3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

宮沢さんへの手紙 ~やっと刊行された『ニッポン戦後サブカルチャー史 深掘り進化論』

『ニッポン戦後サブカルチャー史 深掘り進化論』の書籍がようやく刊行された。

もともとはNHKのテレビ番組で、『ニッポン戦後サブカルチャー史』の第2弾『DIG深掘り進化論』として2015年に放送されたものだ。

 

NHK ニッポン戦後サブカルチャー史 深掘り進化論

NHK ニッポン戦後サブカルチャー史 深掘り進化論

サブカルチャー史に深い興味があるので誰が講師であろうと見るし読むのだけど、宮沢章夫さんが講師なのだから私の真剣度は増すばかりである。

もともと私は宮沢章夫さんのファンだったが、ファンになった当時の宮沢さんはエッセイストであり演劇人であって、サブカルチャーを語る人ではなかった。

いつの間にかサブカルチャー論者みたいになってしまって、それがまた私を夢中にさせてしょうがない。

 

テレビ放送の1回目のテーマは「不思議の国の『女子高生』」だった。(本のほうは「ニッポン女子高生史」となっている。)

放送終了後、私の頭がグルグル回りはじめ、そうだ、宮沢さんに感想をメールしよう!と下書きに保存したものの、結局タイミングを逃して送らずじまいになったものがあった。

書籍化されたらそのときに送ればいいや、と思ったけれど、それから1年半も時間が経ってしまった。

何しろ2015年10月だ。

保存していたメールの下書きはこんなだった。

 

*********************

 

宮沢章夫

 

ご無沙汰しております。

関西のワークショップでかつてお世話になった波野なみ松です。

ご活躍はいつも拝見しております。

NHKのニッポン戦後サブカルチャー史は1も2も大変興味深く、いろんなことを考えさせられました。

私は1975年生まれです。ベトナム戦争終結し、寺山修二が市街劇『ノック』を上演し、大瀧詠一が『NAIAGARA MOON』をリリースした年であります。

1995年、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件があった年に20歳になって、テレビでは『新世紀エヴァンゲリオン』が放送され、劇場では『攻殻機動隊』が上映された年でした。

なので、これまでずっと、私はサブカルチャーとともに育ち、歳を重ねてきた人間だと思っています。

前回の放送もそうでしたが第2シリーズのDIGも、良い再確認と再発見の機会になりました。

特に女子高生の回は、最近私が考えていて答えがでなかったことに、ヒントをいただきました。

というのが、最近政府が言っている「一億総活躍社会」「女性の活用」という言葉についてです。

正直、これらの言葉に対しては、

「おまえらの思ってるような活躍なんてしたくねーよ!利用されてたまるか!」

という、腹立たしさしか感じません。

なぜこんなにムカつくのだろう、とずっと考えておりました。

それが、橋本治桃尻娘」の紹介のとき、それについての答えをもらった気がしたのです。

 

あたしは絶対そんな役に立つ物になんかになりたくないんだ。あたしは唯の“実用品”になんかなりたくないんだ。

 

「実用品」というのが、すごくピンときたんです。

社会(もっというと男性社会)が望んでいる実用品にはなりたくない、ということです。

とはいっても、大人になって社会に出ると、否応なく実用品にされてしまうところがあります。

働き手としてもそうでしょうし、「子を産む機械」としてもそうでしょう。

それに対して「女子高生」という存在は、大人&男性社会に対する最も対照的なカウンターなんじゃないかと思いました。

私は自分がアングラサブカル者になってしまった経緯をずっと模索しつづけてきたんですが、自分がなぜ弱者に共感し、権力に対して強いルサンチマンを抱いているのか、自分で自分のことが不思議でした。いじめられたこともないし、大きく挫折したこともないし、何だろうと。

ただ、ここにきてふと思うのは、女性であるだけで、やはり男性社会で「ほのかな」差別を受け続けてきたということです。

男性社会に「負けない」ようにしようとすると、同じベクトルで、同じ土俵で戦うことになるんですけど、それもどうも違う気がするのです。

「実用品」としてどれだけ生産性があって効率的で成果があるか、評価されること自体を拒むかんじ。

それがサブカルチャーじゃないかと

 

*********************

 

メールの下書きはそのあたりまで書いて、まとまりがつかなくなってやめていた。

 

ふと、ロリータファッションについてよくオーケンが描写していた「不必要にひらひらがついた服」という表現を思い出した。

「不必要に」ということがポイントだ。

赤瀬川原平トマソンにしても、みうらじゅんの「いやげもの」「カスハガ」「とんまつり」にしても、世の中にとって必要ないもの、特に価値がないように思われるものだ。

書籍の「第5章 ヘタうま―アートと初期衝動」で都築響一が、メインの側にいる人たちが自分たちの文脈に沿った表現として捉えられなければ「サブ」として扱ってきた、と論じているが、それも「役に立つ」かどうか、実用的かどうかで判断されているところが大きいような気がする。

 

去年からブログを始めて1年と1月が過ぎた。

「何のために書いているのか」と問われると、とりあえず備忘録と言っているけれど、答えがあってないようなところがある。

でも、役になんて立たなくていい。実用的な文章は誰かにまかせよう。

ときどき、何の生産性もない自分の人生の意味を考えることがあるけれど、それもまた愚問。

そうか、だから「でもやるんだよ!」ってことなんだ。