子育ての文脈
9月に見たYouTubeの中ですごく興味深かったのが、片目のラッパーことダースレイダーと映画評論家町山智浩の対談だった。
なんと3時間15分もある長丁場なんだけど、おじさん二人の絵面は別に見ていなくてもいいので、家事などをしながら音だけ聴いていても大丈夫。
トランプ大統領はイデオロギーを持ってないから強い、という話から、なぜリベラルは右派に勝てないのか、という話まで、「そうか」「なるほど」のオンパレードだった。
中盤からでもいいからたくさんの人に聴いてほしい話。おすすめ。
そんな本論とは別に、冒頭ダースレイダーの子どもが乱入したせいで、おじさん二人の子育ての話がちょっとあって、私にはそれが新鮮だった。
中でも、町山智浩が、
「お父さんはだんだん子どものスペックがわからなくなるんですよ」
と言ったのが、私には名言だと思った。
うちの夫はすでにサトイモのスペックがわからなくなっている。
まだ2歳半なのに!
「いつのまにかもう赤ちゃんちゃうやんか!もう立派な子どもや!」
「…1年前からもう子どもやけど?」
「おっ!俺の言うこと全部わかっとうなぁ!」
「当たり前でしょ、何でも理解できとうよ!」
「こいつ唐揚げつかんだけど大丈夫か!?」
「唐揚げくらい食べるよ!離乳食じゃないんやから!」
確かに、最近グンと成長した感はある。
歌が歌えるようになったし、数が数えられるようになったし、「あいうえお」も言えるようになった。
室内物干し、ハンガー掛け、ベッドの柵、これまで以上に高いところへスルスルとよじ登り、ジャンプで降りても平気になった。
母親の私から見ても日進月歩なので、週末しか会わなければ、子どものスペックなんてさっぱりわからなくなるだろう。
私からだけでなく、
「パパ、何言うてんの?」
とサトイモから呆れられる日も近いはずだ。
クンクンという友達
サトイモは最近「クンクン」という名前の犬のヌイグルミを友達にしている。
寝るときは抱いてベッドに入るし、食事のときもテーブルにクンクンを置いて、クンクンにもごはんを食べさせている。
「まんま、いや!」
とごはんを食べないサトイモだが、クンクンに食べさせて、
「クンクンが美味しいって言ってるよ」
とやると、ちょっと食べてくれたりする。
週末、そんな文脈を知らない夫が、ごはんのときにサトイモが持ってきたクンクンを、
「ごはんのときはおもちゃは置いとき!」
とつまみあげて、ポーンと乱暴に放り投げた。
夫がつかむまで、クンクンはサトイモのお友達だったのに、投げられて転がった瞬間、魔法が解けたみたいに単なるぬいぐるみに戻ったようだった。
私はとっても悲しくなって、
「クンクンも一緒にごはん食べるんだよ!」
と拾って持ってきた。
「そうなん」
と夫。決して謝りはしない。
サトイモはどう感じたのか知らない。
こういう小さなことの積み重ねが、将来の父と子の溝を作っていくんだろう。
マキちゃんの石
相変わらず、サトイモの「おうちいや病」が続いている。
「おうちいや!あんぽ(散歩)いいよ!おーえん(公園)いいよ!かえるいや!」
一度外に出ると、帰るのが一苦労である。
散歩なら、公園でなくてもどこだっていい。
どこだって遊び場になる。
先日なんか、歩道橋の階段の滑り止めが劣化して割れているのを、はめ込みパズルのようにして遊んでいた。
階段は危ないし汚いからやめてほしいけど、やめろといってもきかないので見守るしかない。
一番のお気に入りは西元町駅の近くにある空気穴のような場所で、歩道に鉄格子の蓋がされている。
ただでさえ、側溝の鉄格子の蓋の隙間に石や落ち葉を入れるのが大好きなのに、そこは電車が通るたびに下から風が吹いてきて、落ち葉を舞い上げる。
葉っぱが落下せずに上がってくる!マジック!!
最近は涼しくなってきたからいいけど、8月の炎天下で延々と葉っぱ落としをやられたときは地獄だった。
ある日、サトイモが側溝の鉄格子にはまっている小石が気になって、ずっとしゃがみこんで除去作業をやっていると、一人のおばさんが通りがかり、足をとめた。
「男の子やねぇ!」
「ええ。延々やってて困ってるんですよ」
「だって男の子やもん!男の子はこうでなくちゃ!」
おばさんはサトイモがお気に召したようで、
「ほれ、頑張れ!こうやって小石を取ることで力学を学んでいくんよ!この子は賢いよ!」
とほめてくれる。我が子がほめられるのは悪い気はしない。
「よし、おばちゃんが手伝ったろう」
おばさんは、そばのマンションの植木の枝を引っ張って手折り、葉っぱを落として持ってきて、棒をサトイモに渡した。
「ほら、何も教えてないのに、棒の使い方わかっとうわ。賢いで」
いやいや、それより私は、枝を折ったことにビックリし、なおかつそれがよそのマンションであることにもギョッとしていた。
幸いサトイモは見ていなかった。
おばさんくらいの高度成長期育ちの人だとそれくらい悪ではないという道徳観なんだろう。
まあ、いろんな世代の考えや価値観に触れるのも悪くない。
「いくつ?」
おばさんはサトイモに尋ねたけれど、サトイモは小石に夢中だし、まだ返答できないだろうから私が、
「2歳半です」
と答えると、
「まだしゃべられへんのかな?」
と言うので、
「同い年の子たちはペラペラしゃべってるんですけど、この子は言葉が遅くて」
と答えると、おばさんは、
「どうして他人と比べるの?この子はこの子でいいじゃないの!型にはめないであげて!」
と突然説教してきた。
なんとなく腑に落ちないかんじがしたものの、そうですね、とスルーした。
そうこうしていると、サトイモの作業が報われて、小石の一つが取れた。
「やったー!取れたね!やったやった!」
喜び合う3人。
「私、マキちゃん。お名前は?」
「サトイモです」
「サトイモくんかぁ!また会いましょね!」
そしてマキちゃんは去っていった。
そのとき取れた戦利品は「マキちゃんの石」として、家に置いている。
ただ、帰ってから考えた。
「型にはめないで!」
と言われたときの腑に落ちないかんじは何だったんだろうか、と。
私自身がサトイモを自由に育てたいと思い、そうしているつもりなのに、注意されたから?
他人と比較したのは「2歳半」の一般的レベルというか、客観的事実を述べただけであって、「言葉が遅い」=「劣っている」というわけじゃないのに、悪く思っているように誤解されたから?
いろいろ考えた末にたどりついた一つの答えは、私自身が「子どもを自由にさせない母親」だというレッテルを貼られたのが嫌だった、ということだ。
私自身は自分では比較的自由な考えのつもりなんだけど、見た目が地味で真面目そうに見えるらしく、別のところでも「教育ママ」と呼ばれたことがあった。
うーん、確かに良い教育を受けてほしいし、賢い子になってほしいけど、学校の勉強や学歴がすべてだとは全然思ってないんだけどなぁ…、と釈然としなかった。
そういえば先日、大倉山公園で「色彩楽園」というアートイベントに参加したときも、
「子どもさんのやりたいようにさせてください!」
と注意されたっけ。
でも、私にそう言ってくる人たちこそが、私を見た目で判断して、「子どもを自由にさせない母親だ」と決めつけているのではないか。
そういえば、そういうことを言ってくるのは「いちげんさん」ばかりだ。
私を知らないくせに。
子どもは自由に、といいながら母親を見た目で縛るという矛盾したバイアス。
相当自由にさせているつもりなんだけどなぁ…。
まだ足りない?
いやいや。
普段の文脈を知らない人のアドバイスは話半分に聞いておくのがよろしい。