母の入院生活は不安だらけ
金曜日に帰宅ラッシュの中で実家に帰るのは妊婦にはつらいなぁ、と思っていたところ、思いがけず母が入院してしまったため、金曜夜に帰る必要がなくなった。
正直、母の入院で私にかかる負担が格段に減った。
私にラクをさせてあげようと、母が望んで入院したわけではないだろうけど、その偶然に胸が詰まる。
金曜日の夜はダラダラしながら過ごし、病院で寝ている母のことを考えた。
ひとりぼっちで寂しくないだろうか…。
テレビもラジオもない中で退屈してないだろうか…。
寒かったり痛かったりしても、誰にも気付いてもらえずに、つらい思いをしてないだろうか…。
看護師さんは医療的な処置はしてくれても生活の質までは見てくれないから、不安な気持ちになる。
そんな不安を抱えたまま眠ったら、こんな夢を見た。
土曜日に実家に帰ったら、母が一時帰宅していた。
「家に帰れてうれしいわぁ」
と母が言う。
たぶんこれが、母が自宅で過ごせる最後の時間となるだろう。
「今日はゆっくりしたらええやん。今晩は自宅に泊まって明日戻りますって、私病院に電話しとくわ。明日、リフトの介助だけ誰かに手伝ってもらえるように、それも電話しとく!」
と、私は張り切る。
病院に電話をすると、
「入院患者が外泊するときは、別途5,000円の追加料金がかかりますが、よろしいですか?」
と言われ承諾するが、費用が安くなるならともかく、高くなるのはおかしい制度だよなぁ、と不満に思う。
「おうちだと、お母さんが好きなものを食べられるからいいよね」
と言いつつ、私は母にメイバランスのドリンクを飲ませる。
飲み込んだ母はいきなりむせる。
私は母を後ろから抱きしめながら背中を叩き、
「あかんよお母さん、ここでのどを詰まらせたらまた病院に戻されるよ!」
と必死になる。
目が覚めたら、神戸の私の部屋。
母が一時帰宅できるわけないし、しゃべれるわけがない。しかもお金の話が出てくるという、私の無意識のケチぶりよ。
口からの食事再開
土曜日、病院に行くと母は眠っていた。
毎日面会に来てくれている父は、
「いっつもこんなんやで」
と言う。
良いのか悪いのかわからないが、ずっと寝ているなら孤独や退屈を感じることもなさそうだ。
母を不憫に思っていた私の不安は杞憂らしかった。
「起きてても退屈やから寝てるのん? 会いに来たんやから起きてぇな」
と母を起こすけれど、目は開かない。
ただ、入院直後の状態とは違い、名前を呼べば目をつぶったまま「あー」と返事はする。
全く眠りっぱなしというわけではなさそうだ。
看護師さんに尋ねると、口からの食事が始まっているという。
「まだお楽しみ程度なので、主な栄養は点滴で摂られていますけど。今日は主食2割、副食9割というところです。むせもなかったそうですよ」
食事というのは最後のエンターテイメントだ。
口から食べられて、「美味しさ」を感じられるなら生きている価値がある。
「鼻のチューブはまだ使ってるんですか?」
と尋ねると、薬は鼻から流し込んでいるらしい。
チューブは鼻から胃までつながっていて、強制的に薬やお水を流し込んでいる。
「苦しくないんですかね?」
と聞くと、
「出し入れするときはつらいですけど、一旦入れてしまえばさほど違和感ないと思いますよ」
と看護師は言う。
昨年私は健康診断で鼻から胃カメラを入れたのだけど、入ったあともずっと苦しかった。
だから、入れたあとは違和感ないなんて本当にそうかなぁ?と疑ってしまう。
ただ、「ずっとあんなもの鼻に突っ込まれてかわいそうに」と思い始めると、また私自身の気持ちがふさいでしまうので、とりあえず看護師の言葉を信じることにした。
母が笑った
日曜日、病室に行くと母がいない。
探すと、車イスに乗せられてナースステーションにいた。
姿勢の変化をつけ、起きている時間を長くするために、そうしてもらっているのだろう。
看護師に声をかけ、談話室に移動させてもらった。
「お母さん、来たよ」
と声をかけると、母が笑った。
「あら、うれしそう」
と看護師が言う。
だいぶ入院以前の様子に戻ってきた。
4テーブルしかない談話室は入院患者と家族で込み合っていて満席だったけれど、私たちが行くと、ある家族が席を譲ってくれた。
テーブルに父と私と、車イスの母。
私はひとしきり母に話しかけるけれど、返事が返ってくるわけでもないので、一方的な言葉はすぐに弾切れを起こしてしまった。
テレビではピョンチャンオリンピックが放送されており、父は母に話しかけもせず、テレビばかり見ている。
母はほとんどの時間を寝ているせいで、髪がひどい寝癖である。
「そうだ、寝癖を直してあげるよ」
とブラシとたまたま持っていたスプレーを使って母の髪を整えた。
それだけで、ずいぶんまともな見た目になった。
「ちょっと直しただけで、すごくかわいくなったよ。ね、お父さん、お母さんかわいくなったでしょ?」
「ほんまや」
そう言われると母はうれしそうに、「はは」と笑った。
自然な笑顔。昨日と今日で最も良い反応が見れた。
週末しか様子を見に行けないので、心配はいろいろある。
父は毎日行ってくれているものの、本当に顔を見るだけだ。
持参のオムツが切れていたり、リハビリや食事の状態が変わっていても、父は気がつかない。
入院生活はまだまだ不安だらけだけど、気持ちに折り合いをつけていくしかない。
無痛分娩は無痛じゃない
無痛分娩という言葉を初めて聞いたのは、意外にも中国語のレッスンでだった。
一番熱心に通っていた10年くらい前の話だ。
マンツーマンで会話を中心にしたレッスンで、勉強というより雑談。
歳の近い女性の先生が多かったので、ダイエット、華流スター、恋愛、結婚、といった話題が多かったと思う。
「結婚も子育てもしたいと思わない」と言う私に、先生たちはみんな驚いた。
今はどうかわからないけど、当時の中国人女性で“シングルを良し”とする人はいなかったからだ。
ちなみに中国では基本的に夫婦別姓、共働きと家事分担が当たり前なので(特に上海の男性は家事が上手といわれているらしい)、結婚によって女性の負担が増える日本とは状況が異なる。
出産についても、当時一人っ子政策だった中国では自然分娩より帝王切開が主流。
適正体重を維持させられる日本と違って、
「お腹の子供がどんなに大きくなっても、切って出すから大丈夫」
というのだった。
また、出産までに性別を教えるのは禁止されているという話も意外だった。
一人しか子供が持てないから、希望する性別じゃなかったら中絶してしまう、というのだ。
特に、男の子を働き手とする農村などではその傾向が強いという。
都市部では日本より男女平等が進んでいるのに、農村部ではまだそんな倫理観?!というのも中国らしい一面だと思った。
(ちなみにこれらすべては10年前の情報なのでご注意を!)
そんなだから、
「出産は痛いからやだ」
と言った私に先生は、
「じゃ、無痛分娩にしたら?」
とさらりと言ったのだった。
「無痛分娩? そんなのがあるの?」
「アメリカでは普通らしいよ。麻酔で痛みをなくするの」
「それもまた怖いなぁ」
「麻酔でわからないうちに産むんだから平気よ」(←のちほどこれは間違いだとわかる。)
そのあたり、固定観念に縛られて新しいものの導入に慎重な日本と、抵抗なく受け入れるけどどこかズサンな中国の、お国柄の違いがよく表れている気がした。
無痛分娩経験者の話
まさか自分が妊娠・出産するとは思ってもみなかったので、無痛分娩については何の知識もなかった。
ただ、無痛分娩で事故があったニュースなどは記憶に残っていたので、
「痛くないのはありがたいけど、リスクがあるのは怖いなぁ」
という漠然とした印象だった。
同じ産婦人科病院で出産した知人に、出産前後の情報を教えてもらっていたときに、
「無痛分娩を希望する場合はカウンセリングを受けてください、って言われたんやけど。とりあえず話を聞こうかと思ったら、カウンセリングに五千円もかかるんやって。まわりに無痛分娩で出産した人もいないから、ようわからんわ」
とこぼすと、
「私、無痛分娩やったよ」
と教えてくれた。
ええっ、経験者なの?!
「子供が生まれました」という話を聞いても、どんな分娩方法かまで聞くことはないもんなぁ。
彼女は第1子のとき産後がつらくて、体力が回復するまでにかなり時間がかかったらしい。
それで第2子のときは無痛分娩にしたそうだ。
「無痛」と言われているけど実際は「痛みを和らげる程度」で、出産時、痛いのは痛いらしい。
けれど、
「産後がとにかくラク!」
と、彼女は言った。
ネットでの情報を見ても、無痛分娩のメリットのひとつは産後の回復が早いことらしい。
高齢出産で、なおかつ産後に頼れる人のいない私の場合、すぐに赤ん坊の世話ができる体調に戻れるのは大きな魅力に思えた。
「でも、背骨に麻酔を打つんでしょ? 痛くなかった??」
「麻酔針の痛さなんて。そのあとにもっとすごい痛みがくるんやから。それに比べたら全然!」
それもそうか。
「そうそう、イヤやったんは、無痛分娩を希望すると人気のない先生の担当にさせられるのよ」
「イヤな先生って誰?」
そのイヤな先生の名前を聞くと、私が2回目に受診したときの、無愛想極まるジジイ医師のことだった。
「鼻炎でクシャミをするとお腹が痛むんです」
と私が相談すると、
「鼻炎なら耳鼻科に行ってください」
と言い捨てた医者だ。
それ以降、その先生の時間は避けるようにしていた。
無痛分娩の最大のデメリットが、まさかの人災とは!
「あの先生はイヤやなぁ」
「どうしてもムリ!ってときは、お願いしたら院長先生に替わってもらえるらしいから大丈夫」
その後、ネットで無痛分娩に関する基礎知識を仕入れ、無痛分娩のためのカウンセリングを受けることに決めた。
無痛分娩カウンセリング
カウンセリングをしてくれる麻酔科医は若い女性だった。
話の内容は、私の体調についてのヒアリングと、無痛分娩というのがどういうもので、どういう処置をするのか、どういうリスクがあるのかという説明だった。
私の一番の心配は側弯症で、背骨がS字に湾曲していること。
麻酔を打つときに何か問題がないだろうか…。
「側弯症で手術を受けている場合は難しいですけど、何もされてないなら問題ありませんよ」
よかった、これはクリア。
麻酔科医からの説明の中で、最もビックリしたのは、
「麻酔は平日の昼間でしか処置を行えません。ですので、夜に陣痛が始まったら、翌朝に麻酔科医が出勤してくるまで待ってもらうことになります」
というものだった。
「じゃあ、金曜日の夜に陣痛が始まったら?」
「無痛分娩を受けられずに出産される方もいらっしゃいますし、月曜日まで待たれる方もいます」
「待てるんですか?!?!」
「時間がかかりますから。短い方は8時間で終わりますが、長い方は80時間かかるんですよ」
ここで先生が説明したかったポイントは、無痛分娩には万全なスタッフ体制が必要なため、人手が薄い夜間休日は行わない、ということだった。
世間で起きた無痛分娩中の事故はたいていが体制が整わない中で行われたものだという。
この病院が万全な体制で臨んでくれるというのは大事なポイントだけど、それよりも、私にはお産というものがいかに人によって違うかということのほうが驚きだった。
「例えば、180センチの女性が2000グラムの赤ちゃんを産むのと、150センチの女性が4000グラムの赤ちゃんを産むのでは大変さが違う、と言われたら、その違いは容易に想像できますよね」
「確かに、全然違うでしょうね」
「ほかにも、骨盤の形や赤ちゃんの状況、いろんな条件がそれぞれ違うので、お産のつらさは他人と比べることができません。痛みの感じ方についても同じです。麻酔をしてもものすごく痛かった、効かなかった、とおっしゃる方がいます。ただ、本来はもっと痛かったはずなんです。経験してない痛みなのでわかりませんよね」
つまり、「無痛」じゃないよ、ということなのだ。
了解、了解。
もし私が麻酔の効き目が弱かったとしても、無痛分娩にしなかったらもっと痛いはず。
ダメでもともと。
ただ、その費用が13万円。
その金額を払っても価値ある麻酔であってくれ、と願うしかない。
そして最後に先生があのお知らせを付け加えた。
「担当の産婦人科医なんですが…」
と、あのイヤなジジイ医師が担当になることを告げた。
「やっぱりそうなんですね」
と私が言うと、
「聞かれてましたか?」
と麻酔科医も苦笑い。
「苦手だという方が多くて。どうしても生理的に受け付けない、嫌だとおっしゃる場合でも、一度は必ず受診してもらわないといけないんですが…」
そこまで妊婦に嫌われる男性が、なんでよりにもよって産婦人科医になったのかなぁ?!?!
「腕はいいんですか?」
「ええ、コミュニケーションは取りづらいと思いますが、職人だと思ってください」
産婦人科医が職人!!
「赤ちゃん製造職人」という頑固一徹ジジイが想像されて、少し可笑しくなってしまった。
そこまでみんなに嫌われる頑固ジジイだと思ったら、どんなにヒドイ対応をされても話のネタだと思って我慢してみよう。
「はじめました」貼り紙
産婦人科のお手洗いにこんな貼り紙がある。
「フリースタイル分娩はじめました。」
それを見る度に、冷やし中華のようだと笑ってしまう。
しかも、フリースタイル分娩という言葉の奇妙なインパクト!
とうとう私も妊娠8ヶ月。
だいぶ分娩の現実味が帯びてきた。
夫婦の価値
いつだったか、母方の伯母と雑談をしていたとき、母の介護から私の両親がよくケンカしていた話になり、伯母がこんなことを言った。
「あの二人は、どうもお互いを信用してないところがあったわね」
言われてみると、そのとおり。
なるほど伯母さんするどいなぁ、と思ってしまった。
うちの両親はお互いを信じてないから、疑って、それぞれ勝手なことをして、ケンカになって憎悪が増す、ということを繰り返していた。
私が中学生のとき大ゲンカをして、それから3年間も口をきかなかった期間があるくらいの夫婦仲だった。
その間、父はよそに女をつくったり生活費を半分しかくれなかったり、母はヒステリーを起こして体調を崩したりした。
そんな母を見るのはつらかった。
離婚して母が傷つかなくなるのなら、その方がよほどマシだと思った。
「離婚すればいいのに」
と私は何度も母に言った。
しかし母はたいてい、
「離婚せぇへんのはあんたのためや!」
と今度は私に逆ギレする。
迷惑な話だった。
離婚して新しい生活に踏み出す勇気がないだけじゃないか、と私は母を見くびっていた。
そのときの私には、うちの両親の間に愛情があるなんて、とても思えなかった。
「夫婦」だとか「結婚」というものの価値も感じられなかったし、信頼できないもの同士が一緒に暮らす意味もわからなかった。
プライドを除くと出てきたもの
母が大脳皮質基底核変性症という病気を発症すると、病気の進行につれて、だんだん母の認知機能が落ちてくるようになった。
家にいて父の姿が見えないと、たいてい母はこう言った。
「お父さんは? お父さんはどこおるん?」
その度に私は、
「まだ2階で寝てるよ」
とか、
「コンビニに煙草を買いに行ったよ」
とか答えないといけない。
「なんでそんなにお父さんが気になるのよ?」
と尋ねると、寝ていると答えたときは、
「いつまでも寝坊して憎らしい。早ぅ起きて来んかいな。よその旦那さんは朝早くから働いとうのに」
と言い、どこか別の場所を答えると、
「私らをほって、どこかよそでチョロチョロ遊んどうかと思うと憎らしいからや」
と言う。
とにかく、父の一挙手一投足が「憎らしい」と言うのだ。
ところが、認知機能の低下が進んで、だんだん口数も減り、母が子供のようになってくると、言うことが変わってきた。
「お父さんはどこにおるん?」
と尋ねるのは同じだが、なぜ気になるのかと尋ねると、
「お父さんがおらんかったら寂しいもん。だって、私の主人やから」
と言うのだった。
妙なプライドと憎まれ口を叩く知恵がなくなり、母に残ったのは純粋な気持ちだけだった。
父のおまじない
気が強くて活発だった母が弱っていくにつれ、父の態度もだんだんと柔らかくなっていった。
施設がお迎えにくると、父は車椅子に座っている母のおでこに手を当てて、
「よしっ、熱はない! 大丈夫や! 行ってこい!」
と号令をかけた。
母が熱を出すことはまずなく、したがって熱がないからといって体調が良いとは限らないのだけれど、父の中では「熱がない」=「元気」という構図のようだった。
父のことだから、いくら私が、
「熱がないから大丈夫ってことはないのよ」
と言っても父は理解しない。
いつしか、
「熱はない!大丈夫や!」
は父がかけるおまじないのようになっていた。
月曜日に入院してから、父は毎日母の病室に通ってくれた。
火曜日などは、午前と午後の2度も行ってくれたようだ。
水曜日の午後、昏睡していた母がようやく目覚めた。
父はすぐに私にメールを送ってくれた。
「今病院にきている、血圧もとにもどつた、目を開けううんといつてる、」
相変わらず父のメールは小さい「っ」が打てず、「。」が「、」になっている。
「ありがとう!良かった!」
と返信すると、父も、
「よかつた」
と返してきた。
その短い「よかつた」は、混じりけのない父の気持ちの表れに見えた。
父も母のことを相当心配していたのだ。
昨日今日と、母の様子を見に行くと、まだ食事は摂れずに鼻から栄養を送り込まれているものの、それ以外は先週と変わらないように思えた。
父に、
「お父さん、お母さんにアレやってあげて。おでこの熱。」
と頼んだ。
父がベッドに寝ている母のおでこに手を当て、
「熱はない!大丈夫や!」
とおまじないをかけた。
母は、小さく「あ〜」と声を出した。
母はもう上手に笑顔を作ることはできないけれど、少し嬉しそうに見えた。
私が中学生だったあのとき。
ケンカばかりするなら離婚すればいいのに、と私が思ったあの夫婦。
なんだかんだ言い訳をしたり、私のせいにしたりしたけれど、離婚しなかったのは単に別れたくなかっただけだ。
私は子供だったから、「信頼し合えないけど愛している」、「憎しみと同時に愛情がある」、という複雑な夫婦の関係なんて、理解できるわけがなかった。
今となっては、そういうことを乗り越えて、夫婦でいてくれてよかったと思う。
そして、ようやく私も「夫婦になることの価値」を信じてみよう、と思っている。
役所に紙を出す手続き以上の何かが、そこには存在するようだ。
そんなことを、この歳になってようやく信じる気持ちになった。
真っ白なエンケン
今月から3ヶ月限定で始まった『大槻ケンヂのオールナイトニッポンPremium』。
高校生のときにオーケンのオールナイトを聴いていた身としては毎週楽しみで仕方ない。
さて、昨日の放送では、オーケンが遠藤賢司さんについての話をしてくれた。
あんまり感動したので、覚えておきたいから書き起こし。
去年、あれ一昨年だったかな、エンケンさんとライブやったときに、ライブが終わって帰ってきたら、本番終わったときにね、「オーケン危なかった、今、俺は真っ白になった」と。「目の前が真っ白になってもう少しで倒れるところだった」っておっしゃったの。たぶんそのときにエンケンさんは自分の体調が悪いということに気がつかれたと思うのね。まあそんなことがあって、そのあと検査したらがんだということがわかって、それからでも頑張ったんですけれどもお亡くなりになっちゃってね。
僕が最後にエンケンさんに会ったとき、エンケンさん70歳の誕生日のライブだったんだ。
最後にエンケンさんがほんとに真っ白な衣装を着て、熱があったと思うんだ、おでこに真っ白な冷えピタを貼ってたんだ。それが全然おかしくないんだよ。その冷えピタを貼った姿がね、その冷えピタがね、神様とか天使の印に見えたんだ。
で、ほんとに冷えピタまで貼って全身真っ白で、だからそもそもエンケンさんというのは真っ白な、ホワイトな存在だったんだよ。
だから、エンケンさんはそのときに、ああ、やっとエンケンさんは自分が真っ白である、純白な人間であることを受け止めたんだな、なんてことを思いましたね。
フォークでもロックでもなく、自分が良いと思う音楽をやるんだという純粋な人。
オーケンがいう「真っ白」というのと、「純」というキーワードがつながる。
ふと、2014年のアルバム『恋の歌』発売のとき、十三ファンダンゴでのライブ後、エンケンさんのサイン会があった。
CDにサインをしてもらっているとき、
「アルバムジャケットの真っ白な日傘がいいですね。最近は黒い日傘ばっかりで」
と私が言うと、
「そうなんだよね。白い傘っていいよね。こういう傘がなかなかなくてね、探したんだよ」
というようなことをエンケンさんは返してくださった。
今年の夏は白い日傘を探してみようか。
眠り姫は帰れない
月曜日の夜は、母の介護ベッドで寝た。
エアマットの上で寝るのは初めてだった。
寝入りばなは何とも思わなかったけれど、夜中、あまりの寒さに目が覚めた。
掛け布団は、肌布団に毛布に羽根布団にと、寒がり仕様の装備なのでヌクヌクなのだけれど、マットが寒い。
マットに接している身体の部分が冷えてしょうがない。
敷きパッドが薄いせいかと思ったけれど、私がいつも寝ているものと同じものである。
考えてみたら、エアマットというのは機械で空気を循環させている。
普通の敷き布団であれば自分の熱で暖かくなるけれど、エアマットは絶えず冷たい空気が送り込まれてくる。
エアコンが効いて部屋の空気が暖かいうちはいいけれど、私はいつもエアコンを切って寝ているので、明け方になると室温が急激に下がる。
そして、エアマットも冷たくなる。
気が付かなかった…。
母をこんな寒いところで寝かせていたのか…。
寒くても寒いと言えずに、自分で寝返りも打てないまま、我慢させられていたのだ。
しかもこの寒波である。
どんなにか、身体が冷えただろう。
かわいそうなお母さん…。
申し訳なさでいっぱいになった。
調子が悪くなったはずだ…。
医者は相変わらず「今後のこと」と言う
後悔でいっぱいの気持ちで目覚めて、9時半くらいに病院へ行った。
もし母が眠りから目覚めていて退院できるならば、退院時間は10時なので、それに間に合うようにと思ったのだ。
しかし、母は変わらずに眠ったままだった。
病院内は暖かで、母はグーグーと寝息を立てていた。
家が寒かった分、ヌクヌクの環境でゆっくり寝てたらいいよ、と思った。
栄養と薬を入れるため、鼻にチューブがつけられていた。
少し顔色はマシになっていたけれど、血圧は上が88とやはり低い。
今日の退院はあきらめて、書類などの手続きのためにナースステーションに声をかけた。
すると、主治医から説明があるという。
主治医の説明は昨日聞いた別の医者の話とそう変わらなかった。
原因は、排泄ショックからの血圧低下による失神と思われること。
そして、延命処置についてどうするか考えておくようにということと、今後どうするか長期的に考えておくようにということ。
「長期的な今後じゃなくて、今のこの入院について、退院の目処について聞きたいんですけど」
「だからそれは、ソーシャルワーカーと相談して長期的なことも考えてから…」
なぜだろう?
医者とは全く話が噛み合わない。
主治医は次の予定があるらしく時計ばかり見ていて、ソーシャルワーカーにバトンを渡した。
一般病棟→療養型病棟→特養
そのソーシャルワーカーさんは、月曜日の朝、私が吸引器について電話をした人だった。
「朝お電話をもらったのに、こんなことになるとは、びっくりしました」
まだ若い眼鏡をかけた男性で、親切に相談にのってくれる。
通りいっぺんの説明しかしない医者とは大違いだ。
ソーシャルワーカーさんの説明を聞いて、医者が「長期的な今後」と言う意味がようやくわかった。
つまり、もう在宅介護に戻ることをお勧めしない、ということなのだった。
ソーシャルワーカーさんが勧めてくれたプランは、ここの総合病院での治療に目処がついたら、療養型の病棟がある病院に転院し、その後、特養の空きが出次第、入所したらどうか、というものだった。
それを勧める一番の要因は嚥下のことで、このままだと無理に食べさせたら喉に詰めて窒息するか、誤嚥性肺炎を起こすかが目に見えているからだった。
病院なら、今朝のように鼻からチューブによる栄養摂取ができる。
なかでも、ソーシャルワーカーさんのお勧めは、リハビリを比較的多く取り入れてくれている病院で、そこなら特養の空きが出るまで、最大3ヶ月はいられるだろうという話だった。
この大脳皮質基底核変性症という病気は、身体が拘縮して固まってしまう。
だからできるだけリハビリで伸ばしてあげないと、本人も身体が凝ってつらいし、着替えなどの介助をするときに介護者も困る。
だから、
「ほかと比べると、そこの病院はリハビリが比較的多いので、いいと思うんです」
と言われると、
「じゃあぜひそこに転院させてください…」
と言わざるをえなかった。
場所も知らない、少し離れた病院だけれど。
最後の食事
この日もオムツとかお尻拭きとか口腔スプレーなどを準備したり持っていったりで、2度ほど自宅と病院を往復した。
段取りが悪くて、忘れ物ばかりで、余計な往復をしてしまった。
うろうろして疲れるわりに生産性があがらない。
そして、考えてもしょうがないことばかり考えて、悲しみに襲われ、手が止まる。
そうか、お母さんはもう、家に帰ってこれないのか…。
月曜日の朝が自宅での最後の時間になるなんて…。
キッチンの引き出しを開けると、日曜日にドラッグストアーで買った介護食が詰まっていた。
ポイント10倍デーだったので、山ほど買いだめしたばかりだったのに。
母のために買ったのに、これももう、母は食べられない。
朝の食事は、嘔吐したこともあってほとんど与えなかった。
昨晩の残りのほうれん草のスープと、ヨーグルトと、少量のミロ。
あれが最後の口からの食事になるかもしれない、と思うと、もっといいものを食べさせてあげるんだった、と後悔する。
最後に口直しとしてミロを飲んでもらったのがせめてもの救いだ。
濃いめにミルクで溶き、ほとんどチョコレート状態にして、飲むというより食べてもらった。
最後に口にしたものが甘い甘いチョコレートなら、母も「最悪!」とまでは思わないはず。
病院でソーシャルワーカーさんと話し合って、母がもう家に帰れないことを覚悟したときは、私はまだ冷静だった。
けれど、実家に帰って、母が使っていたお箸やスプーンや食器を目にして、
「もうこれらも必要なくなるのか…」
と感じた瞬間に、心の底から悲しみが沸き上がってきた。
介護ベッドに腰をかけて、泣いた。
緊急入院
週末は何事もなかった。
何事もないどころか、
「お母さんがたくさん食べてくれたよ!」
と喜んでいたくらいだった。
いつも眠たがり寒がりの私はこの冬、夜中の介助をさぼっていた。
母が苦しそうな声を出たり咳をしたりしたときだけ、
「どうしたん? 大丈夫?」
と背中をさすったり、口腔スプレーを吹きかけたりするのみだった。
オムツはいつも朝まで替えなかった。
月曜日の早朝、母が「ウプッ、ゴクッ、ウプッ、ゴクッ」という音を立てているのを夢うつつで聞いた。
「なんか調子悪そうにしているなぁ…」
と思いながら、布団の中でグズグズしていた。
目覚ましが鳴って、いよいよ起きないといけない時間になって母の様子を見ると、口から少しリバースしたものがタラリとこぼれていた。
「ウプッ、ゴクッ」という音は、母が吐きそうになった(もしくは口の中に戻してしまった)ものを飲み込んでいた音だったのだ。
昨年11月の下旬にも、母が嘔吐したことがあった。
大騒ぎして病院に連れていったわりには、検査して点滴をして終わったので、昨日は何もせず、いつもどおり過ごした。
朝ごはんの量を控えただけ。
訪問リハビリも予定通り受けた。
「吐いたものをちゃんと飲み込めてたらいいですけど、誤嚥して肺炎になるのが心配ですね」
と、療法士さんが言い、
「やっぱり吸引器があるほうが安心ですね」
と言うので、善は急げでさっそく病院のソーシャルワーカーさんに電話をして、吸引器購入のための手続きを進めたい旨を伝えた。
次の週末も手続きでバタバタになりそうだった。
訪問リハビリのあと、施設のお迎えが来てくれて、母をいつものように送り出した。
リハビリ後の母は、疲れるのかいつも眠そうにしている。
それも想定の範囲内のグッタリ感だった。
まさかの救急搬送
午後からの出勤のため、元町駅を出たらすぐ、昼ごはんのパンを買った。
月曜日はいつも、午後の出勤ギリギリだ。
あまり時間がないので、食べきれなかったら持って帰れる状態にしつつ、イートインコーナーに腰を下ろした。
時間を見るためにスマホをテーブルに置くと、着信履歴があり、メールも届いている。
いずれも母のケアマネさんだった。
メールは簡潔に、
「急変です。救急車呼びます。」
とだけ送られていた。
救急車?!
慌てて折り返し電話をすると、救急車に乗るところだという。
ケアマネさんが付き添ってくれるらしい。
病院が決まり次第連絡をくれるということだが、とりあえず私は西へ引き返すことになった。
パンを袋に詰めて、とりあえず職場に顔を出して上司に事情を説明し、午後からも休みの許可をもらった。
トンボ返りの電車を待つ間、ホームでパンをもぐもぐ食べた。
どんなときでも食べることだけは忘れない、食いしん坊。
移動中、ケアマネさんからLINEで状況を教えてもらった。
施設で昼食前にトイレに座ったとき、すごい勢いで下痢をしたかと思うと、
「あーーーっっ!」
と大きな声を出し、痙攣発作みたいになって顔面蒼白になり、意識を失ってしまったという。
痛いと目を開ける
搬送先はいつもかかっている神経内科がある病院だった。
なんだかんだで、私が病院に到着するまで約2時間半。
それまでケアマネさんが付き添ってくれていた。
救急室で寝ている母は、これまで見たことがないくらい真っ白だった。
鈴木その子(古い!)より白い。
黄色人種がこんな白い肌になれるのかというくらい、いや、人の肌というより蝋人形のような血の気のなさだった。
主治医ではない神経内科の先生が診てくださっていて、私に説明をしてくれた。
排泄のショックから急激な血圧低下を起こして失神した、というのが今回の見立てらしい。
今も血圧は上が78という低さだった。
私がいくら、
「お母さん!お母さん!」
と呼び掛けても反応はない。
すると医者が、
「声かけには反応しませんけど、こうやって強い刺激を与えると…」
と先生が母の指をつねる。
「痛い顔をして目が開きます」
母は顔をしかめ、「何すんねん」とばかりにびっくりした目で医者を見つめる。
「お母さん!!」
とすかさず私が呼び掛けると、再び目を閉じてしまった。
また寝るんかい!
「ということからもわかるとおり、意識を失っているのではなくて、寝てるだけです」
まるでコントのようだけれど、それが母の現状なのだった。
私が来るまでに脳のMRIを撮ったらしく、画像を見ながら先生が言うには、
「この病気の進行速度にしてはやや緩やかですが、もうずいぶん脳の萎縮は進んでいます。今回のようなことはいつ起きてもおかしくない状態です」
ということだった。
そして、これからも進行すること、今後どうするかをご家族で話し合って決めたほうがいいこと、在宅介護ではもう相当厳しい状態であること、などを言われた。
はい、はい、そうですか、と話を聞きながらも、内心は、
「そんなことはとっくにわかってるんだよ。知りたいのは今後のことじゃなくて、今現在の治療のことなんだよ」
ともどかしく思った。
とりあえず点滴をすることになり、その間、ケアマネさんと待ち合いで「今後」について話し合った。
在宅介護の潮時
ケアマネさんも、できれば今の在宅ケアを続けられればと思っている。
けれど、それは理想であって、現実的に今の小規模多機能では、食事ひとつとっても誤嚥からの窒息のリスクがあって厳しいものがある、と。
もし胃ろうにしたり、尿のバルーンをつけたりすると受け入れができない。
何かあったときの病院受診も、家族が連れていく決まりになっているので、介護スタッフが付き添うことも本来はできない。
何度かこれまでも説明を聞いてきたことだ。
ただし、これまでと決定的に違うのは私の状態だ。
妊娠後期になると、もう、
「私が頑張ります」
とは言えない。
私が動けなくなる4月から6月に母に何かあった場合にどうするのか…。
特別養護老人ホームなら、胃ろうもバルーンも病院受診も可能だったりする。
最終的な看取りもしてくれる。
この状況下では、そろそろ入所を考えてもいいのではないか、という結論に達した。
できるだけ母には自宅で過ごさせてあげたいと思うけれど、もうここいらが潮時かもしれない。
もちろん、特養の空きが出るまで待たないといけないのですぐとはいかない。
けれど、今週末にでも申し込みをすることにします、と返事をした。
点滴を終えても眠ったまま
去年までは点滴をすると母はみるみる元気になっていた。
点滴で回復するのは、不調の主な原因が脱水症状だったからだ。
今回も朝ごはんは少量、昼ごはん抜きで搬送されているので、水分も栄養も足りていない。
だったら点滴で元気を回復したっておかしくはない。
ところが、点滴が終わっても顔色は真っ白なまま。
母は依然として眠り続けていた。
医者につねられると目を開けるけれど、すぐに目を閉じてしまう。
医者は点滴が終わったら帰っていいと言う。
しかし、顔面蒼白なまま眠り続けている血圧80以下の病人を戻しても大丈夫なのか。
ケアマネさんがわざわざ、ストレッチャーとそれが運べる車を手配してくれて、迎えに来てくれた。
けれど、母の容態を見ると、
「施設に連れて帰るのは不安です…」
と漏らす。
私も同じ意見だった。
あまりにも普段と違いすぎて、明らかに異常なのだ。
だいたい、このままだとご飯も食べられないし、薬も飲めないじゃないか。
帰っていいって、何を根拠に?
そして入院
今晩は病院で泊めてもらって、経過観察をしてもらえないだろうかと頼んでみると、一転して入院という運びになった。
点滴したら元気になると思っていたので父に連絡をしていなかったのだけど、入院となると別である。
父に家からお薬手帳を持ってきてもらい、入院にまつわる各種書類の手続きをとった。
病室が決まったら、入院に必要な着替えやオムツなどを家に取りに帰った。
「一晩寝たら今朝くらいの状態には戻ってると思うんやけどねぇ。だって寝てるだけなんやもん。明日の朝、目が覚めてくれてたら退院できると思うんやけど」
車の中で父にそう話した。
私は本気でそう信じていた。
胎児の鼻筋
初めて読んだ寺山修司は、学校の図書室で借りた『愛さないの、愛せないの』という詩集だった。
おそらく本のタイトルとも関連している『十五歳』という詩に、高校生だった私は心酔してしまった。
(検索したら、こちらに全文が載っていたのでどうぞ。そしてこの方も寺山の入り口は大槻ケンヂ。オーケン偉大!)
十五歳の3倍近く生きてきたくせに、いまだに私はこの詩に共感する。
それでもって、妊娠している今、お腹の子供についてやはり同じ心持ちでいるのだ。
寺山が「ぼくに愛せない人なんているだろうか」と書くように、どんな赤ん坊であれ愛しいような気がする日もある。
また、「ぼくに愛せる人なんているだろうか」と書くように、赤ん坊を可愛がる自信が持てない日もある。
問題は後者だ。
だいたい、私はこれまで、赤ん坊に全く興味がなかったのだ。
ヒトの赤ちゃんより仔猫やサルの赤ちゃんのほうがよっぽど可愛いと感じてしまう。
赤ん坊とか赤子とか言ってしまうのも、「赤ちゃん」というのが何か気恥ずかしい。
何なら昔の小説のように「赤さん」と呼びたいくらいだ。
そう思う度、うちの子は不憫だなぁ、と悲しくなってしまう。
両親から望まれて望まれて生まれてくる赤ちゃんがいっぱいいるのに。
特に金曜日の夜は、そう感じる日が多い。
実家に帰る電車で帰宅ラッシュに揉まれ、帰ってからは母の介護をしていると、お腹が張って苦しくなってくる。
マタニティマークをつけていても、混雑する新快速電車の中では立ちっぱなしだし、帰宅してからは母のおむつ替えや食事の世話で休憩していられない。
あまり無理をすると切迫早産になる危険性があると聞くので、私も気にはなる。
下腹がキューッと痛くなるとやばいらしい。
まだ下腹が痛くなることはないけれど、お腹全体が張ってイテテテ、となっても休めないときには、気持ちに余裕がなくなる。
そんなときは、お腹に向かってこんなふうに叱りつける。
「こんな程度のことで切迫早産とか死産なんかになるなら、最初から生まれてこようとするな! うちは厳しい状況なんだぞ! 甘えんな! 生まれてきたかったら自分でしっかり育ちなさい! わかったか!」
…まったく不憫な、うちの赤さん。
胎児超音波検査
先週の水曜日は、胎児超音波検査の日だった。
超音波で胎児の発育に異常がないか調べる検査だ。
いつものエコーのちょっと丁寧版、といったかんじだけど、調べる内容が違う。
私の内臓を見るのは現代医学的に普通のことだけれど、私のお腹にいる赤ん坊の内臓のサイズまでわかってしまうのだから恐れ入った。
これまで4回診察を受けたけれど、4回とも違う先生で、今回は若くて親しみの持てる女性の先生だった。
「わかりますか、これがお顔ですよ」
黄土色の粘土がぐにゃぐにゃしている映像の中で、言われてみればなんとなく顔のようなものが浮かび上がってきた。
「あっ!ちゃんと顔ができてる!」
初めて顔を認識できると、子供が育ってるんだなぁと実感がわいた。
「手をこうやって額にあてて、お口を開けてますね」
先生がそう教えてくれた赤さんの顔は、鼻筋がすっと通っていた。
可愛い!
よかった、私もちゃんと、子供を可愛いと思えてる!
映像は毎回プリントアウトしてくれて、USBにも記録してもらえる。
プリントアウト画像の中でも、私が一番気に入ったものを彼氏に見せた。
「これが一番可愛いと思うんだけど」
と言ったら、
「これのどこが顔かもわからん」
と言われてしまった。
「ここに、すっと鼻筋が通ってるでしょ?!』
と説明しても、
「早くも親バカ」
と取り合ってくれない。
そうか、私は親バカか。
子供を愛せないより、親バカのほうがよほどマシ。
私のひばりも、飛び立とうとしている。