3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

ロマン優光『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』で考えた。

【はじめのお断り】人物名称は直接お会いしたことがある人以外は、どんなに尊敬していてもすべて敬称略としています。

 

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この本を知ったのは、吉田豪ツイッターにて。

何といってもタイトルがすごい。

『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』だ。

人生の半分以上をサブカル(らしきもの)とともに過ごしてきた私にとって、「間違ったサブカル」とは何かがすごく気になる。

しかもそれが「クズども」ときた。

 

 

 

Amazonで目次を見てみると、みうらじゅん中森明夫岡田斗司夫町山智浩水道橋博士唐沢俊一などなどという、おなじみの名前が出てきている。

だいたい、第一章の副題が「みうらじゅんはサブカルなのか」なんだからすごい。

どうも、名前が挙がっているサブカル人(と思われる人々)に批判的な内容らしい。

名もないライターや社会学者が書いたものなら私もスルーしたかもしれないけど、著者はあのロマンポルシェ。ロマン優光

えー!?自分だってサブカル有名人じゃないか?!

なんかもう、買わずにいられなかった。

 

発売まではAmazonなどのネットストアでしか表紙を見ていなかったので、書店で帯を見て驚いた。

「ニッポン戦後サブカルチャー史(NHK Eテレ・宮沢章夫)よりわかりやすい!」

おいおい、宮沢さんにケンカ売ってんのか(笑)

 

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私はひどい遅読だけれど、ほとんど一気に読み終えた。

タイトル、帯、章見出しのすべてが、私のようなサブカル好きをひっかけるための餌だったんだなぁ、という印象。

人を引き付ける仕掛けがうまいなぁ、と感心する反面、期待したものとはちょっと異なる。

帯ひとつを例にとって指摘するなら、「ニッポン戦後サブカルチャー史」のような体系的なものと同列に並べること自体おかしい。

「サブカル」と「サブカルチャー」は異なる、という点でも、比べてはいけないだろう。

 

この本の主旨は、「サブカルの意味を再定義」すること。

何言ってるのか見てやろう的なひねくれた動機ではなく、私は素直にサブカルとは何かが知りたかった。

だから、「再定義」、ここが最も重要。

 

ロマン優光が言うには、サブカルとは、「町山智浩が編集者として扱ってきたもの、そしてそこから派生したもの/その愛好者」だそうだ。

目からウロコ!

町山智浩著作もラジオも好きだけど、そうかぁ、町山智浩ってそんな偉大な人だったのかぁ(笑)

本の後半は町山智浩に苦言を呈する内容が多くなってくるんだけど、この再定義における町山智浩の位置づけがその伏線なわけだ。

 

その論法で言うと、私のサブカルの捉え方はちょっと違う。

大槻ケンヂがススメるもの・関係するものとその周辺」

みうらじゅんがラジオ番組『サブカルジェッター』でゲストに呼んだ人とその周辺」

吉田豪の『サブカル・スーパースター鬱伝』でインタビューされている人とその周辺」

というのが、これまで私が信じてきたサブカルかもしれない。

ま、さほど変わりないか。

本書では「みうらじゅんはサブカルではない」と定義づけられていたけれど、あの論拠で「ない」と言い切れるのかは疑問だし、私は納得できなかった。

 

ロマン優光が言うように、確かに「サブカル」という言葉の定義や使われ方はあいまいで、人によって異なる。

いつだったか、「うちの妹は、宇多田ヒカルがデビューしたときに真っ先に飛びついたようなサブカル娘で」みたいな文章をネットで拾い、「宇多田ヒカルに飛びついたらサブカル!?」と、ものすごい違和感を覚えた。

椎名林檎ならまだわかるけれど、宇多田ヒカルがサブカルとは思っていなかったからだ。(のちに『ニッポン戦後サブカルチャー史』で宇多田ヒカルの解説が出てきて以降、ちょっとだけ考えを改める。)

 

そこで、サブカルという言葉の使われ方についてネットを見ていたら、2ちゃんのスレか何かでサブカル女はこんなかんじ、みたいな説明があって、私のイメージと全然違うので驚いた。

ヴィレッジバンガードの雑貨のような、ちょっと個性的でポップなものを好む変わり者の女子が「サブカル女」らしいのだ。

そのときに、あれ?私が思っているサブカルと世間で使われているサブカルは違うのか…、と初めて気が付いた。

映画雑誌の好みでいうと、「映画秘宝」と「CUT」ぐらいの違い。

この本でも言われているように、「サブカルという言葉の指す領域はどんどん変わっていっている」し、これからも変化し続けているかもしれない。

世代によっても異なるだろう。

 

ただ、私はごく一般の社会人として生活をしていて思うのは、世間様にとってみればオタクもサブカルもポップ好きな変人もたいして変わりない、ということで、ロマン優光が書いているとおりサブカルはオタクの一ジャンルにすぎないというのは正しい。

私は本当の意味でのオタクではないけれど、職場などで雑談するときには面倒くさいので自分のことをオタクだと言っているし、そのほうがわかりやすい。

世間一般の人にとって、些細な違いでしかない。

映画秘宝』を読んでいようが『CUT』を読んでいようが『キネマ旬報』を読んでいようが、「映画が好きなのね」の一言で終わりなのだ。

 

個人的にとても面白かったのは、この本の第三章に出てくる、90年代当時のオタクとサブカルを嗜好とアプローチで分類する方法だ。

 

〔嗜好〕

  1. 基本的にオタク向けコンテンツに興味がない、それ以外のサブカルチャーを好む人
  2. 基本的にオタク向けコンテンツにしか興味がない人
  3. オタク向けコンテンツを含むサブカルチャー全般を好む人

 

〔アプローチ〕

  1. 対象に対して思い入れ深く執着する人
  2. 対象そのものより、その情報に執着する人
  3. 対象を通して自分の思考を語ることに執着する人

 

なるほど。こういう分析はとっても好き。

これでいうと、私はCcタイプかな。

 

本書では岡田斗司夫Bbcと評されているけれど、確かにオタキングはサブカルコンテンツには興味がないだろう。

昔、BS『マンガ夜話』という番組で、ある漫画家さん(うろ覚えでごめんなさい)にはっぴいえんどの影響が指摘されたことがあった。

ゆでめんのLPジャケットが紹介されたのだけど、岡田斗司夫はそのレコードのことを知らないようだった。

「そうか、オタキングはっぴいえんどを知らないのか…」

サブカルチャー全般で生きてきた私にとっては、オタキングは無敵の知識王のように見えていたけれど、それぞれジャンルごとのテリトリーがあるわけだ。

 

反対に、本書で『嫌オタク流』が紹介されていた中原昌也さんだと、Acになるだろうか。

もう10年ほど前になるけれど、中原さんとお話する機会があったときにご本人が、

「知人から、『どんなにアニメが嫌いでも「ビューティフルドリーマー」は見とけ』って勧められてるんだけど、見る気がしない」

とこぼしてらしたのを思い出した。

私も「そりゃ絶対見たほうがいいですよ!」と言ったものの、私ごときが言ったところで中原さんが見ないのは明白だった。

嗜好とはそういうものだし、だからこそサブカルスターの人たちはそのジャンルで成功するのだとも思う。

私のように浅くまんべんなくじゃダメなのだ。

 

ロマン優光は私よりちょっと年上だけど、ほぼ同世代。

だから、宮崎勤事件の影響を取り上げているのも親近感を覚えた。

オタクとサブカルを語るうえで、絶対に無視できない事件。

私の場合、宮崎勤事件後、アニメオタク(当時はオタクという言葉がなかったので「アニメファン」)をやめた。

高校受験が重なったというのもあったけど、まだ子供ながらに潮時を感じたんだと思う。

ただ、宮崎勤事件がなかったら、高校に入ったらすぐアニメ好きが復活していたかもしれない。

アニメが抜けた穴に入ってきたのが大槻ケンヂだったわけで、そこから完全にサブカルへシフトしてしまった。そして今に至る。

ただ、本書で嫌なサブカルとして描かれているような、「オタ卒してアニメファンに侮蔑的な態度」をとることはしなかった。

だからこそ、大人になってまた抵抗なくアニメを見始められたし。

そのあたり、世代的にど真ん中なので、あの頃の中高生の心理をうまく分析しているなぁと自分に重ね合わせながら読んだ。

 

そんなこんなを含め、全体的には大変面白く読んだけど、肩透かしだったのは「サブカルと女性」の章。

正直、全然切り込めていないというか、具体的女性人物を挙げて、この人はサブカルかサブカルでないかと言っている程度に過ぎず、期待外れだった。

じゃあ何を期待していたかというと思い浮かばないけれど、もっと斬新なサブカルと女性論が登場してもよいのに、と女性として思う。

 

本書でもミソジニーという言葉が2、3回出てくるように、オタク・サブカル界は非常に男性社会で女性文化との親和性が低い。

でも、そう思うのは、男性側からの視点であって、女性だって女性特有のサブカルがある。

男性サブカルとは嗜好が異なるから、「女性サブカルは少ない」と感じるのかもしれない。

オタク界に腐女子という種族がいるように、サブカル界でも男性サブカルと異なる種族の女性サブカルがいると考えたほうがよいのではないか。

男性のドルオタに対して、女性にジャニオタがいるように。

もしくは、ヅカファンのような人種がサブカルにカウントされず抜け落ちているように。

「ニッポン戦後サブカルチャー史Ⅱ」の第一回のテーマが女子高生だったように、日本のサブカルの一翼にはガーリーな文化もあったはず…。

 

…と書いてきて、私が「女性のサブカル」と思っているものが、最初の定義の「町山智浩が扱ってきたもの」に当てはまらないことに気が付いた。

(ただし私の定義の「大槻ケンヂとその周辺」には当てはまるんだけどな。V系しかり、バンギャしかり、ゴスロリしかり。)

うーん、そう考えると町山智浩を基軸とするのがサブカルっていう定義は、無理があるんじゃないだろうか。

 

「90年代から(サブカル有名人の)顔ぶれが変わっていない」という指摘には、言われてみればそのとおり!と膝を打った。

「サブカルおじさんの害」として世代交代が進まないことを挙げていて、確かにそうかもしれないと思う。

もしくは、みうらじゅんが自分たちをサブカル世代と言ったように、サブカルはおじさん世代のものなのかも?

『ニッポン戦後サブカルチャー史』関連でネットを検索していたとき、「すさまじくおっさんおばさんホイホイだな」というツイートを見つけて苦笑いするしかなかったように、サブカルとは中年のものになりつつあるのかもしれない。

若い世代のサブカルがいないというのは、「カリスマ的存在の不在」も含めて必然のことなんだろう。

つまり、サブカルとは、90年代を生きてきた私たち中年が見た幻なわけだ。

 

で、結局私は「間違ったサブカル」?それとも間違ってないサブカル?

少なくともマウンティングはしてないから許してね。