臨終の2日目
母が亡くなった夜、ひしひしと感じたのは、人手不足、労働力不足だった。
葬儀のことは私しか動けない。
サトイモの面倒は見ないといけない。
取るものもとりあえず神戸を出てきたので、不足しているものも多く、自分のことですら容量よくできない。
そのうえ、葬儀とかお寺とかしきたりについて、私自身の知識と経験がなさすぎる。
銀行などにある遺産相続相談のチラシに、「ご遺族は悲しむ暇もなく事務的な手続きに追われ…」という文章が書いてあったけれど、本当にそのとおりで、もっと母のことを考えていたいのに、本当にそんな暇はなかった。
途方に暮れる感覚に襲われながら、ふと頭に浮かんだのは、サトイモの児童発達についての書類に出てきた、自立についての話だった。
「自立というのは、自分一人で何でもできることだけを言うのではない。できないことがあれば、周りの人に助けを求めることができることも自立の一つ」
(サトイモは発達支援教室で、できないことに対して「せんせいてつだって」と適切な場面でヘルプを言う練習をしている。)
そこで、私は2人に助けを求めた。
喪服という遺産
まず一人頼ったのは、K叔母だった。
K叔母は母の弟K叔父の配偶者である。
K叔母は京都府丹後半島出身で、実家は丹後ちりめんの帯を作っている工房だった。
その縁で、K叔母から紹介してもらった呉服屋さんから、母はいくつか着物を買っていた。
「あんた、訪問着こさえたったからな」
母はいつも唐突に、欲しくもないものを買ってやったとおしつけがましく言うのだった。
「訪問着?!そんなんいつ着るん?着付けもできへんのに!」
「訪問するときに着たらええやんか。どこなと着て行ったら?着付けは自分で習たらどう?」
母自身も着付けができないくせに、よくそんなことを言った。
喪服も、そのパターンだった。
「あんた、葬式用の喪服も作っといたったで。親の葬式にワンピースはあかん。着物着とかな恥ずかしいで。これから、お父さんのときとお母さんのときと2回は着れるからな」
そう言われていたのだから、母の葬儀で着ないわけにはいかない。
そのために、2年前着付け教室に通ったのだが、すっかり着方を忘れてしまった。
喪服はどこにあるか確認をしていたものの、いざ出してみると、ニ枚ずつある。
どれがどれなの?!?
どうやら夏用と冬用だと思われるものの、間違ったら目も当てられない。
そこで、K叔母に連絡することにした。
連絡するのに腰が重かったのは、母が病気になって以降、うちの父とK叔父・K叔母との関係がギクシャクしていたからだ。
それでも、勇気を出して電話をしてみると、叔母は快く、うちまで見に来て着物を確認してくれることになった。
午前中やってきたのはK叔母と、母の兄の配偶者Y伯母の二人だった。
Y伯母はしきたりに詳しいので、K叔母がわざわざ連れてきてくれたのだった。
着物や小物を見さだめながら、二人でにぎやかに仕分けをしていってくれた。
コーリンベルトがない、とわかると、K叔母は家から持ってきてくれると約束してくれた。
草履を出したときに、Y伯母が、
「たか松さんはピーズのええ草履を持っとったよ。これでもええけど、それ履いたらどう? どこにあるかわからへん?」
と私に尋ねる。
「ビーズの草履ですか?」
「そう、ピーズの草履」
「ビーズの」
「ピーズの」
伯母がビーズをピーズと発音するのが気になってしょうがなかった。
伯母、85歳。
私からしたらピーズはロックバンドでしかないんだけど。
伯母が言う、母が持っていた素敵な「ピーズ」の草履は、結局靴箱には見つからなかった。
母の着物箪笥のほうにあるのかもしれないけれど、探すのも大変だ。
正直、良い品とかオシャレな品を身につける余裕は全くなかった。
やりこなすことで精一杯。
着物の仕分けが終わったあと、伯母が、
「そしたらなみ松ちゃん、あれ、替えとこか」
と床の間を指差した。
お正月のときのまま、「百福」の掛軸が掛かっている。
「あ。確かにまずいですね」
そのあと、二人に手伝ってもらいながら、押し入れから法事用の「南無阿弥陀佛」の掛軸を探し出して、掛けかえ作業。
一人ではこんなことできなかった。
伯母が言うには、葬儀の後、皆でお寺に行って、そのあと家に戻ってくるから家(仏壇周り)を片付けておかないといけないらしい。
そのときは、なんでお寺に行くのか、そのあと何が家に来るのか、伯母が言っている意味がさっぱりわからなかったが、あとで伯母のアドバイスどおりだったことが判明する。
伯母たちが来ていたその時間、父は何をしていたかというと、のそのそと起きてきて、ダイニングでタバコを吸っていただけだった。
伯母たちの挨拶に適当に相槌を打つ。
しかし、感謝とか申し訳なさはない。
またもや、
「見舞いに行ったかて、しゃべられへんのやから」
と母の最期のことを言っていた。
サトイモは、私達がにぎやかに作業する横でグーグー眠っていた。
前日は夜中まで起きていたのだから、昼まで寝ていても仕方ない。
「寝かしとき寝かしとき」
と伯母たちが言うので放っていたが、伯母たちが帰ってから後悔したのは、サトイモがオネショをしていたのがわかったときだ。
取るものも取りあえず出てきたから、着替えも乏しい。
ゲンナリしながら慌てて洗濯し、布団の始末。
親友の助け
もう一人、助けを求めたのは中学時代の親友。
こんなときばかり友達を頼るなんて、と申し訳なく思いながら、Jちゃんにラインを送った。
この日は午後から、葬儀屋が「末期の儀」と呼ぶ湯灌の儀式があるし、葬儀の段取りについて、まだ打合せも残っている。
火葬許可証の申請に必要な死亡診断書の手続きや、遺影に使う写真選びなど。
その時間、少しサトイモを見ていてくれる人がいてくれたら、どんなに助かるか。
友達は快く引き受けてくれて、かけつけてくれた。
日曜でよかった、と思う。
このとき、友達と会えただけで、私の緊張が少し和らいだ。
昨日以来、たくさんの人と言葉は交わした。
病院スタッフ、葬儀屋スタッフ、お寺の住職、親戚たち。
会話だけれども、それは用事でしかない。
父やサトイモは、一緒にいても「話」が通じない。
連絡をした親戚たちは心が遠い。
Jちゃんが来てくれて、やっと「私」を知ってくれていて、そのうえで言葉が交わせる人が来てくれた気がした。
孤軍奮闘していた中で、唯一の味方。
本当にありがたかった。
Jちゃんは母に丁寧に手を合わせてくれたあと、2時間ほどサトイモを預かって、兵庫県立こどもの館に連れて行ってくれた。
あまつさえ、彼女の息子さんが使っていた絵本やおもちゃを探して持ってきてくれた。
私は彼女に何もしてあげてないのに、と後ろめたく思う。
こういうとき、サトイモはなかなかおりこうさんで、人見知りをすることもなく、ワガママも言わず、興味津々でJちゃんの車に乗り込んで出掛けて行った。
困らせる言動もなかったという。
帰ってきても、
「Jちゃんはすごくやさしいねぇ〜」
と上機嫌だった。(いまだに、「Jちゃんはやさしい」と口にする。)
好奇心旺盛で、非日常に強いところはサトイモの大きな長所である。
末期の儀
15時から、湯灌が始まった。
母の遺体をお湯できれいに洗って、着せ替えてくれる作業。
作業、というか儀式なので、ヒシャクで母の身体に清めのお水をかけたり、綿棒で口に水を含ませたりする。
この水が生前の悩みや苦しみを洗い流す、と言われると、いっぱいいっぱいかけてあげたい気持ちになる。
ところが、
「喪主様からどうぞ」
と言われても、父は椅子に座ったきり、
「ええわ」
と手を振る。
ええわって何やねん…。
仕方がないので、
「代わりに私が」
と全部の行程、私が2回ずつ行った。
その後、母はキレイにお化粧をしてもらった。
死にたて(!)のときと比べて、なんと美しくなったことか。
ポカンと開いていた口も閉めてもらう。
さすがプロ!
自然な光沢のあるアイメイク、今どきのツヤ感あるリップカラーで、思わず私も同じメイクをしてもらいたくなった。
そして、これが最後かもしれないので、手を握らせてもらう。
冷たいけど、まぎれもない母の手だった。
再び泣き崩れる。
そののち、遺体はきれいにお棺に納められ、私達が過ごす親族控室にやってきた。
お棺の中には保存のためにドライアイスが入っているので、決してアクリル板を開けないようにと言われる。
これを開けて中の二酸化炭素を吸ったために、死亡事故を起こした人がいるらしい。
冗談のようなホントの話。
そして、一緒に過ごす夜は2日間。