3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

大分のおじさんの話

夫が勤続30周年で20万円の旅行券をもらった。

結婚前は、

「勤続30年になったら、長期休暇を取って、アラスカに行ってカヌーでユーコン川を下る」

と言っていたのだけど、コロナ禍の昨今ではアラスカに行けるべくもない。

旅行券は1年間有効だけれども、換金はできない。

どうしようか、と悩みに悩んだ結果、お盆休みに夫と私とサトイモの3人で大分に行くことになった。

 

大分の伯父さん

大分には私の伯父が住んでいた。

母の兄だ。

 

母は6人兄弟で、兄2人、弟2人、姉1人。

姉は子どもの頃に腸チフスで亡くなってしまったから、実質女の子は母1人。

長兄である大分のおじさんは、兄弟で唯一の女の子である母のことをとても可愛がっていた。

 

伯父と母は、『火垂るの墓』の清太さんと節子とだいたい同じ年齢。

一度写真で見た幼い母は、節子と同じおかっぱ頭だった。

疎開播州に戻った母たちと違って、伯父だけ神戸に住んでいたりもしたから、『火垂るの墓』は伯父にとって身につまされるものがあったのだろう。

「あの映画はつろうてつろうて、見てられへんのや」

と言っていたのを思い出す。

 

母が病気になって、母の弟である叔父たちとは疎遠になった。

元気なときはあんなに仲良く行き来していたのに、冷たいものだった。

 

それに対して、一番遠く離れている大分の伯父さん夫婦だけは母のことを心配してくれて、時折電話をかけてきてくれた。

母だけではなくて私のことも気にかけてくれて、子どもが産まれたときは一番喜んでくれた。

自分の子どもや孫にするように、食品やお菓子、玩具を詰めた段ボール箱を送ってくれたりもした。

 

その伯父が、昨年亡くなった。

最初の緊急事態宣言が出る直前だった。

けれど、コロナは関係なく、母は寝たきりだし、父だってあんな足で九州までの長旅はできない。

私は小さな子どもを抱えて大分まで行けるわけがなく、私たち家族は親戚に香典を預けるしかできなかった。

 

言い訳の旅行

その伯父さんの御仏前にお線香をあげにいく、というのと、夫の勤続30年記念旅行、という2つの大義名分で、私たちは不要不急の旅行に出かけた。

経済だって回さないといけないし、オリンピックだってやったんだから、旅行くらい多目に見てもらわないとね、と言い訳しながら。

 

大分へはフェリー以外全行程自家用車移動。

ほとんどが軽四の狭い車内に揺られる旅だった。

道路で他府県ナンバーを見ると、夫は決まって、

「何をウロチョロしとんねん、家でじっとしとけって言うとるやろ!」

と文句を言った。

どの口が言うか。

 

出発の3日前にサトイモが発熱してハラハラしたり、大分は連日避難指示が出るほどの大雨だったり、ハラハラヒヤヒヤの旅だったけれど、1日目の別府観海寺温泉も2日目の湯布院も素敵なお宿だった。

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肝心の伯父さんのお参りはどうだったかというと、とにかく伯母さんが私たちの来訪を喜んでくれた。

それはもう熱烈に。

旅行前から帰宅後数日まで、毎日、ストーカーのごとく電話をかけてくるほどだった。

伯父さんがなくなって、コロナ禍で関東にいる息子たちの帰省もなくて、80半ばの伯母さん一人、本当に寂しかったんだと思う。

 

お宅にお邪魔すると、伯母さんはお菓子に葡萄に西瓜に、あんみつにアイスクリームに、と次から次へといろいろ出してくる。

せっかくだからゆっくり座っておしゃべりでもしましょうよ、と思うのだけれど、高齢女性というのは「お客に食べさせたい」性分なのだろう。

 

「この雨だから早めに出ますね」

とおいとましようとすると、

「ちょっと待って!あれをお土産に持たせてあげなきゃ!」

とまた奥から何かを出してくる、ということを何度も繰り返した。

 

これで何度目だよ、という「そろそろ…」を言いかけたとき、伯母さんが伯父さんのアルバムを出してきた。

伯父さんが子どもの頃から始まる、モノクロのアルバム。

冒頭、兄弟の写真から始まったので、母も写っているかも、と期待して見たけれど、1ページ目以外はほとんどが伯父と職場の友人の写真だった。

さらに途中からは、伯父の姿もなくなり、仕事現場やプロジェクトの記録写真になっていた。

 

「昭和やなぁ」

と夫が感心して言った。

夫は伯父と一度電話でしゃべっただけだけど、仕事一筋の伯父の性格が見えてきた、と言った。

「今どきこんなんありえへん。職場の写真を家に持って帰ってアルバムにするかぁ。だいたい、仕事を写真に残す時点でコンプライアンス的にアウトや」

コンプライアンスどころか機密情報も何もない昭和のゆるゆるも伺える。

 

最後に、「根性」と彫られた石碑の写真が出てきた。

それは伯父の仏壇にも額に入れられて飾られているものだった。

これは?と尋ねると、

「それね、お父さんが死んでから、会社の人が写真を撮って持ってきてくれたの。会社の敷地に置いてある石に、お父さんが彫ったんだって。毎日昼休みにコツコツね。お父さんはそんなこと一言も言わなかったものだから、ビックリして。死んでからそんなことがわかるなんてねぇ」

と伯母さんが言った。

 

私たちは何重にも驚いてしまった。

毎日昼休みに!

会社の庭石に勝手に!

しかも「根性」!

定年して30年近く経つのに最近判明!

 

ことごとく、ザ・昭和のサラリーマン。

 

フェリー乗り場にて

伯父さんの家には、別府から湯布院への移動途中に訪問し、翌日の昼にはフェリーに乗って帰路に向かう予定だった。

湯布院に滞在中、伯母さんから何度も電話があり、大雨によるフェリーの運行情報などを教えてくれた。

到着前、夕食頃、寝る前、朝食頃、出発前…。

「そんなに心配してくれなくても…」

と正直ちょっとウンザリ。

翌日の昼前、また電話。

今度は何だろう、と電話に出てみると、

「今フェリー乗り場に来ています」

と伯母さん。

ええええ?!

 

「このまま二度と会えないんだろうか、と思って考えちゃってね…。思い切って来たのよ。私にもこんな行動力が残ってたのねぇ」

伯父さんが亡くなって以後、元気がなくて何事もやる気が出なかったという伯母さん。

バスに乗って来るにしても、ずいぶん時間がかかっただろうに。

そこまでの気力が出るとは思わなかった。

84歳、まだまだ大丈夫。

 

せっかくなので、お昼ごはんを一緒に食べに行った。

せっかくだから関サバ関アジが食べたいと思い、フェリー乗り場に近い店を検索。

そこに行きましょうか、と提案して店の近くに来ると

「あ、今思い出した! あなたのお父さんとお母さんが大分に来たときも、ここにご飯を食べに来たのよ!」

と伯母さんが言った。

父が定年後、夫婦二人で九州を旅したことがあった。

もう20年以上前の話。

伯母さんがこの店に来たのも、そのときぶりだという。

父や母にもいいお土産話ができた。

 

別れ際、伯母さんはまた山程のお土産をくれた。

フェリー乗り場で私たちの到着を待っている間に買ったであろう箱のお菓子いろいろや、大きな蜂蜜の瓶、箱入り不織布マスク、果ては郵便局でもらったおまけのタオルまで…。

自家用車で来てなかったら、どうするんだこれ、という量だ。

そしてその中で、

「これ、形見だと思ってもらってやって」

と渡されたのは、フォトフレームに入った「根性」の石の写真だった。

笑ってしまった。

「焼き増しして、来てくれた人に配ってるの」

とのこと。

私も夫も、昭和の頑固親父を象徴するその写真が気に入っていたので、ありがたく頂戴した。

 

コロナがそこまできている

帰ってきてから、私もサトイモも旅の疲れからか体調を崩してばかり。

私は腕にヘルペスができるし、風邪は引くしで、グズグズしている。

耳鼻科の先生はいつもの喉風邪だと言う。

発熱はないけれど咳が出るので、外に出るととても印象が悪い。

 

そうこうしていたら、職場でコロナ陽性者が出た。

同じフロアから二人も。

 

週末の『東京ポッド許可局』のイベントも米粒写経相方の感染で延期。

毎週楽しみにしていたYouTube番組『ヒルカラナンデス』も、ダースレイダーの再検査結果待ちでお休み。

 

とうとうコロナがそこまで来ている。

もう誰がいつ感染しても本当におかしくない。

 

私は来週ワクチン接種の予約が取れた。

2回目を打ち終わるまで、なんとか逃げ切る。