心細い大晦日
「こうべ子育て応援メール」というメールマガジンを毎日楽しみにしている。
出産予定日を登録すると、妊娠何週と何日目かを教えてくれて、そのときの赤ちゃんの様子と母体が気をつけるべきことをメールで教えてくれるのだ。
それを読んでいると、妊婦というのは本当にいろんな身体の変化があるのだということに気づかされる。
これまで、友達が妊娠していても何も気遣ってあげられなかったことを悔やむばかりだ。
その中で、
「お腹が張るようなら無理をせず休みましょう」
というのがあった。
確かに、実家で母を抱えたり家事をしたりして身体を動かしているとすぐにお腹が張って苦しくなる。
無理をし続けると切迫流産とか切迫早産になるらしいので、デイサービスに母を送り出したあとは、座ったり横になったりして休んでいるのだけど、もともとが怠惰な性格なので、「ちょっと休憩」がちょっとで終わらない。
動きたくなくなり、何もしないまま時間ばかりが過ぎる。
やらないといけないことは山積みなのに、そうこうしているうちにもう大晦日になってしまった。
大掃除どころか普通の掃除すらできていない。
代わりにやってくれる人なんて誰もいないので、私が「無理せず休む」とそれで終わりだ。
しかも、今年は年賀状すら書かなかった。
会社では今年、「社員間での年賀状のやりとり廃止」という意味不明の通達が出たので、それを幸いに誰にも年賀状を出さないことにした。
年賀状のやり取りをしている友達もいるけれど、今の近況を書くのも憚られ、ついついおっくうになる。
まだ結婚もしてないのにいきなり「今年は出産します」というのもおかしいし、かといって、素知らぬそぶりで「今年もよろしく」というのも隠し事をしているようで気が引ける。
結局、年賀状が来たら、それに対する返事だけ書くだけに決めたら気楽になった。
昨日は父と二人で、近くのスーパーへ迎春準備の買い出しに行った。
普段はたいして混まない店なのだけど、昨日は年末とお客様感謝デーが重なって、駐車場に車が大行列。周囲が渋滞するほどの大混雑だった。
「30日は一番混むなぁ」
と父が言う。
「5%オフやからねぇ」
「こんな混雑久しぶりやな。満州から引き揚げてきたとき以来やな」
「そんなに久しぶりか?!」
父の記憶には人生の中間がない。
店内も混み合っているし、品薄になっているものもあって、ゆっくり買い物ができない。
レジも大行列で並んでいると、父が、
「待つんやったらコーヒー飲んで来てもええか?」
と言うのでカチンときた。
「何考えてんの! こんなに混雑しているのにやめなさい!」
混雑の中、一人で荷物を抱えてはぐれた父を探しに行く身にもなってほしい。
父としては、スーパーに一緒に来たのは自分が欲しいものを買うためであって、私を手伝ってやろうという気持ちはサラサラない。
それは最初からわかっているけど情けなかった。
子育て応援メールによれば、
「重いものは誰かに持ってもらいましょう」
ということだけれど、うちにはそんな「誰か」なんていない。
父はカートを押して歩くのは得意だけれど(ていうかカートのおかげでスタスタ歩ける)、荷物を持って歩くのは危険なので、車から家までは私が運んだ。
やはり、ちょっと重いものを持って歩くだけでお腹が張る。
母が病気になってからは、毎年私が迎春準備をして家族でお正月を迎えている。
これまでもたいしたことは何もできなかったけれど、身体が思うように動かない今年は格別にサボってばかりだ。
ちょっとしたことで息が切れて、動作が普段の倍くらいスローモーになってしまった。
キッチンに長く立っているとすぐに足がつるし。
足がつって転がって痛みに耐えている私を、父は知らん顔で通りすぎる。
全く身体が動けず、声掛けに反応すら乏しくなってきた母。
マイペースで世間ずれした父。
身重で機敏に動けない自分の身体。
こんなに心細いなんて。
頼れる人といえば彼氏しかいなくて、これまでは「自分一人でも頑張る」つもりでいたけれど、心の底ではどれだけ彼氏にすがっているのかに気づかされる。
これまでは、「北斗の拳のマミヤさんみたいに強くなろう」とか「攻殻機動隊の草薙素子みたいに気丈に生きよう」とか、お手本に思える女性像というのを拠り所にしていたけれど、妊娠中でも逆境に負けず頑張って生きる女性像がなかなか見つからない。
思い浮かぶのは『鎌田行進曲』で松坂慶子が演じた小夏か、『獄門島』で草笛光子が演じた毒婦お小夜くらいだ。
お小夜は強烈だったけれど、あれくらい自分勝手じゃないとお腹の子供は守れないかもしれない。
とにかく2017年ももう終わり。
今日と明日で何が違うものか。
ただ、お腹ばかりは日に日に膨らんでいる。
赤ん坊の性別
企業にとってみれば、ライフイベントは絶好の金儲けポイントだ。
特に、妊娠出産を控えた人なんて、いくらでもお金を落としてくれるいいカモになる。
カモ争奪戦のために、そのエサとしてプレゼントキャンペーンがそこかしこで行われている。
私たちカモたちはエサだとわかっていながらも、
「タダならもらっとけ!」
とつい貧乏根性を出して応募をしてしまう。
複数企業がいろんなプレゼントを持ち寄っているサイトがあって、片っ端からもらえるものを応募してしまった。
ハッピープレママ:プレママ用品、赤ちゃん用品、試供品のプレゼントサイト
赤ちゃんのスタイは全員プレゼントで、先日届いた。
…これ、男の子だったらどうすんだ??
黄色とかの無難な色にしないかなぁ、普通?
性別を色分けするのはナンセンス、という考え方もあるけれど、それは自意識が目覚めたあとで十分。
赤ん坊のうちは親が着させる服の色くらいしか、他人様が性別を見分ける手段がない。
プレゼントすりゃいいってもんじゃないよなぁ、と、配慮の足りないその企業の好感度が下がった。
逆効果ですよ、保険見直し本舗さん!
本業の保険についても気が利かない提案をするんじゃないかと思ってしまう。
男の子がいいか、女の子がいいか
はなから子供を持つなんて考えてもみなかったので、私自身は子供の性別になんのこだわりもない。
ただ、友達たちを見ていると、女の子のほうがお利口さんで手がかからない子が多く、そんなふうに育ってくれたらありがたいとは思うけれど、自分の子がそんなお利口さんであるとも限らない。
どうせだったら自分に似た女の子より、彼氏に似た男の子のほうがいい。
それに、実は彼氏にはすでに娘さんが一人いる。
だったら、一姫二太郎で男の子のほうがバランスがいい。
彼氏もそう思っているだろうと思って聞いてみると、
「女の子のほうがかわいいよ」
と言う。
やっぱり父親にとっては娘のほうがかわいいらしい。
子育て経験者は語る、だ。
娘さんが成人した今でも父娘で旅行に行くほど仲が良いのだけど、男の子だったらそうはいかないだろう。
アルカリ性という化学
ただ、彼氏には申し訳ないけれど、どうもこの子は男の子のような気がしていた。
ひとつには、「お腹が前に出ていたら男の子」という俗説。
妊婦だから当然かもしれないけど、お腹が前に膨らんでいるのだ。
それともうひとつには、知人が言った一言。 彼女のおうちでは、うちの実家と同じアルカリイオン水素水の整水器を使っていたので、
「うちも両親の健康のために飲ませてるんですよ」
と話したら、
「どうも男の子を授かったのは、この水を飲んでたせいじゃないかと思うんだよねぇ…」
とポロリとつぶやいた。
そのときは、
「またまたぁ~」
と、どういう意味なのか真意を理解しないまま笑い飛ばしていたのだけど、アルカリイオン水素水と妊娠の関係性がずっと引っかかっていた。
彼女は化学をお仕事にされている聡明な人なので、何かそう思う根拠があるに違いない。
そう思って男女の産み分けについて検索すると、女性の身体がアルカリ性に傾くと男の子に、酸性だと女の子になるらしい。
食べ物や飲み物の摂取で分かれるとは言えないけれど、pHによって決まることは確かなようだ。
案の定、男の子だった。
先週健診に行ったら、男の子だったことがわかった。
「やっぱり!」
と私が言うと、先生が、
「どうしてですか?直感ですか?」
と尋ねる。
前回は超無愛想な老先生だったが、今回の先生は近藤公園似の優しげな人だった。
「いやぁ、お腹が前に出ているので…」
と答えると、
「よく言われますけど、個人差があるので実は関係ないんですよ」
と言う。
まさか、アルカリイオン水素水のことなんて聞けない。
ていうか、本当にアルカリイオン水素水を飲んで男の子が生まれるなら、皇室とか歌舞伎の梨園とか、とっくに導入してるんじゃ?
『たけしの万物創世記』を思い出した。
昔、『たけしの万物創世記』というテレビ番組があって、オーケンがときどきゲストに出るので欠かさず見ていた。(ネットで情報が得られる今と違って、昔は出演情報がわからなかったからね。)
オーケンゲストの回でヒトの生命誕生についてやっていたのを覚えていて、その中でどうやって男女の性別が分かれるか、pHの秘密もやっていたような…。
実家のVHSテープに録画したものがあるかもしれない。
と思いつつもまず検索してみると、VHSをほじくり出さなくてもYouTubeに上がっていた。
何でもネットで見られる時代でビックリする。
久しぶりに番組を見てみて、改めて赤ちゃんが宿るのが奇跡的な出来事だと思い知らされた。
この子は、壮絶な戦いを勝ち抜いて生き残ったわけだ。
男の子上等。
でも、願わくば彼氏に似て背が高くて運動能力が高い男の子になりますように。
私に似てチビで鈍くさくてオタクな男の子になったら目も当てられないや。
コーヒーを変えてもらえませんか。
妊婦になってみて、思った以上に身体の変化がしんどいことを知った。
お腹が張って苦しいのは想像がつくけれど、それによってちょっとしたことで息切れしたり、トイレが近くなったり、唾液の分泌が減って口がカラカラに乾燥したり、意外なところに影響が出る。
また、気を付けないといけないことや、制約が多いことも初めて知った。
飲酒と喫煙はもともとしないから大丈夫だけど、カフェインの摂取、お刺身などの生もの、ナチュラルチーズなんてものまで控えないといけないなんて。
特に悩むのがカフェインが入った飲み物だ。
日常的に飲んでいたコーヒーや紅茶、日本茶が飲めない。
つらくはないけど、飲み物の選択肢がなくなるのは寂しい。
それに、人並み外れた眠たがりなので、仕事中眠くなったときカフェインで対処できないのも困っていることのひとつ。
そんな中、最近よくスタバでコーヒーを買っている。
すべてのコーヒーをディカフェ(カフェインレス)にできるからだ。
50円の追加料金を取られるけれど、カフェインレスにできるのは妊婦にとってすごくありがたい。
昨年くらいから、カプチーノやラテを飲むとお腹をくだすようになって以来、スタバではソイラテを頼むようにしている。(今頃になって乳糖不耐症になったみたい。)
そういうのも含めて、スタバは何かと気が利くなぁと思ってしまう。
スタバについては、ニール・ヤングが不買運動をしたりしてたし、個人的な趣味からすると大資本のチェーン店は好きじゃない。
でも、なんでスタバがこれだけ大きな企業になって、町の個人営業の喫茶店が小さなままかといえば、結局、顧客への細かい気配りや配慮ができてることも大きいだろうと思う。
神戸牛は高くても高級店ではない
先日、彼氏のお誕生日で某有名鉄板焼屋さんWへ行った。
彼氏のリクエストが「肉」だったので、神戸牛を奮発したのだ。
二人で軽く3万円を超えるコース。
「妊娠中なんですけど、食後のコーヒーをカフェインレスの飲み物に変更することはできませんか?」
と予約のときに尋ねてみたら、
「すみません、対応しておりません」
とのこと。
「えっ、全く、どうにもなりませんか…??」
それくらい何とでもなるだろうと思っていただけに意表を突かれた。
和食の会席でもフレンチでも、高級店ならそれなりのサービスとして、苦手なものとかアレルギーなどの対応はしてくれるから、まさか1万5千円以上するコースでコーヒーを変えてもらうことができないとは思わなかった。
実際、お店に行ってお食事のあと、最後に有無を言わさずコーヒーが運ばれてきた。
そうか、やっぱりダメかぁ…。
電話口の女性はできないと言ったけど、当日はシェフの粋なはからいがあったりするんじゃないか、と心のどこかで期待をしてたけど、そんなに甘くはなかったのだった。
帰り道、彼氏にその話をすると、
「つまりあそこは高級店じゃないってこと。高い肉を焼いてるだけや」
と言うので、なるほどなぁと思った。
1万5千円は神戸牛の値段であって、お店の価値ではないのだ。
その後も、これまでと変わらずに生活しているけど、外食をしていると有無を言わさずセットになっているコーヒーor紅茶問題には常に悩まされている。
あと、うっかり喫煙可のお店に入ってしまった場合の副流煙と。
妊婦はうろちょろせずに家でじっとしとけってことか。
初めて見る平成仮面ライダーの楽しみ方
オーケンが出演しているので、西宮ガーデンズのTOHOシネマズまで『仮面ライダー平成ジェネレーションズFINAL ビルド&エグゼイド with レジェンドライダー』を観に行った。
ファンだから当然これまで出演してきた映画は見てきたけれど、演技力のなさには定評があるオーケンである。
ご本人もそれを自覚されていたので積極的に俳優活動はされてこなかったくらいなのに、今回ラスボス役に白羽の矢が当たってしまって、ファンとしては銀幕でオーケンが観られる嬉しさの反面、「大丈夫かしら…」と心配になっていたのだった。
けれど、それは杞憂!!
まるで当て書きされたみたいにオーケンにピッタリはまった役で、少々わざとらしく過剰な演技も、子供向け特撮ヒーロー映画の中にあってはちょうどいい塩梅。
しかも何が良かったって、出番がすごく多かったこと!(←ファンとしてはね。)
普通に考えて、ラスボスは悪の組織の社長。
手下がいっぱいいてしかるべきだ。
その中でも右腕・左腕的存在や、四天王みたいな中間管理職的そこそこ強いキャラがいたりして、最後にチョロッとだけ出てくるのがラスト・ボス。
それら悪の軍団に対して、正義の味方は1人もしくはグループ数人が普通。
ところが、今回の映画はレジェンドライダーたちを集結させなくちゃいけないから、ヒーローがたくさん出てくるわけだ。
正義の味方でいっぱいだから、悪役までたくさん出してたら収集がつかない。
というわけで、名もなきザコ悪役のボスの直属上司はいきなりラスボス、つまりオーケン演じるカイザー様1人、みたいなことになっていた。
しかも、一粒で2度美味しい。
仮面ライダービルドがいる世界と仮面ライダーエグゼイドがいる世界という2つの世界が存在するというお話で、それぞれの世界に黒い仮面のカイザー様と白いヒビ割れメイクのカイザー様がいる。
白カイザー様は20代の若いオーケンを彷彿とさせるものがあって可愛いったらなかったし、黒カイザー様はナイスミドルになられた今の年相応の落ち着きがあって、お色直し的な、オーケンファンにとってはうれしい設定。
事前にネットで白いライトカイザー様のお姿を見たとき、
「いつもとヒビが左右逆!」
と思ったわけだが、白カイザー様と黒カイザー様が並んだシーンを見て、二人の立ち位置のバランスだったのだな、と納得。
2つの世界は平行世界、パラレルワールドだ、とカイザー様は言うけれど、ビルドとエグゼイドの世界は住んでる人や状況がまるで違っていて別世界。
パラレルワールドって、何かがちょっと違う世界であって、まるきり違ってたら平行でも何でもないのでは?
と、言葉の定義に疑問を持ってしまった。
これもパラレルワールドと呼ぶならば、2つの世界で平行して存在するのはカイザー様だけ。
そうなると、もう2つの世界そのものがカイザー様中心に動いてるわけだ。
カイザー様主役説。
カイザー様の不老不死になるという野望はあともう少しで叶うところだった。
惜しい惜しい。
「ほんとにオーケンが不老不死になってくれたらいいのにぃ」
と願ってしまう。
さて、平成の仮面ライダーについて何も知らないまま観に行った私。
オーケンが出ているから十分楽しめたけれど、そうじゃなかったらどうだっただろうか。
正直なところ、たくさん仮面ライダーが出てきすぎて、誰が誰か混乱してしまった。
ずっとシリーズを観てきた人ならわかるけれど、やはり予備知識なしでは半分くらいしか楽しめない。
ただでさえ、似たようなイケメンの若い男の子たちが仮面ライダーに変身するだけでも、変身前と変身後がつながらないのに、さらに形状が異なる仮面ライダーにパワーアップしちゃうので、
「えっ、また新しいのが出てきたの?」
と勘違いしてしまう。
どうやらビルドはレインボーマン並にいろんな形状を持っているらしい。
例えて言うなら、ドラゴンボールは魔神ブーまでしか見てなかったのを、スーパーサイヤ人ゴッドとか見せられても、「誰?」って思ってしまうようなものだ。
悟空かどうかわかんないよ、という話。
子供の頃から仮面ライダーはあまり見ていなかったので、思い入れもない。
それでも、平成ライダーを見ていると、昭和ライダーを懐かしく思い出す。
今と昔で何が違うって、変身後の素材感が全く異なるのが面白く思った。
昭和ライダーはビニール、ウレタン、発泡スチロール。
平成ライダーはプラスチック。
そして、あの造形はカッコいいのか?
と首をかしげたくなる見た目は健在。
バッタだったときからそうだった。
仮面ライダーは基本、異形のアウトローだから。
私の世代的には、ストロンガーとアマゾンなんだけど(再放送も含めて)、どちらも変な見た目だった。
特にアマゾンを初めて見たときは、子供ながらに「この見た目で大丈夫か?!」と思ったものだ。
映画本編が終わると、仮面ライダーアマゾンの映画の予告編が流れた。
アマゾンも復活かぁ。
カイザー様の野望は砕かれたけど、作品の命は不老不死。
童謡と読み聞かせ
赤ん坊に対してこれまで全く関心がなかったので、ベビー用品だとか子供服だとかの用意を考えると、非常におっくうな気分になる。
けれど、子供が産まれたら楽しみにしていることもある。
それは、
- 絵本の読み聞かせをしたい。
というのと、
- 歌や音楽をたくさん聴かせたい。
というものだ。
結局、子供のためというより自分が楽しむためかもしれない。
押し付けられる子供はたまったものじゃないかもね。
お料理も上手じゃないし、キレイ好きじゃないので、掃除や洗濯もずさんな母親になるだろう。家庭的とは程遠いから。
私が子供に与えてあげられるとしたら、本と音楽、あとは子供向け番組くらいなもの。
来年からダブルケアになるけれど、今でも介護と子育てに接点があるのは、童謡・唱歌だ。
母のお気に入りの音楽は美空ひばりと童謡・唱歌。
今もしょっちゅう、そういう音楽をかけている。
タブレットではYouTubeで検索して、スマホではGoogle Play Musicで、テレビならBS日テレの『BS日本・こころの歌』を録画して。
便利な時代になったので、いつでもどこでも音楽を聴かせてあげられる。
母が病気になってからもまだ家でお風呂に入っていたときには、私が一緒に入って母の身体と髪を洗っていた。
湯船につかりながら、一緒に歌を歌ったものだ。
少しでも頭の体操になればという思いからだった。
ついさっきのことは忘れているのに、歌の歌詞は忘れない。
音楽の威力はスゴいのだ。
トイレに入っている時間も長いので、そのときも退屈しのぎも兼ねて、ずっと歌っていた。
今でもトイレでは歌を続けている。
けれど、一緒に歌っていたのが、だんだんキーを外すようになり、一部しか歌わないようになり、最後はうなるような声しかでなくなり、今となっては黙って聴いているだけだ。
それでも、私が歌うと母は少し笑顔になる気がする。
母がベッドでじっとしているときも、退屈してたら可愛そうだと心配になって、できるだけ音楽をかける。
もう妊娠6ヶ月になる赤ん坊についても、同じことを考えてしまう。
暗いお腹の中でじっとしていて、退屈じゃないんだろうか。
もう耳が聞こえるらしいから、せめて音楽くらい聴かせてあげたいけれど、会社勤めをしているうちは、おじさんたちの打ち合わせの声か、カタカタとキーボードを打つ音くらいしか聞かせられない。
音楽でなければ物語でもよい。
実家には、私の子供の頃の絵本がまだたくさん、本棚にそのまんま置いてあるのだ。
神戸の部屋には、アメリカのSF作家カート・ヴォネガットの『お日さま お月さま お星さま』という絵本しか置いていない。
ヴォネガットが亡くなった後に邦訳が出版された、ヴォネガット唯一の絵本だ。
生まれたばかりのキリストの話で、ちょうど今の季節にぴったり。
久しぶりに引っ張り出してみて、声に出して読んでみた。
う〜む、赤ちゃんどころか大きな子でも理解できない内容。
けど、私が楽しければまあいいや。
そしてお母さんの夢を見ているあいだは──
二度とやぶにらみになりませんでした。
酔っ払いは嫌われる。
昨日、叔父のことをあんなふうに書いてから、いろいろ考えてみた。
すると、ふと、あの発言はこういう意味だったんじゃないか、とひらめいた。
「姉ちゃんに何があっても、オレはもう面倒は見られないから」
という叔父の発言は、面倒を見る対象はうちの母ではないのではないか。
この真意は、
「姉ちゃんが死んだら、以後、オレは義兄の面倒は見ないぞ」
ということなんじゃないか。
姉ちゃんというのはうちの母、義兄はもちろんうちの父である。
血を分けたうちの母がいなくなったら姻戚であるうちの父とはもう関わりたくない、というなら意味が通る。
わざわざ父の妹に言いに行ったのも、それならうなづける。
酔っ払いほど迷惑なものはない
一度、叔父には大変迷惑をかけたことがあった。
もう2年ほど前になるが、その頃の父のマイブームが、徒歩で近くの回転寿司に行ってお酒を飲むということだった。
ある日、酔った挙句に叔父の家に押しかけ、歩けなくなってしまった。
あいにく、叔母が車を使って出かけていたので、叔父には足がない。
仕方ないので、叔父は父に肩を貸しながら、歩いてうちまで送ろうとしてくれたらしい。
ところが、叔父もひざが悪い。
途中まで歩いたものの、二人して歩けなくなってしまって、道路で座り込んでしまった。
真昼間のことである。
偶然、父のケアマネさんが車で通りがかり、二人の様子をみてびっくりして、家まで送ってくれて事なきを得た。
そのときはケアマネさんから私に報告があったから、私もその事件を知っている。
けれど、私の知らないところで父はもっといっぱい叔父に迷惑をかけているかもしれない。
自分が美味しかったらそれでいい人
父は酔って暴れるようなタイプではないけれど、自分の限界を超えて飲む悪い癖がある。
最悪のケースは、ついつい飲んで、トイレに立とうして立ちあがれなくてひっくり返り、漏らしてしまうことだ。
加齢とともにお酒に弱くなっているにも関わらず、若いころのペースで飲んでしまう。
去年、やはり回転寿司の帰りに道路で転倒してひざの皿を割ってからは、外食で飲むのは控えるようになったものの、油断するとすぐに飲みたがる。
「だって美味しいもん!」
注意しても聞く耳を持たない。
他人に迷惑をかけてしまうことよりも、飲みたい欲がすべてに勝ってしまう。
私の彼氏について、父が唯一、私に質問したのが、
「あの人は、酒は飲めるんか?」
だった。
「飲めるけど」
「何が飲めるん?」
「ビールが多いかな…」
と言いかけて、その魂胆が分かった私は、ピシリと制す。
「飲めたとしても、お父さんとは一緒に飲みに行かへんよ!」
「ちぇーっ!」
やはり反省がないのだ。
金曜日から神戸ルミナリエが始まった。
まだ父も母も元気だった頃、家族で見に行ったことがある。
しかし、先に夕食にもつ鍋を食べたせいで、父は上機嫌で酔っぱらってしまい、ルミナリエの通りを歩いている間中ずっと、私と母が両脇から父を担いで歩いた。
そのことを話しても、
「あのときのもつ鍋は美味しかったな」
と、父は私と母に迷惑をかけたことは一切覚えていない。
酔っ払いは大嫌いだ。
親戚って虚しい。
大人になるまでは、大人が怖かった。
ところが自分が大人になってみると、「敵意を持ってませんよ」という態度でこちらが接すればさほど怖いものではないことがわかってきて、知らない人と話すことにも慣れ、人間関係のバランスのとり方もなんとなく覚えてくるようになった。
…と、タカをくくっていたのは、まだまだ私が世間知らずのあまちゃんだからだろう。
実家に帰ってきて、父とドラッグストアへの買い物に出かけた車の中で、父から嫌な話を聞いた。
母の弟が、父の妹夫妻にわざわざ会いに行って、
「姉ちゃんに何があっても、オレはもう面倒は見られないから」
と言ったというのだ。
ちなみに「姉ちゃん」というのはうちの母のこと。
またそれを、父の妹の旦那が父に報告してきたわけだ。
最初意味がさっぱりわからなくて、何度も聞き返し、情報を整理した。
父はただでさえ話が下手なので、誰が誰に誰の話をしているのか、理解できるまで時間がかかった。
今、この文章を書いていても、読んでくださる皆さんが理解できるように書けている自信もない。
理解しづらいのは、父の話下手だけではなく、理解しづらい行動だからだ。
だいたい、なぜ普段交流がないのに、母方の親戚が父方の親戚に会いに行ったのか。
だいたい、なぜ母の弟が、やってもいない母の面倒を見られないと言い出したのか。
さっぱりわからない。
例えば、私や父が
「うちの母に万が一のことがあったら、頼みます」
と言ったなら、その行動は理解できる。
ただ、そんなことは絶対あり得ないし!!!
「おじさん、またえらく変なこと言いだしたね」
「そやから、もう年賀状書かんとこと思とんや」
ということで、話題は年賀状の話になったわけだけれど、思い返すたびに癪にさわる。
母の弟夫妻は、うちの実家から一番近い親戚だ。
母が元気なうちは頻繁に行き来して仲良くしていたので、リタイアした夫婦同士、一緒に旅行に行ったり食事に行ったりしていた。
だから、母の病気発症後もまだ歩けて右手が使える頃は、私が帰れなくて食事の準備ができないときに、
「4人で一緒に食事に行ってもらえないでしょうか」
と私が頼んだことはあった。
叔父は畑仕事や庭仕事が得意な人で、父の家庭菜園や庭いじりのアドバイザー的存在だった。
父も甘えて、
「うちとこの庭木も切りに来てくれよ」
と頼んだりしていた。
実際、昔はときどきうちの庭の手入れを手伝ってくれたりしたものだ。
母が家事をできなくなって、父が最低限のことは自分でやらないといけなくなった当初、父は家事についてわからないことがあれば母の弟の嫁(つまり叔母)を訪ねて、アドバイスをもらっていた。
ただ、私の印象では、レクチャーしてもらうと言っても、世間話の一環だったろうと思う。
食器の洗い方についてわざわざ教えてほしいと言い出した話を聞いたとき、私は恥ずかしくて卒倒しそうになったけれど。
思い返せば、その頃からおばさんも、
「そんなことは、なみ松ちゃんに聞いたらどうですか」
と言っていた。
ということは、いちいち頼ってくる父が面倒臭かったのかもしれない。
そういうのも親戚ならではの心やすさからくるコミュニケーションのうちだと思っていたけれど、向こうには迷惑がられていたんだな、と思うと、ひどく虚しくなった。
母は自分の兄弟が大好きだっただけに、裏切られた気がする。
私が子供の頃に知っていた大人は、学校の先生と、親戚やご近所のおじさんおばさんだけだった。
そりゃ大人嫌い、人間嫌いにもなるわな。
子供が産まれたらしばらく実家に戻るのもアリかと思っていたけれど、実家では誰も頼れる人がいない。
親戚はこんな調子だし、ご近所には超面倒臭い「進撃のおばはん」(拙ブログお向かいのおばさんに辟易している話。 - 3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録参照)がいる。
実家の周囲は味方どころか敵だらけ。
考えただけでもストレスだ。
友達は選べるけれど、親戚とご近所は選べない、という事実に、ああ私はやはり世間知らずだったなと思い知らされる。