
村崎:あの映画のあの役はホントにマジでヤバかったわ(笑)。どうやったってマトモに言葉が通じるとはとても思えないような凶暴な人種を、まんまリアルに演じてたよね。


こういう情報は事前に知っていたので、とにかく主人公が強烈なキャラクターなんだな、という覚悟はしていた。
だから「狂い咲き」という形容詞は、主人公を表すものなのだと思っていたが、実際に観てみると、主人公だけじゃなくて映画全体が狂い咲いていた。
ストーリーや設定、絵全体がムチャクチャなのだ。
かつてオーケンが映画のイベントを企画して、お気に入りの青春映画の名作としてこの映画を上映したけれど、参加したファンたちは大爆笑の渦だった、というのもよくわかる。(こちらは大槻ケンヂ著『オーケンの、私は変な映画を見た2』を参照されたし。)

暴走族「魔墓呂死」(まぼろし、と読む。文献やサイトによっては魔墓狼死となっているけど、今回映画館に置いてあったチラシの表記に合わせます。)の特攻隊長の仁(山田辰夫)は、「愛される暴走族」を目指す周囲の暴走族たちと衝突し、とにかく暴れまくる。
その仁を諌めるために登場したのが、魔墓呂死OBである小林稔侍なんだけど、戦闘服を来たその男の自己紹介にぶっ飛んだ。

「私は見てのとおり、政治団体のものだ!」

見てのとおり、と言われても何か全然ピンとこなかったけれど、日の丸を掲げた街宣車の登場でようやくそういう政治団体だとわかった。
その名もズバリ、日本会議、いや違う、スーパー右翼!!
ネーミングがスゴすぎる…。

スーパー右翼の皆さんは、暴走族の若者をスカウトする。
「君たちの力を国のために使ってみないか!」
そして、何人かの若者が政治団体に入り、厳しい軍事訓練に明け暮れる。
仁もしばらくは参加をしているが、繰り返される毎日の思想教育や訓練に退屈し、周囲との衝突のすえ抜け出してしまう。

ふと、不良少年つながりで、映画『クローズ』では先輩が反社会的勢力さんになっていたのを思い出した。
不良少年→暴力団組織、暴走族→スーパー右翼。
ケンカが好き、ケンカができるお仕事に就きたい、ということでそうなるんだろうか。
そうすると、右翼って政治じゃないよね、と改めて気づかされる。

スーパー右翼は国のためといいつつ、訓練しかしない。
本当に国のために力を発揮するなら、日がな訓練するより真面目に働いてもらったほうがよっぽど日本国のGDPに貢献できるはずだ。
もちろん、彼らがそんな生産的なことをするわけがない。(ここのあたりネトウヨにも似てるかも。)

暴走族もスーパー右翼も、単にムシャクシャしているのだ。
すべてのことが気に入らなくて、あらゆることに腹が立っている。
理屈じゃない。
破壊衝動が次から次へと押し寄せてくる。
彼らは自分自身でさえ、消えてなくなってしまえばいいと思っている。

若者だなぁ。
と、40歳を過ぎたおばさんは思う。
10代のときにこれを見ていたら、もっと共感できたのかもしれない。

私も若い頃は、「みんなみんな大嫌い!」とわけもなく思うことがあった。
何もかもが嫌になる。
何もかもが退屈してしまう。
何よりも自分が大嫌い。
若いときにはそんな時期があるものだ。
ただ、そんな時代は嵐のように過ぎ去ってしまう。

もし魔女が現れて、
「あなたを10代に戻してあげますよ」
と言われても、私はお断りする。
大人になって、少しずつ自分以外の物事が見えるようになって、ようやく心穏やかに暮らせるようになった。
若い頃のような毎日がイライラする日々には二度と戻りたくない。(やがて更年期が来たら同じようになるのかもしれないけど。)

狂い咲きサンダーロード』という映画は、そういう若い頃の愚かしさを凝縮させたようなところがある。
痛々しく、ヒリヒリし、恥ずかしく、ばかばかしい。

仁はスーパー右翼を抜けた後、好き勝手な振る舞いをしたせいで闇討ちに合い、チェーンソーで右手を切り落とされてしまう。
同じように右翼を抜け出した仲間の一人は襲われて植物状態に、もう一人は仁を置いて街を逃げ出してしまう。
さらに自暴自棄になる仁。
ほっつき歩く街も荒んでいて、まるで彼の心象風景のように薄気味悪い。

この街の薄気味悪さ、松井良彦監督『追悼のざわめき』の街並みの気持ち悪さに似ているなぁと思っていたら、松井監督も編集で参加していた。
どうりで、街の空気感が似ている。世界が地続きといっていい。
荒廃という言葉では足りないほどの汚れたかんじ。
ニンゲンはいるのに誰一人として心が通じ合わないかんじがして、見ているだけで孤独を感じてしまう。

そのうえ、舞台は近未来ということになっているけれど、とてもじゃないけど未来都市には見えない。
安っぽっく、みすぼらしいかんじは、どうみても80年代だ。

そう考えてみたら、当時の未来である2017年の現代は、清潔で安全で、ニンゲンもずいぶんおとなしい社会になっている。
暴走族もいなくなったし、不良少年も犯罪もずいぶん減った。
表面的には整然とお行儀よくなったけれど、臭いものはふたをされ、汚れは巧妙に隠されているだけで、貧富の格差は広がっているし、心を病む人も増えている。
見た目をキレイに掃除したらゴミ箱のゴミが増えるように、お行儀よくなった社会の闇は深くなっているかもしれない。
仁が現代にやってきたら、なおさら暴れまくるんじゃないだろうか。

クライマックスは、暴走族連合&スーパー右翼の総合団体VS仁のバトル。
戦車にロケットランチャーに、もうめちゃくちゃ。
そしてラストに生き残った仁はバイクに乗って去っていく。
唯一の味方であるジャンキー小学生に、「その右手じゃブレーキが握れないだろ」と指摘されるけれど、そんなことは意にも介さず走り始める仁が清々しい。

さて、私のような中年はともかく、現代の10代のコたちはこの映画をどう見るんだろう。
行き場のない怒りや憤りが狂い咲く青春映画として感動するのか、トンデモ映画として大笑いするのか。
今なお色あせない映画、と言われているけれど、心に響くかどうかは世代によるかもしれない。

ただ、古びないままだと思えるのは音楽だ。
泉谷しげるPANTA&HAL、THE MODSのロックが全編に流れ、使われ方はまるで最近の映画のようだ。
これだけは掛け値なしに今の感覚でもかっこいい。
音楽の力の偉大さを感じた。

人間椅子の『威風堂々』ツアーと靴下

人間椅子 介護

神戸チキンジョージ人間椅子のライブ盤『威風堂々』ツアーを見に行った。
ツアータイトルどおり、演奏は威風堂々。
重低音の波に気持ちよく揺られ、リラックスして脳にα派が満ちる気がする。
ゴリゴリのハードロックなのにこうも心地よく感じるのは、ボーカル2人の声と、和を感じさせる音階のせいかしら。

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関西では『イカ天』の放送がなかったので、1990年前後当時、私は人間椅子を全く知らなかった。
その後数年経って、人間椅子のベスト盤『ペテン師と空気男』を初めて聴き、
「なんて私好みの‘ど真ん中ストレート’を付いてくるバンドなんだ!」
と感動の出会いをした。
…にもかかわらず、その後、人間椅子のライブを見るまでに10数年を要してしまった。
今は、去年、今年と引き続き、神戸で人間椅子のライブが見られて本当にうれしい。
今回は大好きな『天国に結ぶ恋』が聴けたのが特に良かった。

長い間、CDの人間椅子しか知らなかった私にとって、ライブでしか味わえない楽しみだと思ったのはMCだ。
音楽はヘビーロックな3人だけれど、それと反比例したほんわかするMCが楽しい。
特に研ちゃんの青森弁がすごくよくて、わじーとの掛け合いも、仲良し同士のおしゃべりっぽくてすごくいい。

今回のMCはわじーが上梓した自伝『屈折くん』がメインだったけれど、それとは別に私が衝撃を受けたのが、研ちゃんとノブさんはキレイ好きなのにわじーが「不潔好き」だという話だった。
わじーは昔、1ヶ月に1回くらいしかお風呂に入らなかった、という話はまだいい。
そんなことよりもギターの練習だ、という理屈もわかるし、庵野秀明のおかげでそういう天才がいることは世の中に広まっているので、そこにはあまり抵抗感がなかった。
けれど、ショックを受けたのは研ちゃんがつぶやいたこの話だ。
「俺には靴下を3日履くっていう文化はないね」

*****************

私の実家のベランダは父の寝室の横にあり、私が洗濯物を干す音で父が目覚めることがよくある。
今日も私が洗濯物を干していると父がようやく目覚めて、着替えを始めたところだった。
干し終わったとき、父はちょうど靴下を履くところだったのだが、その様子を見て驚いた。
「お父さん!!その靴下、私の!!!」

父は、
「ほんまかいや」
と言ったものの、手を止めない。
黒地にグレーのダイヤ柄が入ったハイソックスは、どう見ても女性用だ。
「お父さんそんな可愛い柄の靴下持ってないでしょう!! やめてよもう!!」
と泣きそうになる私に、父は平然と、
「もう右足履いてもとうのに、ええやんか」
と、脱ぐどころか、左足に履く手を止めない。

「やめてやめて!!今すぐ脱いで!!」
「なんでや、もうええやんか。どっちにしたって洗濯せなあかんのやから」
「なんで?」
「昨日から履いとうもん」

私のショックたるや、相当なものであった。
女性用靴下、しかも私の靴下が履かれてしまったこと。
しかも2日間履くということ。
そのダブルショックで卒倒しそうになり、私は壊れたレコードのように、
「やめてよもう!信じられへん!やめてよもう!信じられへん!」
と繰り返すばかりだった。

父が服を着替えなくなったのはいつからだろう。
私が洗濯物を催促しなければ、いつまでも同じ服を着ていることがある。
下着ですら、だ。

脳梗塞を患って退院後しばらくは使い捨ての紙パンツを履いていたのだけれど、そのときも、
「捨てるのはもったいないから、漏らすまで履く」
と言って、何日もパンツを履き続けたことがあった。
父がお風呂に入っていたときに、脱いであるパンツからただならぬ異臭が漂っていた。

若い頃はそんなことなかったはずだ。
家事の一切をやっていた母が病気になり、洗濯をしたりお風呂を用意したりできなくなってから、父がだんだん「不潔好き」になっていった気がする。

歳を取るごとに、
「何もかも面倒くさい」
と言い出した。
お風呂に入るのも、服を着替えるのも、すべてが面倒だと言う。
ケアマネさんは、
脳梗塞の後遺症もあるんちがいますか」
と、父の不潔を優しく許してくれるけれど、本当に病気のせいかどうかはわからない。

そんな父を見てきているので、まだ50代に入ったばかりのわじーが靴下を3日履くのが心配でならない。
歳を取るごとに加速するかもしれないのに、今からそれではどうなっちゃうんだろう?!?!

何かのテレビ番組で、介護スタッフが好きな利用者さんの条件ランキング、というのをやっていて、第一位は「清潔な人」だった。
そりゃそうだ。
というか、そうじゃない人が多いという裏返しな気がする。
世の中の高齢者にはなるべく気を付けてもらいたい。
私自身も決してキレイ好きじゃないので、「歳を取るほど清潔に」を心に刻んでおこう。

石原慎太郎に見る最悪の上司

職場問題

松本隆作詞・細野晴臣作曲の『ハイスクールララバイ』を歌ったのはイモ欽トリオだったが、彼らのコンセプトは「良い子悪い子普通の子」という3段落ちコントだった。

それになぞらえて、上司の3段階を考えてみた。

【良い上司】
部下から提出された報告書や稟議書は一通り目を通して、するどいところを指摘し、どうすれば良くなるのかをアドバイスしてくれる。問題があったときは速やかに部下に事情や経緯をヒアリング。あとは自分ひとりで立ち向かい、「これは決断した自分の責任です」と言って部下の個人名を出さない。

【普通の上司】
部下から提出された報告書や稟議書はパラパラめくり、誤字脱字レベルのど~でもいい重箱の隅はつつく。問題があったときは、「君がやったことだけど俺も責任者だし、一緒に謝りに行こうか。報告があったのは覚えてるけど中身は忘れたから、説明は君がするように」と言われる。

【悪い上司】
「信頼してるから任せた」と言って、部下の報告書や稟議書は読みもしない。面倒くさがって説明も聞く耳を持たない。判子を勝手に押しておくように部下に預けたり、システムのID ・パスワードも教えて仕事を丸投げする。問題があったときは「部下がやったことで、私は知りませんでした。判子を押した記憶はありませんし、処理をした記憶もありません」と言う。似たようなセリフに「前任者がやったことで、私は預かり知りません」がある。

******************

良い上司はUMAレベルなので存在すら未確認だが、悪い上司はダンジョンの腐った死体レベルで出没する。

たくさんの管理職が「聞いてない」「そんなこと言ってたか?」「覚えてない」「記憶にない」と言うのを耳にしてきた。
「やることがたくさんあって、そんな細かいこといちいち覚えていられない」
というのが言い訳だが、こちらからすると、
「ひょっとして認知症なのかな?だったら本人のためにも会社をやめていただいたほうがいいのにな…」
と思うことも多い。
脳では海馬が記憶を司るというけれど、管理職を長くやっていると馬は豚へ変身し、いつしか海馬は海豚になるんじゃないか。

先日の石原慎太郎氏はまさに、悪い上司の典型だった。
かつて「理想の上司」にランキングされていたのが笑わせる。
投票した人、大丈夫ですか?


私の上司にも昔、プチ原慎太郎がいた。
プチ原課長はいつも、
「波野さんの好きにしたらいいよ」
が口癖で、何を相談しても受け流されていたのだけれど、あるとき部長に呼ばれて、
「この企画は何や」
と問いただされた。
私が提案し、長い時間かけて課長と打ち合わせして決めた企画だったので、プチ原課長が部長に説明をしてくれるのかと思いきや、
「そうだよ波野さん、これは僕もどうかと思うなぁ」
と言われてひっくり返った。


逆にプチ原課長が一人で資料を作るときもあったのだが、あるときやはり部長に呼ばれ、
「ここの数字はどうなってるんや」
と尋ねられたプチ原課長は、私のほうを振り返り、
「波野さ~ん、ちょっと~」
と呼んだ。
まじで?!
私ぜんっぜん知らないし!
やられたわ。そのタイミングで名前呼ばれたら、まるで私が作ったみたいになるじゃないかよ!


今エピソードを紹介した課長は、「部下になすりつける系」のプチ原慎太郎だったけれど、別のパターンもある。

ビッグマウス系」のプチ原慎太郎だ。
男性は偉そうな態度に騙されやすいので、「あの人はできる人なのかも」と思い込まされてしまう。
「組織のため、会社のため、顧客のため」と口では標榜するくせに、内実は自分のためだったりして、口と行動が矛盾する。
人件費を節約するなら、安いパートさん切るより、高給取ってる自分達が先に退陣すればいいのに、60過ぎても会社に居座ってしまう、プチ原慎太郎。

税金を無駄使いしたり、国有地をディスカウントする愛国者たちもその典型だ。
国を愛するなら10倍の税金を払って貢献してくれよ、と情けなくなる。

石原慎太郎氏は記者会見前に「果たし合いに向かう侍の気持ち」と言っていたけれど、そんな侍には、この曲、RHYMESTERBIG MOUTH 』を送ろう。
聞きあきたぜそのでけぇくち!

ピッコロ劇団『踊るシャイロック』の憂鬱

演劇

かつて元町高架下にBee’s Needsというバーがあった。

Rock’n Jelly Beanのポスターが飾られ、古い日本のアニメのおもちゃなんかが置いてあり、トイレに生首がぶら下がっている楽しいお店だったので、会社帰りにときどき立ち寄っていた。

お酒が飲めなくてクランベリージュースしか頼まない私でも、店主のカナダ人は優しく接してくれて、私の拙い英語のおしゃべりに付き合ってくれた。

 

いろんなことを話したけれど、ひとつ印象に残っているのが、「Jewish」に関する私の素朴な疑問だ。

「私たちなら日本人・韓国人・中国人の見分けがつくけど、あなたたちからすれば同じでしょう。それと同じで、私たちからするとユダヤ人(Jewish)と白人(Caucasian)の違いがわからないのよ」

 

なぜそんな話をしたか経緯は覚えていないが、私がそんなことを言うと、

「僕らだってわからないよ」

とカナダ人は言った。

「わからないの? てっきり何か違いがあるのかと思ってた」

「Jewishってのはユダヤ教を信じている人のことだよ。Religion(宗教)なんだよ」

「そうなの?Race(人種)じゃないの?」

 

それ以上はうまく英語で言えなくて、話の記憶もそこで終わっている。

正直言って、私はいまだに「ユダヤ人とは何なのか」がわかっていない。

 

ユダヤ教」と「ユダヤ教徒」についてなら、少しずつ知識は増えた。

教会じゃなくてシナゴーグに通う(神戸にもシナゴーグがある)とか、クリスマスじゃなくてハヌッカーを祝う、とか、神父様じゃなくて司祭はラビという、などなど。

 

でも、人種じゃないなら、どうして「ユダヤ人は頭がいいから金儲けがうまい」なんて言われたり、「ボブ・ディランのカーリーヘアと鉤鼻は典型的なユダヤ人だ」なんて言う人がいたりするんだろう。

宗教を信じるかどうかと、血統や遺伝子は異なるはずじゃないか。

なぜユダヤ人は迫害されているの?

欧米では自明のことのようにはびこっているが、私たち東洋人には理解できない。

逆に、日本人・中国人・韓国人がお互いに差別し合っていても、欧米では東洋人でひとくくりにされるのと同じ。

違う地域に来てみれば、宗教の違いも何国人かの違いも、目くそ鼻くその世界。

それで差別しあうなんて、あほくさく、愚かしい。

なのに、狭い地域では差別意識が空気のようにねっとりとまとわりつく。

 

 

先週、神戸アートビレッジセンターにピッコロ劇団『歌うシャイロック』を見に行った。

hyogo-arts.or.jp 

元・新宿梁山泊の鄭義信が手掛ける関西弁のミュージカルで、シェイクスピアの『ベニスの商人』がベースになっている。

ヴェニスの商人 - Wikipedia

 

ベニスの商人』という喜劇について、私は「嫌われ者のユダヤ人金貸しが登場する話」という知識しか持っていなかった。

原作を知らないまま劇を見たのだけど、『ベニスの商人』ってこんなにすごい話だったのか!と目からウロコが落ちた。

シェイクスピア喜劇にこれほど感動するなんて思ってもみなかった。

(※これ以降、ネタバレを含み内容に言及しますが、舞台を一度見ただけのうろ覚えのセリフであることをご容赦ください)

 

原作はどうか知らないが、『歌うシャイロック』でフォーカスされているのは金貸しシャイロックとその娘ジェシカのユダヤ人親子である。

被差別者としての苦しみと悲しみと孤独が真に迫っていて、特にジェシカの、恋人ロレンゾとの恋の顛末については涙を誘う。

ジェシカは、「あの人が、私をこの冷たい井戸の底から救い上げてくれる」と信じ、父シャイロックの金を持ち出し、ユダヤ人であることを捨ててまでロレンゾと駆け落ちをする。

しかし、金を手にしたロレンゾは人が変わってしまい、ジェシカの苦悩は深まる。

そしてふとしたセリフから、ロレンゾも心のどこかで自分を差別していたのだと知ったときの絶望。

最後は気が狂ってしまって幼児がえりする様子はちょっとやりすぎな気もしたけれど、ジェシカがこの物語の影のヒロインであることは間違いない。

 

ジェシカが影なら、表のヒロインは剣幸が演じる大金持ちの貴婦人ポーシャだ。

鄭義信の独自の解釈なのか、ポーシャという女性についても、すごく深みを感じさせてくれた。

ポーシャには、金・銀・銅の箱のいずれかのうち、正しい箱を選んだ男と結婚するようにという死んだ父親の遺言があった。

箱を開けられる人が現れないので‘行かず後家’になってしまった、という設定で、ポーシャは年増に描かれていて(配役に合わせたのかしら?)、ポーシャと侍女の二人の関西弁のやりとりはオバハンそのものである。

最初ポーシャは、「誰でもいいから早く箱を開けてくれないかしら」と言っているが、やがて誰ともわからぬ男との結婚が不安になってきて、「女は結婚しないといけないの?」と疑問を呈するようになる。

「父の遺言」に左右され、自分の人生を生きられない不自由さ。

この物語のクライマックスである裁判のシーンでは、男に変装したポーシャが法学者として登場し、一休さんばりのトンチで主人公アントーニオを救う。(さすが元宝塚のトップスターさんだけあって男装がとても素敵。これほどの適役はない。)

覆面ヒーローとして活躍するポーシャは、知識があり、頭が良く、度胸もある。

でも、「女である」ために、変装しなければ実力を発揮できない。

「男のふりをしなければ活躍ができなかった」というところに、ポーシャの悲劇がある。

「十年後、五十年後、百年後には、女性が女性のままで活躍できる世界になっていますように」と高らかに歌うポーシャに、希望の光が当たる。

 

ベニスの商人』というのは貿易商アントーニオのことで、彼が主人公である。

けれど、正直言って彼はそんなに出てこないし、そんなに目立つ人物ではない。

冒頭、アントーニオが「憂鬱」であることが話題になるが、憂鬱の原因が何なのかはっきりとは語られない。

これについてはどうやらシェイクスピアの原作でもそうらしい。

 

ただ、現代の私たちの眼からすると、アントーニオとパッサーニオの不自然なほどの仲良しっぷりが同性愛っぽく映る。(そういう演出なんだろうけど。)

パッサーニオはポーシャに求婚するくらいだからストレートなのは明らかなんだけど、アントーニオは実はパッサーニオのことが好きなんじゃないか、と推測される。

 

シャイロックの証文どおりに「身体の肉を切り取られてもかまわない」と言うアントーニオの「死にたい願望」は、冒頭の憂鬱とつながっている。

もしかしたら、同性愛者である自分の、パッサーニオへの愛が報われないことによる厭世観なんじゃないか、と観客の腐女子は確信してしまう。

 

だからこそ、アントーニオがパッサーニオを見限るシーンが切ない。

裁判のあと、シャイロックの行く末を案じるアントーニオに対してパッサーニオが言った、

「あんなユダヤ人なんかのために君が悩む必要はない」

という言葉にアントーニオがひっかかる。

「僕が迫害を受ける立場になったら、君は石を投げる側に回るだろう。自分に似合わない帽子を被りたがる君を、僕は特別な存在だと思っていたが、それは勘違いだった」

と悲しむアントーニオ。

 

観客はアントーニオの気持ちを深読みしてしまう。

アントーニオがもし同性愛者だとカミングアウトして世間から迫害を受けたとしたら、パッサーニオはどうするだろうか、と。

これまでと変わらずに「僕たちは友情で結ばれている」と言ってくれるのか…。

 

エンディングはパッサーニオがポーシャのもとに戻り大団円を迎えるが、アントーニオはパッサーニオから離れていく。

気の毒なアントーニオ。彼の憂鬱は消えない。

 

そしてアントーニオの憂鬱は、あらゆる差別の中で生きている私たちの憂鬱でもある。

 

作・演出の鄭義信は、在日コリアンならではの作品を描き出してきた作家だ。

だからおのずと、ユダヤ人と在日コリアンが重なってしまう。

シェイクスピアが意図したかどうかにかかわらず、物語が内包する普遍性を感じずにはいられない。

 

ちなみに、舞台はイタリアなのにみんな関西弁でしゃべる不思議な空間について、ちょうど同時期に見たツイッターのイラストが重なった。素敵すぎるので勝手に紹介。

twitter.com

シェイクスピアを関西弁でやるというのは、こんなかんじなんだよね。

チャウ・シンチーの『人魚姫』には痛覚がない。

映画

「最近の小さい子はどんなアニメが好きなの?」
と、幼稚園児のお母さんである友達に尋ねると、
「うちの子はディズニープリンセスが大好きなのよ」
という答えが返ってきた。
なるほどなるほど。小さい女の子らしい可愛い趣味だ。

しかし私はディズニープリンセスの映画をひとつも見たことがない。
だいたい、聞くところによると原作とずいぶん違うっつーじゃないですか。

「しかしまあ『ラプンツェル』なんて、あんな残酷な話がよく映画になったね」
と重ねて私が尋ねると、彼女が話す映画のストーリーと、私の知っている『チシャ菜姫』(ラプンツェル)は全く異なっていた。
えっ? 王子は塔から突き落とされて目をつぶされないわけ?
しかしそれよりもっと驚いたのには、人魚姫である『リトルマーメイド』のラストだった。
なんで?
なんでめでたしめでたしになってんの?
ディズニーめ、なんでもハッピーエンドにすりゃあいいと思うなよ!!

私の手元に、中原淳一『七人のお姫さま』という本がある。

七人のお姫さま

七人のお姫さま

主人公がお姫様の七つの童話(親指姫、人魚姫、白雪姫、白鹿姫、雪姫、シンデレラ、ポストマニ)に、中原淳一の愛らしい挿し絵がついた絵本だ。

どこの店だったか展覧会会場だったか、装丁の美しさに惹かれてこの本を手に取った。
しかし、購入の決め手となったのは『人魚姫』が入っていたことだ。

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『人魚姫』の物語は、ほかのお姫様童話と一線を画す。
人生経験のない子供よりも、何回か失恋を繰り返した大人の女の方が心に沁みる。

何といっても、他のお姫様と比べて人魚姫は能動的だ。
冒頭からして、王子に助けられるのではなく、逆に助けちゃう、という強さと勇敢さ。
恋する王子に逢いたいために、魔女の薬を飲んで尾ひれを脚に変え、激痛に耐え、魔女に舌を取られて声も失うという激情。
王子を助けたのは自分なのに、勘違いでよその女に王子を取られるという悲劇。
王子を殺せば元の人魚に戻れるのに、自ら泡と消える選択をした切なさと虚しさ。

何この童話、中島みゆき?!
アンデルセンすごすぎ!!
と、今振り返っただけでも彼女の痛々しさに悲しみが込み上げてしまう。
これほど激しい恋心と痛々しい片想いの童話はないはずだ。

そんなわけで『人魚姫』は私の特別な童話なのだけれど、今週から元町映画館で『人魚姫』が上映されているので観に行った。

www.ningyohime-movie.com


なんと、監督は『少林サッカー』のチャウ・シンチーだというではないか。
西遊記~はじまりのはじまり~』では史上最悪最低かつ最もゲスい孫悟空を登場させた監督のことだから、『リトルマーメイド』以上にアンデルセンの人魚姫とは別物なのはわかっている。
わかってるけど、あの悲恋がチャウ・シンチー流のコメディにされてしまうのか…、と思うと、若干の抵抗感はぬぐえない。

決してチャウ・シンチーが嫌いなわけではない。
だから覚悟のうえで見たけれど、良くも悪くも予想通りのコメディ映画だった。
笑えることは笑えるし、ヒロインもとても可愛らしい。
「半人半魚」の説明を聞いた警察官が似顔絵を描くシーンなんかは思わず吹き出した。(皆さんも、何が半分半分なのか想像してみて。)

人魚というか魚人たちはCGで描かれ、それなりのファンタジー映画にもなっている。
カンフーこそなかったけれど、アクションシーンもある。

しかしハリウッド大作と比べるとCGに若干の見劣りがし、そのちゃちさに懐かしさをかんじるほどだ。
まだネットで動画を見ることが少なかった時代、中華圏ではVCDという動画を見るためのCDが普及していたのだけど、この映画は映画館のスクリーンで見るより、正規か海賊版かわからないVCDで見るほうがしっくりくるかんじがする。
それくらい、なんとなーく古くさい。
わざと‘やや古’感を出すように、チャウ・シンチーが仕掛けているのかもしれない。
でなかったら、オープニングとクライマックスに『ドラゴン怒りの鉄拳』のテーマを使わないかもね。

ストーリーとしてはこんなかんじだ。
大金持ちで実業家のリウは、買収した湾を埋め立てるために、ソナーを使って海洋生物を排除しようとしていた。
ソナーのせいで湾の行き場を失った魚人族たちは、主人公シャンシャンをリウ暗殺の刺客として送り込む。
ニートラップなはずが、二人は恋に落ちて…、というかんじ。

人間に変装させるため、ナイフで人魚の尾びれをサクッと切って脚にする。
そこには、本家の人魚姫が持つ決死の覚悟はない。
変身ではなく変装なので痛みもない。
本家の人魚姫が、歩くたびに刃の上を歩くような激痛が走るのとは大違いだ。

途中も、仲間のタコ男が脚を鉄板で焼かれたり、ナイフでタコの脚が切断されたりするシーンが出てくるけれど、深刻なものではない。

クライマックスでリウが身体をはってシャンシャンを守るときでさえ、超人のごとく痛みが少なかった。
胸に矢が刺さって貫通しているのに歩き続ける、人間の不思議なことよ。

魚には痛覚がないというのは俗説らしいけれど、どうもチャウ・シンチーの映画には痛覚がない。
確かに、いちいち痛みを感じていたら、笑えるものも笑えないとは思う。
例えば、『トムとジェリー』でトムがぺっしゃんこになるたび身体的苦痛が伝わってきたら、笑えるどころか辛くて見ていられなくなるだろう。

身体的苦痛はまあなくてもいいとしても、心の痛みもほとんどないのはいかがなものか。
物語中には、二つの三角関係が出てくる。
タコ男はシャンシャンのことが好きなようだし、リウには事業上のパートナーでもあった実業家の彼女ルオランがいた。
ルオランはあからさまな怒りを爆発させるけれど、単なる腹立ちにしか見えない。
恋の悲しみが感じられないのだ。

そもそも主人公二人は、人間と人魚という生物学的な壁を悩むこともないまま、くっついてしまう。
実にアッケラカンとしている。
悲哀も何もなく、頭を動かすとカランカランと音が鳴りそうに軽い。
だから笑えるんだろうなぁ。

この映画、中国歴代興業収入第一位、アジア歴代収入第一位なのだそうだ。
日本ではミニシアター上映なのに?
中国人にとって、いったいこの映画のどこが魅力だったんだろう?

ひとつ考えられるのは、バカバカしくて笑えるコメディの中に、拝金主義VS環境保護というテーマが感じられることだ。
まさに今、中国が抱える二つの社会問題。
お金よりも美しい海とキレイな空気。

ていうか、中国ではラブストーリーよりお金の話、お金の話より環境問題が深刻!ってことなのかしら。
いずれにせよ、原作どおりの悲恋だったら、中国ではヒットしなかったかもしれないね。

みうらじゅん&いとうせいこうの「ザ・スライドショー」も20年。

みうらじゅん 映画

演芸とか演劇とか、いろんなものを見に行く。もちろん、お笑いや落語、コメディも見る。

けれど、お腹がよじれるほど笑って、ツボに入りすぎて倒れ込んでも笑いが止まらなかったのは、あとにも先にもみうらじゅんいとうせいこうの「ザ・スライドショー」だけだ。

 

ザ・スライドショー」というのは、みうらじゅんいとうせいこう、そしてスライと呼ばれるスライド機の2人+1台をロックンロール・スライダーズと呼び、みうらじゅんが集めてきた写真のスライドを見せるトークショーのことだ。

私が見に行ったのは2012年の『ザ・スライドショー12 みうらさん、今度は見仏記SPかよ!』だった。

あんまり面白かったので、お土産に過去のDVDを買ってしまったくらいだ。

お土産と言えば、スライドショーでは毎回、観客に「そんなの要らないよ!」とツッコまれるためのお土産が渡される仕組みになっていて、「12」では特大の3Dピクチャーをもらった。

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A3サイズのうえ硬くて丸められないので、持って帰るときも邪魔になったし、部屋でも収納場所がなくてずっと邪魔になっている。

狭い部屋なので放置していても目に付いてしまうのだが、眺めて美しい二人ではないので、心底不要なお土産だったな、と思う。

 

今回その「ザ・スライドショー」が20周年を迎え、記念の映画ができたらしい。

ちょうど先週、その映画『ザ・スライドショーがやってくる!「レジェンド仲良し」の秘密』を三宮の国際松竹でやっていたので見に行った。

映画 ザ・スライドショーがやって来る!「レジェンド仲良し」の秘密

 

三宮近辺は火曜日がレディースデー。

てっきり1,100円だと思い込んで窓口で1,100円だけを出し、窓口スタッフが受け取らないのでイライラしていたら、

「1,800円です。この作品は一律料金ですので」

と言われて恥をかいた。

何よケチ!(←というほうがケチなのだが。)

 

シアターの入り口で、お土産を渡された。

記念のマグネット。

ああ、それで一律料金だったのか。

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映画はこれまでの軌跡と二人のインタビューで構成されていた。

「『レジェンド仲良し』の秘密」というサブタイトルどおり、二人が恋人のごとく仲がいいのはよくわかったけれど、「ザ・スライドショー」本体の面白さにはかなわない。

ザ・スライドショー」を見たことがなく映画を初めて見る人には、残念ながら魅力は伝わらないだろう。

 

驚いたのは20年という年月で二人がえらく歳をとったことだ。

ザ・スライドショー」が始まった頃の映像なんか見ると、二人の若さに驚愕する。

まずみうらじゅんの声の違いにビックリするし(昔は今ほどの笑福亭系ダミ声ではなかった)、いとうせいこうなんてメガネと髪型の印象が強いせいもあるだろうけど別人みたいだ。

若いほうがかっこいいかというとそうでもなくて、若いときのほうが二人ともアクがあって胡散臭く、今のほうが穏やかで好ましいかんじがする。

いい歳の取り方をしている、ということなんだろう。

 

最近よく20年くらい前のことを思い出す。

ちょうど自分が20歳くらいだったから、余計に感慨深いのかもしれない。

 

映画が始まる前、『T2 トレインスポッティング』の予告編が流れて鳥肌が立った。

www.t2trainspotting.jp

そうか。これも20年か。

自分たちの世代を代表する映画が『トレインスポッティング』だった。

前作と同じく、UnderWorldの『Born Slippy』が流れる。

20年前に20歳過ぎだったかつての若者には、胸が締め付けられるほどせつない。

倍を生きてきて、私たちはいったいどこへたどり着いた?

 

話をみうらじゅんに戻そう。

20年前はみうらじゅんもまだ地下にいた。

今はマルチタレントみたいになっているけど、当時の主な肩書は、漫画雑誌『ガロ』の漫画家、だけだったと思う。

 

その頃、みうらじゅん根本敬というガロ系人気漫画家2人のWサイン会が京都の書店で開催された。

私は根本先生のファンだったので、京都まで足を運んだのだった。

 

サイン会参加者の列はATM式のフォーク並びになっていて、最初は一列に並び、直前にみうらじゅん列か根本敬列に分かれる仕組みになっていた。

列に並ぶと、私たちの後ろに中高年女性3、4人がやってきた。

いかにも関西のおばちゃん、といったグループで、ぺちゃくちゃ賑やかにおしゃべりをしている。

ほかの参加者は、いかにも『ガロ』読者といった若者ばかりなのに、おばちゃんグループは明らかに異質だった。

 

何かと間違ってるんじゃないかなぁ、漫画家ですよ、演歌歌手とかじゃないんですよ、と後ろを振り向いて教えてやろうかと思いつつも、おばちゃんたちはひっきりなしにおしゃべりしいるので声もかけられなかった。

 

列が二つに分かれるときがきて、私は根本列に、おばちゃんたちはMJ列に分かれた。

私が根本先生にサインをしてもらうタイミングと同じくして、おばちゃんたちはみうらじゅんに対面した。

じゅんちゃ~ん、とおばちゃんたちが口々に話しかけだし、センターの女性が何か大きな菓子折りを差し出した。

すると、みうらじゅんが、

「根本さん、根本さん」

と、私のサイン途中の根本先生に声をかけた。

「根本さん、これ、うちのオカン」

私の後ろに並んでいたのは、みうらじゅんのオカンとそのお友達だったのだ。

自分の息子のサイン会に並ぶというのも、いかにもみうらじゅんの母という感じがする。

 

ときどき、みうらじゅんトークの中に両親、特に母親の話が出てくる。

一人っ子で両親の愛情をたくさん受けて育ったらしい。

ミカンを食べるときに、お母さんが皮から袋まで全部むいてくれるので、大人になるまでミカンのむき方がわからなかった、というエピソードがあるくらいだ。

みうらじゅんの著作に『「ない仕事」の作り方』というのがあるが、「みうらじゅんの作り方」があるとするなら、お母さんの愛情が大きな要素なんだろうなぁと思ってしまう。

 

私も一人っ子だから、そのかんじがなんとなくわかる。

ちょっとくらい他人と違っていても、変わった趣味があっても、親が許してくれる。

他人がどう思おうと親は受け入れてくれるので、伸び伸び育ってしまうのだ。

それは一般的に「甘やかし」というけれど、他人に迷惑をかけない程度ならそれもいいのかもしれない。

 

そういえば、兵庫県が生んだアバンギャルドのスーパースター横尾忠則も、徹底的に甘やかされて育ったらしい。

ということは、こういう法則があるというわけだ。

 

甘やかされると人は変わった人に育つ。

 

子育て中の皆さん、その点じゅうぶん覚悟してお子さんを甘やかしてください。