3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

石原慎太郎に見る最悪の上司

松本隆作詞・細野晴臣作曲の『ハイスクールララバイ』を歌ったのはイモ欽トリオだったが、彼らのコンセプトは「良い子悪い子普通の子」という3段落ちコントだった。

それになぞらえて、上司の3段階を考えてみた。

【良い上司】
部下から提出された報告書や稟議書は一通り目を通して、するどいところを指摘し、どうすれば良くなるのかをアドバイスしてくれる。問題があったときは速やかに部下に事情や経緯をヒアリング。あとは自分ひとりで立ち向かい、「これは決断した自分の責任です」と言って部下の個人名を出さない。

【普通の上司】
部下から提出された報告書や稟議書はパラパラめくり、誤字脱字レベルのど~でもいい重箱の隅はつつく。問題があったときは、「君がやったことだけど俺も責任者だし、一緒に謝りに行こうか。報告があったのは覚えてるけど中身は忘れたから、説明は君がするように」と言われる。

【悪い上司】
「信頼してるから任せた」と言って、部下の報告書や稟議書は読みもしない。面倒くさがって説明も聞く耳を持たない。判子を勝手に押しておくように部下に預けたり、システムのID ・パスワードも教えて仕事を丸投げする。問題があったときは「部下がやったことで、私は知りませんでした。判子を押した記憶はありませんし、処理をした記憶もありません」と言う。似たようなセリフに「前任者がやったことで、私は預かり知りません」がある。

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良い上司はUMAレベルなので存在すら未確認だが、悪い上司はダンジョンの腐った死体レベルで出没する。

たくさんの管理職が「聞いてない」「そんなこと言ってたか?」「覚えてない」「記憶にない」と言うのを耳にしてきた。
「やることがたくさんあって、そんな細かいこといちいち覚えていられない」
というのが言い訳だが、こちらからすると、
「ひょっとして認知症なのかな?だったら本人のためにも会社をやめていただいたほうがいいのにな…」
と思うことも多い。
脳では海馬が記憶を司るというけれど、管理職を長くやっていると馬は豚へ変身し、いつしか海馬は海豚になるんじゃないか。

先日の石原慎太郎氏はまさに、悪い上司の典型だった。
かつて「理想の上司」にランキングされていたのが笑わせる。
投票した人、大丈夫ですか?


私の上司にも昔、プチ原慎太郎がいた。
プチ原課長はいつも、
「波野さんの好きにしたらいいよ」
が口癖で、何を相談しても受け流されていたのだけれど、あるとき部長に呼ばれて、
「この企画は何や」
と問いただされた。
私が提案し、長い時間かけて課長と打ち合わせして決めた企画だったので、プチ原課長が部長に説明をしてくれるのかと思いきや、
「そうだよ波野さん、これは僕もどうかと思うなぁ」
と言われてひっくり返った。


逆にプチ原課長が一人で資料を作るときもあったのだが、あるときやはり部長に呼ばれ、
「ここの数字はどうなってるんや」
と尋ねられたプチ原課長は、私のほうを振り返り、
「波野さ~ん、ちょっと~」
と呼んだ。
まじで?!
私ぜんっぜん知らないし!
やられたわ。そのタイミングで名前呼ばれたら、まるで私が作ったみたいになるじゃないかよ!


今エピソードを紹介した課長は、「部下になすりつける系」のプチ原慎太郎だったけれど、別のパターンもある。

ビッグマウス系」のプチ原慎太郎だ。
男性は偉そうな態度に騙されやすいので、「あの人はできる人なのかも」と思い込まされてしまう。
「組織のため、会社のため、顧客のため」と口では標榜するくせに、内実は自分のためだったりして、口と行動が矛盾する。
人件費を節約するなら、安いパートさん切るより、高給取ってる自分達が先に退陣すればいいのに、60過ぎても会社に居座ってしまう、プチ原慎太郎。

税金を無駄使いしたり、国有地をディスカウントする愛国者たちもその典型だ。
国を愛するなら10倍の税金を払って貢献してくれよ、と情けなくなる。

石原慎太郎氏は記者会見前に「果たし合いに向かう侍の気持ち」と言っていたけれど、そんな侍には、この曲、RHYMESTERBIG MOUTH 』を送ろう。
聞きあきたぜそのでけぇくち!

ピッコロ劇団『踊るシャイロック』の憂鬱

かつて元町高架下にBee’s Kneedsというバーがあった。

Rock’n Jelly Beanのポスターが飾られ、古い日本のアニメのおもちゃなんかが置いてあり、トイレに生首がぶら下がっている楽しいお店だったので、会社帰りにときどき立ち寄っていた。

お酒が飲めなくてクランベリージュースしか頼まない私でも、店主のカナダ人は優しく接してくれて、私の拙い英語のおしゃべりに付き合ってくれた。

 

いろんなことを話したけれど、ひとつ印象に残っているのが、「Jewish」に関する私の素朴な疑問だ。

「私たちなら日本人・韓国人・中国人の見分けがつくけど、あなたたちからすれば同じでしょう。それと同じで、私たちからするとユダヤ人(Jewish)と白人(Caucasian)の違いがわからないのよ」

 

なぜそんな話をしたか経緯は覚えていないが、私がそんなことを言うと、

「僕らだってわからないよ」

とカナダ人は言った。

「わからないの? てっきり何か違いがあるのかと思ってた」

「Jewishってのはユダヤ教を信じている人のことだよ。Religion(宗教)なんだよ」

「そうなの?Race(人種)じゃないの?」

 

それ以上はうまく英語で言えなくて、話の記憶もそこで終わっている。

正直言って、私はいまだに「ユダヤ人とは何なのか」がわかっていない。

 

ユダヤ教」と「ユダヤ教徒」についてなら、少しずつ知識は増えた。

教会じゃなくてシナゴーグに通う(神戸にもシナゴーグがある)とか、クリスマスじゃなくてハヌッカーを祝う、とか、神父様じゃなくて司祭はラビという、などなど。

 

でも、人種じゃないなら、どうして「ユダヤ人は頭がいいから金儲けがうまい」なんて言われたり、「ボブ・ディランのカーリーヘアと鉤鼻は典型的なユダヤ人だ」なんて言う人がいたりするんだろう。

宗教を信じるかどうかと、血統や遺伝子は異なるはずじゃないか。

なぜユダヤ人は迫害されているの?

欧米では自明のことのようにはびこっているが、私たち東洋人には理解できない。

逆に、日本人・中国人・韓国人がお互いに差別し合っていても、欧米では東洋人でひとくくりにされるのと同じ。

違う地域に来てみれば、宗教の違いも何国人かの違いも、目くそ鼻くその世界。

それで差別しあうなんて、あほくさく、愚かしい。

なのに、狭い地域では差別意識が空気のようにねっとりとまとわりつく。

 

 

先週、神戸アートビレッジセンターにピッコロ劇団『歌うシャイロック』を見に行った。

hyogo-arts.or.jp 

元・新宿梁山泊の鄭義信が手掛ける関西弁のミュージカルで、シェイクスピアの『ベニスの商人』がベースになっている。

ヴェニスの商人 - Wikipedia

 

ベニスの商人』という喜劇について、私は「嫌われ者のユダヤ人金貸しが登場する話」という知識しか持っていなかった。

原作を知らないまま劇を見たのだけど、『ベニスの商人』ってこんなにすごい話だったのか!と目からウロコが落ちた。

シェイクスピア喜劇にこれほど感動するなんて思ってもみなかった。

(※これ以降、ネタバレを含み内容に言及しますが、舞台を一度見ただけのうろ覚えのセリフであることをご容赦ください)

 

原作はどうか知らないが、『歌うシャイロック』でフォーカスされているのは金貸しシャイロックとその娘ジェシカのユダヤ人親子である。

被差別者としての苦しみと悲しみと孤独が真に迫っていて、特にジェシカの、恋人ロレンゾとの恋の顛末については涙を誘う。

ジェシカは、「あの人が、私をこの冷たい井戸の底から救い上げてくれる」と信じ、父シャイロックの金を持ち出し、ユダヤ人であることを捨ててまでロレンゾと駆け落ちをする。

しかし、金を手にしたロレンゾは人が変わってしまい、ジェシカの苦悩は深まる。

そしてふとしたセリフから、ロレンゾも心のどこかで自分を差別していたのだと知ったときの絶望。

最後は気が狂ってしまって幼児がえりする様子はちょっとやりすぎな気もしたけれど、ジェシカがこの物語の影のヒロインであることは間違いない。

 

ジェシカが影なら、表のヒロインは剣幸が演じる大金持ちの貴婦人ポーシャだ。

鄭義信の独自の解釈なのか、ポーシャという女性についても、すごく深みを感じさせてくれた。

ポーシャには、金・銀・銅の箱のいずれかのうち、正しい箱を選んだ男と結婚するようにという死んだ父親の遺言があった。

箱を開けられる人が現れないので‘行かず後家’になってしまった、という設定で、ポーシャは年増に描かれていて(配役に合わせたのかしら?)、ポーシャと侍女の二人の関西弁のやりとりはオバハンそのものである。

最初ポーシャは、「誰でもいいから早く箱を開けてくれないかしら」と言っているが、やがて誰ともわからぬ男との結婚が不安になってきて、「女は結婚しないといけないの?」と疑問を呈するようになる。

「父の遺言」に左右され、自分の人生を生きられない不自由さ。

この物語のクライマックスである裁判のシーンでは、男に変装したポーシャが法学者として登場し、一休さんばりのトンチで主人公アントーニオを救う。(さすが元宝塚のトップスターさんだけあって男装がとても素敵。これほどの適役はない。)

覆面ヒーローとして活躍するポーシャは、知識があり、頭が良く、度胸もある。

でも、「女である」ために、変装しなければ実力を発揮できない。

「男のふりをしなければ活躍ができなかった」というところに、ポーシャの悲劇がある。

「十年後、五十年後、百年後には、女性が女性のままで活躍できる世界になっていますように」と高らかに歌うポーシャに、希望の光が当たる。

 

ベニスの商人』というのは貿易商アントーニオのことで、彼が主人公である。

けれど、正直言って彼はそんなに出てこないし、そんなに目立つ人物ではない。

冒頭、アントーニオが「憂鬱」であることが話題になるが、憂鬱の原因が何なのかはっきりとは語られない。

これについてはどうやらシェイクスピアの原作でもそうらしい。

 

ただ、現代の私たちの眼からすると、アントーニオとパッサーニオの不自然なほどの仲良しっぷりが同性愛っぽく映る。(そういう演出なんだろうけど。)

パッサーニオはポーシャに求婚するくらいだからストレートなのは明らかなんだけど、アントーニオは実はパッサーニオのことが好きなんじゃないか、と推測される。

 

シャイロックの証文どおりに「身体の肉を切り取られてもかまわない」と言うアントーニオの「死にたい願望」は、冒頭の憂鬱とつながっている。

もしかしたら、同性愛者である自分の、パッサーニオへの愛が報われないことによる厭世観なんじゃないか、と観客の腐女子は確信してしまう。

 

だからこそ、アントーニオがパッサーニオを見限るシーンが切ない。

裁判のあと、シャイロックの行く末を案じるアントーニオに対してパッサーニオが言った、

「あんなユダヤ人なんかのために君が悩む必要はない」

という言葉にアントーニオがひっかかる。

「僕が迫害を受ける立場になったら、君は石を投げる側に回るだろう。自分に似合わない帽子を被りたがる君を、僕は特別な存在だと思っていたが、それは勘違いだった」

と悲しむアントーニオ。

 

観客はアントーニオの気持ちを深読みしてしまう。

アントーニオがもし同性愛者だとカミングアウトして世間から迫害を受けたとしたら、パッサーニオはどうするだろうか、と。

これまでと変わらずに「僕たちは友情で結ばれている」と言ってくれるのか…。

 

エンディングはパッサーニオがポーシャのもとに戻り大団円を迎えるが、アントーニオはパッサーニオから離れていく。

気の毒なアントーニオ。彼の憂鬱は消えない。

 

そしてアントーニオの憂鬱は、あらゆる差別の中で生きている私たちの憂鬱でもある。

 

作・演出の鄭義信は、在日コリアンならではの作品を描き出してきた作家だ。

だからおのずと、ユダヤ人と在日コリアンが重なってしまう。

シェイクスピアが意図したかどうかにかかわらず、物語が内包する普遍性を感じずにはいられない。

 

ちなみに、舞台はイタリアなのにみんな関西弁でしゃべる不思議な空間について、ちょうど同時期に見たツイッターのイラストが重なった。素敵すぎるので勝手に紹介。

twitter.com

シェイクスピアを関西弁でやるというのは、こんなかんじなんだよね。

チャウ・シンチーの『人魚姫』には痛覚がない。

「最近の小さい子はどんなアニメが好きなの?」
と、幼稚園児のお母さんである友達に尋ねると、
「うちの子はディズニープリンセスが大好きなのよ」
という答えが返ってきた。
なるほどなるほど。小さい女の子らしい可愛い趣味だ。

しかし私はディズニープリンセスの映画をひとつも見たことがない。
だいたい、聞くところによると原作とずいぶん違うっつーじゃないですか。

「しかしまあ『ラプンツェル』なんて、あんな残酷な話がよく映画になったね」
と重ねて私が尋ねると、彼女が話す映画のストーリーと、私の知っている『チシャ菜姫』(ラプンツェル)は全く異なっていた。
えっ? 王子は塔から突き落とされて目をつぶされないわけ?
しかしそれよりもっと驚いたのには、人魚姫である『リトルマーメイド』のラストだった。
なんで?
なんでめでたしめでたしになってんの?
ディズニーめ、なんでもハッピーエンドにすりゃあいいと思うなよ!!

私の手元に、中原淳一『七人のお姫さま』という本がある。

七人のお姫さま

七人のお姫さま

主人公がお姫様の七つの童話(親指姫、人魚姫、白雪姫、白鹿姫、雪姫、シンデレラ、ポストマニ)に、中原淳一の愛らしい挿し絵がついた絵本だ。

どこの店だったか展覧会会場だったか、装丁の美しさに惹かれてこの本を手に取った。
しかし、購入の決め手となったのは『人魚姫』が入っていたことだ。

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『人魚姫』の物語は、ほかのお姫様童話と一線を画す。
人生経験のない子供よりも、何回か失恋を繰り返した大人の女の方が心に沁みる。

何といっても、他のお姫様と比べて人魚姫は能動的だ。
冒頭からして、王子に助けられるのではなく、逆に助けちゃう、という強さと勇敢さ。
恋する王子に逢いたいために、魔女の薬を飲んで尾ひれを脚に変え、激痛に耐え、魔女に舌を取られて声も失うという激情。
王子を助けたのは自分なのに、勘違いでよその女に王子を取られるという悲劇。
王子を殺せば元の人魚に戻れるのに、自ら泡と消える選択をした切なさと虚しさ。

何この童話、中島みゆき?!
アンデルセンすごすぎ!!
と、今振り返っただけでも彼女の痛々しさに悲しみが込み上げてしまう。
これほど激しい恋心と痛々しい片想いの童話はないはずだ。

そんなわけで『人魚姫』は私の特別な童話なのだけれど、今週から元町映画館で『人魚姫』が上映されているので観に行った。

www.ningyohime-movie.com


なんと、監督は『少林サッカー』のチャウ・シンチーだというではないか。
西遊記~はじまりのはじまり~』では史上最悪最低かつ最もゲスい孫悟空を登場させた監督のことだから、『リトルマーメイド』以上にアンデルセンの人魚姫とは別物なのはわかっている。
わかってるけど、あの悲恋がチャウ・シンチー流のコメディにされてしまうのか…、と思うと、若干の抵抗感はぬぐえない。

決してチャウ・シンチーが嫌いなわけではない。
だから覚悟のうえで見たけれど、良くも悪くも予想通りのコメディ映画だった。
笑えることは笑えるし、ヒロインもとても可愛らしい。
「半人半魚」の説明を聞いた警察官が似顔絵を描くシーンなんかは思わず吹き出した。(皆さんも、何が半分半分なのか想像してみて。)

人魚というか魚人たちはCGで描かれ、それなりのファンタジー映画にもなっている。
カンフーこそなかったけれど、アクションシーンもある。

しかしハリウッド大作と比べるとCGに若干の見劣りがし、そのちゃちさに懐かしさをかんじるほどだ。
まだネットで動画を見ることが少なかった時代、中華圏ではVCDという動画を見るためのCDが普及していたのだけど、この映画は映画館のスクリーンで見るより、正規か海賊版かわからないVCDで見るほうがしっくりくるかんじがする。
それくらい、なんとなーく古くさい。
わざと‘やや古’感を出すように、チャウ・シンチーが仕掛けているのかもしれない。
でなかったら、オープニングとクライマックスに『ドラゴン怒りの鉄拳』のテーマを使わないかもね。

ストーリーとしてはこんなかんじだ。
大金持ちで実業家のリウは、買収した湾を埋め立てるために、ソナーを使って海洋生物を排除しようとしていた。
ソナーのせいで湾の行き場を失った魚人族たちは、主人公シャンシャンをリウ暗殺の刺客として送り込む。
ニートラップなはずが、二人は恋に落ちて…、というかんじ。

人間に変装させるため、ナイフで人魚の尾びれをサクッと切って脚にする。
そこには、本家の人魚姫が持つ決死の覚悟はない。
変身ではなく変装なので痛みもない。
本家の人魚姫が、歩くたびに刃の上を歩くような激痛が走るのとは大違いだ。

途中も、仲間のタコ男が脚を鉄板で焼かれたり、ナイフでタコの脚が切断されたりするシーンが出てくるけれど、深刻なものではない。

クライマックスでリウが身体をはってシャンシャンを守るときでさえ、超人のごとく痛みが少なかった。
胸に矢が刺さって貫通しているのに歩き続ける、人間の不思議なことよ。

魚には痛覚がないというのは俗説らしいけれど、どうもチャウ・シンチーの映画には痛覚がない。
確かに、いちいち痛みを感じていたら、笑えるものも笑えないとは思う。
例えば、『トムとジェリー』でトムがぺっしゃんこになるたび身体的苦痛が伝わってきたら、笑えるどころか辛くて見ていられなくなるだろう。

身体的苦痛はまあなくてもいいとしても、心の痛みもほとんどないのはいかがなものか。
物語中には、二つの三角関係が出てくる。
タコ男はシャンシャンのことが好きなようだし、リウには事業上のパートナーでもあった実業家の彼女ルオランがいた。
ルオランはあからさまな怒りを爆発させるけれど、単なる腹立ちにしか見えない。
恋の悲しみが感じられないのだ。

そもそも主人公二人は、人間と人魚という生物学的な壁を悩むこともないまま、くっついてしまう。
実にアッケラカンとしている。
悲哀も何もなく、頭を動かすとカランカランと音が鳴りそうに軽い。
だから笑えるんだろうなぁ。

この映画、中国歴代興業収入第一位、アジア歴代収入第一位なのだそうだ。
日本ではミニシアター上映なのに?
中国人にとって、いったいこの映画のどこが魅力だったんだろう?

ひとつ考えられるのは、バカバカしくて笑えるコメディの中に、拝金主義VS環境保護というテーマが感じられることだ。
まさに今、中国が抱える二つの社会問題。
お金よりも美しい海とキレイな空気。

ていうか、中国ではラブストーリーよりお金の話、お金の話より環境問題が深刻!ってことなのかしら。
いずれにせよ、原作どおりの悲恋だったら、中国ではヒットしなかったかもしれないね。

みうらじゅん&いとうせいこうの「ザ・スライドショー」も20年。

演芸とか演劇とか、いろんなものを見に行く。もちろん、お笑いや落語、コメディも見る。

けれど、お腹がよじれるほど笑って、ツボに入りすぎて倒れ込んでも笑いが止まらなかったのは、あとにも先にもみうらじゅんいとうせいこうの「ザ・スライドショー」だけだ。

 

ザ・スライドショー」というのは、みうらじゅんいとうせいこう、そしてスライと呼ばれるスライド機の2人+1台をロックンロール・スライダーズと呼び、みうらじゅんが集めてきた写真のスライドを見せるトークショーのことだ。

私が見に行ったのは2012年の『ザ・スライドショー12 みうらさん、今度は見仏記SPかよ!』だった。

あんまり面白かったので、お土産に過去のDVDを買ってしまったくらいだ。

お土産と言えば、スライドショーでは毎回、観客に「そんなの要らないよ!」とツッコまれるためのお土産が渡される仕組みになっていて、「12」では特大の3Dピクチャーをもらった。

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A3サイズのうえ硬くて丸められないので、持って帰るときも邪魔になったし、部屋でも収納場所がなくてずっと邪魔になっている。

狭い部屋なので放置していても目に付いてしまうのだが、眺めて美しい二人ではないので、心底不要なお土産だったな、と思う。

 

今回その「ザ・スライドショー」が20周年を迎え、記念の映画ができたらしい。

ちょうど先週、その映画『ザ・スライドショーがやってくる!「レジェンド仲良し」の秘密』を三宮の国際松竹でやっていたので見に行った。

映画 ザ・スライドショーがやって来る!「レジェンド仲良し」の秘密

 

三宮近辺は火曜日がレディースデー。

てっきり1,100円だと思い込んで窓口で1,100円だけを出し、窓口スタッフが受け取らないのでイライラしていたら、

「1,800円です。この作品は一律料金ですので」

と言われて恥をかいた。

何よケチ!(←というほうがケチなのだが。)

 

シアターの入り口で、お土産を渡された。

記念のマグネット。

ああ、それで一律料金だったのか。

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映画はこれまでの軌跡と二人のインタビューで構成されていた。

「『レジェンド仲良し』の秘密」というサブタイトルどおり、二人が恋人のごとく仲がいいのはよくわかったけれど、「ザ・スライドショー」本体の面白さにはかなわない。

ザ・スライドショー」を見たことがなく映画を初めて見る人には、残念ながら魅力は伝わらないだろう。

 

驚いたのは20年という年月で二人がえらく歳をとったことだ。

ザ・スライドショー」が始まった頃の映像なんか見ると、二人の若さに驚愕する。

まずみうらじゅんの声の違いにビックリするし(昔は今ほどの笑福亭系ダミ声ではなかった)、いとうせいこうなんてメガネと髪型の印象が強いせいもあるだろうけど別人みたいだ。

若いほうがかっこいいかというとそうでもなくて、若いときのほうが二人ともアクがあって胡散臭く、今のほうが穏やかで好ましいかんじがする。

いい歳の取り方をしている、ということなんだろう。

 

最近よく20年くらい前のことを思い出す。

ちょうど自分が20歳くらいだったから、余計に感慨深いのかもしれない。

 

映画が始まる前、『T2 トレインスポッティング』の予告編が流れて鳥肌が立った。

www.t2trainspotting.jp

そうか。これも20年か。

自分たちの世代を代表する映画が『トレインスポッティング』だった。

前作と同じく、UnderWorldの『Born Slippy』が流れる。

20年前に20歳過ぎだったかつての若者には、胸が締め付けられるほどせつない。

倍を生きてきて、私たちはいったいどこへたどり着いた?

 

話をみうらじゅんに戻そう。

20年前はみうらじゅんもまだ地下にいた。

今はマルチタレントみたいになっているけど、当時の主な肩書は、漫画雑誌『ガロ』の漫画家、だけだったと思う。

 

その頃、みうらじゅん根本敬というガロ系人気漫画家2人のWサイン会が京都の書店で開催された。

私は根本先生のファンだったので、京都まで足を運んだのだった。

 

サイン会参加者の列はATM式のフォーク並びになっていて、最初は一列に並び、直前にみうらじゅん列か根本敬列に分かれる仕組みになっていた。

列に並ぶと、私たちの後ろに中高年女性3、4人がやってきた。

いかにも関西のおばちゃん、といったグループで、ぺちゃくちゃ賑やかにおしゃべりをしている。

ほかの参加者は、いかにも『ガロ』読者といった若者ばかりなのに、おばちゃんグループは明らかに異質だった。

 

何かと間違ってるんじゃないかなぁ、漫画家ですよ、演歌歌手とかじゃないんですよ、と後ろを振り向いて教えてやろうかと思いつつも、おばちゃんたちはひっきりなしにおしゃべりしいるので声もかけられなかった。

 

列が二つに分かれるときがきて、私は根本列に、おばちゃんたちはMJ列に分かれた。

私が根本先生にサインをしてもらうタイミングと同じくして、おばちゃんたちはみうらじゅんに対面した。

じゅんちゃ~ん、とおばちゃんたちが口々に話しかけだし、センターの女性が何か大きな菓子折りを差し出した。

すると、みうらじゅんが、

「根本さん、根本さん」

と、私のサイン途中の根本先生に声をかけた。

「根本さん、これ、うちのオカン」

私の後ろに並んでいたのは、みうらじゅんのオカンとそのお友達だったのだ。

自分の息子のサイン会に並ぶというのも、いかにもみうらじゅんの母という感じがする。

 

ときどき、みうらじゅんトークの中に両親、特に母親の話が出てくる。

一人っ子で両親の愛情をたくさん受けて育ったらしい。

ミカンを食べるときに、お母さんが皮から袋まで全部むいてくれるので、大人になるまでミカンのむき方がわからなかった、というエピソードがあるくらいだ。

みうらじゅんの著作に『「ない仕事」の作り方』というのがあるが、「みうらじゅんの作り方」があるとするなら、お母さんの愛情が大きな要素なんだろうなぁと思ってしまう。

 

私も一人っ子だから、そのかんじがなんとなくわかる。

ちょっとくらい他人と違っていても、変わった趣味があっても、親が許してくれる。

他人がどう思おうと親は受け入れてくれるので、伸び伸び育ってしまうのだ。

それは一般的に「甘やかし」というけれど、他人に迷惑をかけない程度ならそれもいいのかもしれない。

 

そういえば、兵庫県が生んだアバンギャルドのスーパースター横尾忠則も、徹底的に甘やかされて育ったらしい。

ということは、こういう法則があるというわけだ。

 

甘やかされると人は変わった人に育つ。

 

子育て中の皆さん、その点じゅうぶん覚悟してお子さんを甘やかしてください。

『深夜特急1』とHeartTalking

先週、元町高架下の64カレーでランチを食べていると、ラジオからスピードラーニングのCMが流れてきた。

しかも「スピードラーニング中国語」だ。

英語と同じく、「聞き流す学習法」をうたっていて、「英語よりも先入観のない中国語のほうが聞き流す学習効果は高い」というようなことを言っていた。

 

おいおいそれはないだろ、と、極旨キーマカレーを食べながら鼻で笑ってしまった。

 

もともと、スピードラーニングについては好感が持てない。

そもそもTVCMに出ている「英語が話せるようになった」という人たちの英語が、たいしたレベルではないからだ。

だいたい、「話せる」というのはどういうレベルのことを指すのかがわからない。

 

それでも、スピードラーニングがどんなものか興味があったので、彼氏が会社の人から英語版を借りてきたのを幸い、私も聞かせてもらったことがある。

どんなに画期的な学習教材なのかな~、と期待しながら再生してびっくり、何ら特別なことはない、普通の音声教材だった。

 

スピードラーニングを聞いていれば、英語の学習になる。 それは確かだと思う。

何回か聞けばスキットが覚えられると思うし、覚えたフレーズは話せるようになるだろう。

ただ、それって当たり前のこと。繰り返し聞けば、頭に入る。

何もこれだけが特別優れている教材ではない。

 

日本語と英語が交互に出てきます、というのを売りにしているみたいだけど、多くの学習教材の付録CDはそうなっている。

いたって普通。

例を上げるなら、代表的なのはNHKの語学だ。

NHKのダウンロードだったら、ほとんどが千円以内。

ていうか、テレビやラジオ、NHKのアプリ「らじる★らじる」ならタダだ。

 

呆れる反面、スピードラーニングは商売がうまいなぁ、と感心してしまった。

 

スピードラーニングのカモになるのは、語学学習をしたことがない人たちだ。

やったことがないから、学校の教科書以外の学習教材がどんなものか知らないし、相場の価格を知らない。

普通のものなのに、普通より良いものだと思い込んで、10倍ほどの値段を払う。

カモに対する目のつけどころがすばらしい。

ビジネスとしてあやかりたいものだ。

 

しかも、スピードラーニング中国語は、初心者が多い分、英語よりもタチが悪い。

相場を知らない人が英語より多いからだ。

うちの彼氏は4年前、中国語ができない状態で上海近郊に長期出張に出かけた。

 行って帰っての繰り返しをしつつ、合計すると約2年間くらい滞在していただろうか。

私がちょっとずつ初歩的な中国語会話を教えてあげつつ、現地でちょっとずつ中国語を覚えていった。

今では、簡単な日常会話くらいならできるようになっている。

 

そんな彼氏に、スピードラーニング中国語について、

「聞き流すだけで中国語ができるようになると思う?」

と尋ねてみると、

「あかんやろ」

と即答した。

「英語と違って中国は漢字の国なんやから。日本人は漢字を知ってるアドバンテージがあるんやから、それをうまく生かさなあかんわ」

実戦で中国語を学んでいった彼氏の意見には私以上に説得力がある。

しかも、私と同じ考え方なのでうれしくなった。

 

私は英語より中国語のほうが好きだ。

というのも、英語で全く知らない英単語が出てきたらお手上げだけれど、中国語では知らない単語が出てきても、表意文字である漢字があると、だいたいの意味が推測できるからだ。(もちろんできないものも多いし、誤解をする可能性も大きいけれど。)

それに、音だけで覚えるのではなく、目で見て耳で聞くほうがイメージがつかみやすい。

 

日本語で漢字に読み方があるように、中国語でも漢字に読み方がある。

この漢字はこう読むんだな、とわかった瞬間、たくさんの単語が読めるようになる。

例えば、「方法」という単語を知っていたら、「方」と「法」の両方の読み方を覚えたことになるわけだ。

そうすれば、「方向」という単語は「向」の読み方を知ればいいだけだし、「法律」も「律」の読み方を覚えればすむ。

熟語は漢字の組み合わせなので、知っている単語がどんどん増える。

英語だとこうはいかない。

 

だとしたら、スピードラーニング中国語で漢字を見ずに音だけ知ったところで、音と漢字が結びつかなかったらどうなのか?

すごくすごく損な学習法なんじゃないか、と思わざるをえない。(他にも、声調とか発音の問題などいろいろあるけど、ここでは割愛。)

 

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先日、今年の自分課題図書である沢木耕太郎深夜特急』の「1香港・マカオ」をやっと読み終えた。

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

 

言わずと知れた紀行小説の大ベストセラー。

 大沢たかお主演でドラマにもなった名作だ。

もう20年以上も前から、「いつか読もう」と思い続けて、時期を逸してきた。

文庫本1巻の巻末対談で海外へ旅に出る適齢期についての話があったが、読書にだって適齢期がある。

それを考えたら、私は完全にバックパッカーの旅行記を読むには適齢期を逃しているのだが、介護やら何やらで簡単には海外へ行けない今だからこそ、若者の冒険譚を読むのも悪くない。

 

ところが、サクサク読めるはずの面白い旅行記なのに、なかなか読み進まない。

初めての海外旅行でインドに一人で行ったときの不安や、数年前にマカオのカジノで遊んだワクワクがこみ上げてきて、その度に手が止まってしまったからだ。

 

海外に行くと、自分が一回り成長して帰ってくる気がする。

沢木耕太郎に比べると、私の旅行なんて温泉旅行みたいに生ぬるいものだけど(デリーでは高級ホテルに泊まってたし、カジノで遊んだ軍資金はたった3,000円だった)、それでも、ちっぽけな女の生活に十分なスパイスを与えてくれる。

その場の温度、湿度、匂い、味、そして人々の声、表情。

その土地に私の知らないものがたくさん詰まっている、と思うだけでドキドキする。

 

深夜特急』の香港のくだりでとりわけ共感した一節があった。

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日がたつにつれて、しだいに身が軽くなっていくように感じられる。言葉をひとつ覚えるだけで、乗物にひとつ乗れるようになるだけで、これほど自由になれるとは思ってもみなかった。

(中略)

香港に着いたとたん急に英語がうまくなる、などという奇跡が起こるはずはない。単語を並べるだけの英語であることには変わりなく、少し混み入った話になるともう口が動かなくなってしまう。だが、それを恐れることはないということがわかってきたのだ。口が動かなければ、手が動き、表情が動く。それでどうにか意を伝えることはできる。大事なことは、実に平凡なことだが、伝えようとする意があるかどうかということだ。

(中略)

英語が喋れる人に対しても、途中で意が通じ合わなくなると漢字で書いてもらう。そこに盛られた意味を想像し、こちらも勝手に漢字を並べると、不思議なほど理解してもらえる。相手の書く漢字が難しかったり、もう日本では使っていなかったり、逆に、こちらの書く字が日本式の略字であって相手にどうしても通じなかったりということもあったが、最後にはなんとか理解し合える。場合によっては、下手な英語よりはるかに心の奥深いところの、微妙な陰翳まで伝え合うことができた。

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外国には、私たちがわかってて当たり前の物事なんてない。

当たり前の事は素通りするけれども、そうじゃない物事がいちいち私たちに飛び込んでくる。

私たちは知らないからわかろうとするし、わかってもらえないから伝えようとする。

 

中国に長期出張に出かけた彼氏のもとを私が訪れたときのことだ。

週末、仕事の合間をぬって二人で蘇州へプチ旅行に出かけた。

彼氏が中国に滞在してまだ2週間目だったので、彼氏はちっとも中国語ができなくて、もっぱら私が通訳や交渉役を務めた。

けれども、彼氏がある店で店員とやり取りをしている様子を見ていると、とてもスムーズに通じているようであった。

「わかったの? さっきの英語じゃなかったんでしょ?」

と尋ねると、

「俺はHeart Talkingができるから」

と彼氏は自分の胸をポンポンと叩いて言った。

Heart Talkingなんて単語はなく、彼氏の造語。

彼氏によれば、HeartTalkingができる人は、どこの国だって歩いて行けるのだそうだ。

 

旅人たちは、言葉なんてできなくても軽やかに飛び立っていく。

私もいつかそんな旅人になりたい。

 

深夜特急』の旅の続きはマレー半島からだ。

オカルトビリーバーじゃないけど信じちゃってること。

オカルトには肯定派(ビリーバー)と否定派がいる。

信じちゃってる人と、嘘だと言い切っている人だ。

その中間に、懐疑派とか中立派と呼ばれる人もいるのだけど、私は中立派である。

 

完全に信じるのは危ない。

かといって、絶対にないと頭から否定するのも味気ない。

もしあったらすごいなぁ、もし本当なら怖いなぁ、なんて考えたり空想するのがオカルトの楽しみ方だ。(これは大槻ケンヂの受け売りかもしれないけどね。)

 

英会話で宗教の話題になったとき、私が半分信じている、という言い方をしたら注意された。

君はBelieveという単語の使い方を間違っている、BelieveにHalfとかSometimesなんてないんだ、と。

確かにそうかもしれないけど、気まぐれに信じたり信じなかったり、ちょっと疑ってみたりするのは、バランスのよい生き方じゃないかと思うのだ。

世の中の事象のほとんどは、一部は間違っているけど一部は正しい、真実に見えるものも人によってはちょっと異なる部分がある、というのがより真理に近いんじゃないか。

だから、できるだけ両極端に振れたくない。

ブレーキもアクセルもアソビが大事。

実は日本人の多くがそんな曖昧さを持っていて、それが良いように作用してるんじゃないかと私は思っている。

 

基本的にそのような、「半分信じる」のが私のスタンスなんだけれど、ふとした瞬間、

「あ~、ヤバい、私完全に信じちゃってるわ~」

と感じる瞬間がある。

私がついつい信じてしまうもの。

それは、輪廻転生、リインカーネーションの概念だ。

 

もちろん、「私は織田信長の生まれ変わりです」という人や、「あなたの前世はイギリス貴族です」なんていう占いは信じない。

けれど、死んだ魂がすっかり消えてなくなる、とは思えないのだ。

 

死んだらどうなるのか。

わからないから死は怖い。

でも、死んでもまた生まれ変われるのだと思ったら、ちょっとだけ恐怖から逃れられる。

それに、愛する人を亡くしたときに、もう金輪際会えないと思うより、来世でまた会えると思えば少しは気がラクだ。

 

今は母の命がそう長くないという気持ちもあって、心の防衛本能がそう信じさせているのもあるかもしれない。

もしくは、単にリインカーネーションがドラマチックだから好きなだけかもしれない。

子供の頃に読んだ里中満智子の少女漫画『海のオーロラ』にけっこう影響受けていたりして。

海のオーロラ (1) (中公文庫―コミック版)

海のオーロラ (1) (中公文庫―コミック版)

 

 

何という本だったかもう忘れてしまったけれど、生まれ変わるときには一緒のタイミングで生きる「魂のグループ」というようなものがあって、家族になったり恋人になったり友達になったりするそうだ。(何ていう本だったか調べようと「魂のグループ」で検索したら、アホ検索エンジンは「グループ魂」ばかり出してくる!)

生まれ変わっても恋人、なんていう甘い話ではなく、あるときは親子だったり、あるときはペットだったり、あるときは同性の親友だったりするらしい。

それで、関係が深い人だったり、仲が良かったり、惹かれあう人というのが実は決まっている、というスピリチュアルな話。

 

胡散臭いなぁ、と思う反面、この魂のグループというのはアリかもなぁ、とも思ってしまう。

偶然が重なって知り合ったり、普通だと出会わないところで出会ったりしてしまうと、縁を感じずにはいられないからだ。

 

東京在住の知人と偶然旅行先の広島ですれ違った。

大学の後輩と台北でバッタリ会った。

新宿のライブハウスで後ろに並んでいた人が神戸からやってきた人で共通の知り合いがいた。

出会ったばかりの人の親友が私の隣のマンションに住んでいた…。

 

そんな「偶然だね!」が何度かあると、縁という不確かなものが確実に存在する気持ちになる。

彼氏なんか、オランダ人の商社マンと上海でばったり会ったことがあるそうだ。

「世界は狭いね」という言葉で片付けられるんだろうか。

 

ときどき、想像する。

世界に70億人いるというのはウソッパチで、私が見ている世界の登場人物はせいぜい何万人かしかいない。

多くの人がダブルキャストやトリプルキャストでモブシーンを演じているので、たまに神様がミスをして、台湾人しか出てこないはずの台北ロケのシーンに日本人の後輩を再登場させてしまった。

神様「『小籠包を食べる女A』役の台湾人が急遽来れなくなってさぁ…。後輩役の子を出したら、見つかっちゃったよ」

 

んなアホなことを考えてしまうくらい、偶然の出会いというものは、ある。

 

**********

 

先週、大阪の住之江公園へ古い友人を訪ねて行った。

私が大学生時代によく文通をしていたお友達で、10数年間交流がなかったところ、2年前にあるイベントで再会した。

それ以来、「また会いましょう」を繰り返していたけれど、機会をうかがっていてはまた10年くらい会えなくなりそうだったので、意を決して彼女が経営しているスナックまで会いに行ったのだ。

 

スナックという場所の流儀がわからないまま、とにかく彼女に会うために訪れた。

彼氏からは、

「女ひとりでようスナックに行ったなぁ。ほかのお客さんに変に思われたんちゃうか」

と呆れられた。

ほかのお客さんたちには、「ママの古いお友達」だと紹介してもらうので、別になんてことはなかったけれど、

「どういう友達?」

と尋ねられると困ってしまった。

私が通っていた文章教室の先生を通じて知り合ったのだけど、彼女は見学に来ていただけで生徒ではなかったし、彼女のほうが少し年上で歳の差もあったのに、なんで仲良くなったのか定かに思い出せない。

 

久しぶりに会う彼女は相変わらず可愛らしく、ガーリーでチャーミングだった。

 

私が彼女を筋肉少女帯のライブに連れて行ったこととか、閉園前の安土桃山キャッスルランドへみちのくプロレスを見に行ったこととか、昔一緒に遊びに行ったあれこれや、共通の知人の話に花が咲いた。

彼女の見た目が変わらないせいか、それほど昔の出来事のような気がしなかった。

 

「じゃあじゃあ、Mさんはどうしてますか?」

ふと思い出して私が尋ねた。

「Mさん?Mさんって誰だっけ?」

「えー?親友のS子さんですよ。私紹介してもらって、東京に行ったときお世話になったんです。ほら、旦那さんがギタリストの」

「ああ! Sちゃんね。ギタリストの人とは離婚したの。で、大阪に戻ってきて結婚して、また離婚しちゃった」

 

私は言葉を失った。 

つい昨日のように感じていた思い出も、人が2回離婚するほどの時の隔たりだったのか。

10数年会っていない、というのはそれくらいの時間なのだ。

浦島太郎が玉手箱の白い煙に包まれたように、一気に時の長さを思い知らされた。

 

毎日顔を合わせていても、友達になるどころか、名前も知らない人がたくさんいる。

そんな中で、出会って友達になって、疎遠になってもまた再会できる人がいる。

 

神戸から住之江公園までは1時間ちょっとかかった。

地下鉄四つ橋線阪神電車の両方の、始点から終点まで。

住之江公園はもちろん初めて降りた駅で、なんでこんな場所にいるんだろう?と、奇妙な気持ちになった。

彼女に会うのでなければ、一生ここへ来ることもなかっただろう。

 

人の縁は本当に不思議だ。

だからつい、前世でも出会っていたのかもしれないな、と思ってしまう。

 

宇宙人もツチノコもいないけれども、縁というのは確実に存在する。

オカルティストなら、「それらもすべてアカシックレコードに書いてある」ってことになるのかも…!?

いや、だから私はビリーバーじゃないってば。

スマ洗はジジイのブリーフでもアリエールのか?

土曜日の午前2時。
浴室から物音が聞こえて目が覚めた。

布団の中で丸くなりながら、私の頭によぎったのは、知人から聞いた泥棒の話。
侵入口は浴室の窓だったらしい。
格子がはまっているから油断して、換気のために窓を開けたままにして寝ていたのだそうだ。
泥棒はそこに付け入り、工具で格子を外して楽々入ってきた、というわけだ。

うちにはまさか、と思うものの、じゃあこんな時間に誰が浴室に?!と気になり、寒さをこらえて出ていった。
まあ、誰といったって、泥棒じゃなかったら、可能性は一人しかいない。
やはり父だった。

「こんな時間に何!?」
と尋ねると、
「プー言うたら実ぃが出た」
と言う。
標準語に翻訳すると、「おならをしたらうんこが出た」。
汚れたパンツとズボンと自分のお尻を洗いに起きてきたというわけだ。
「ちゃんと洗っといてよ」
「するする、自分でする」

泥棒じゃなくて一安心、と私は再び眠りについたわけだが、翌朝浴室を覗いてみると、汚れ物はそのまま置いてあった。
洗うつもり。
でも置いただけ。
まったく、何がするするだ!
結局私が片付けるんじゃないか。
パンツはビニール袋に包んでゴミ箱に捨てたが、ズボンはさすがに洗わなければならない。
‘できない’母には腹は立たないけれど、‘頑張ればできるのにサボる’父にはどうもムカつく。

**********

最近、気になっているCMがある。
ジェルボール洗剤のアリエールのCMだ。

ariel.jp

まとめてスマートに洗う、を略してスマ洗。
P&Gによれば「分け洗いはもう古い」そうだ。

実は、このCMが始まる前から、私はジェルボール洗剤を使っていた。
汚れ物が多く、部屋干しをすることも多いので、できるだけ抗菌・防臭効果の高い洗剤を求めているからだ。
使ってみると、計量しなくてもいいのが思った以上にラクだった。
それに、私が不器用で、洗剤投入口に入れるのがあんまり上手じゃないせいもあるかもしれない。
そんなこんなで、ポンと放り込むだけのジェルボールは気に入って使い続けている。

ただ、「スマ洗」ができるか?と言われると、そこまでの勇気が持てない。

母の食べこぼし、これはまとめ洗いよし。
父が何日も着続けたネルシャツ(言わないと着替えない)、これもまとめ洗いよし。
でも、父のパンツは?

父は平気で何でも洗濯機に入れる。
さすがにうんこをもらしたパンツは入れなかったものの、それは私の指導のタマモノであって、数年前ならそのまま洗濯機へGOしていたかもしれない。
今でも、床を拭いた雑巾や、オシッコをもらしたパンツは平気で入れるからだ。
だから、洗濯機を回す前は、入っているものをチェックしなければならない。

父は、
「洗濯機で洗濯したらキレイになるはずや」
と思っている。
世の中の主婦たちが分け洗いという面倒くさいことをやっていると知ったらビックリするだろう。

私は細かく分けないけれど、父の下着類だけは分けている。
量が少なければ、父のもの全部と、私と母のものに分類する。
日を分けることもある。

スマ洗を信じるなら、父のパンツもまとめ洗いしてかまわないのかもしれない。
大きくもらしたものは、予洗いするわけだから。

アリエール担当の人に尋ねてみたい。
「赤ちゃんの食べこぼし、子供の泥だらけの服はわかった。では、うんこのシミがついたジジイのブリーフも、あなたはスマ洗で洗えますか?」と。

「大丈夫です!私は一緒に洗ってます!」
と言われたら、勇気を出してみようか。
…いや、無理かな。

キレイになるかどうかは問題じゃないかもしれない。
スマ洗は気の持ちようだ。
オシッコをもらしたパンツと、顔を拭くタオルを一緒の水に浸す。
やっぱりその勇気は出ない。

そういえば、母の施設の連絡日誌を読むと、母もときどきズボンを汚している。
「すみません、大変ですよね」
とケアマネさんに言うと、
「施設では専用の洗い場がありますから、全然大丈夫ですよ。ご自宅のほうが大変だと思います」
と言われた。
本当に施設の洗濯がスタッフさんにとってラクならいいのだけど。
そして、そのズボンが予洗いなしで他の洗濯物とスマ洗されていませんように。