コロナ、うちの近況
サトイモはひっつきまわって私の周りを離れないので、寝てくれるまではブログが書けない。
離れないというか、私の手を引いて自分のテリトリーに来いと命令し、自分の思い通りにならなければ大泣きしてゴネるので、その対応に追われる日々。
同じ2歳前の子どもでも、大人しく一人で遊んでくれる子もいるだろう。
子どもをそばで遊ばせながら、勉強したり手芸をしたりテレワークしたりできる人がうらやましい。
うちでもしサトイモの前でパソコンを広げたりしたら、とたんにオモチャにされてしまってとんでもないことになってしまうだろう。
先日、もう使わないWindowsXPのVAIOをオモチャに与えたら、一瞬でキーボードを破壊してしまった。
PCの中身を触られて滅茶苦茶にされてもいいか、と思っていたけれど、まさか物理的に壊されるとは思ってもみなかった。
無残…。
それもこれも、コロナウィルスのせいで児童館も子育て広場も閉室になって、巣ごもり生活をしているゆえだ。
自分で靴がはけるようになったのをうれしがって家の中を靴で歩きまわったり、冷蔵庫の冷凍引き出しを開けて氷をばらまいたり、毎日が「コラアァッ」の連続。
そもそも体力が余っているから、昼寝の寝つきが悪い。
昼寝時間が遅くなるから、生活リズム全体がだんだん遅くなってきて、夜に寝る時間も遅れてきた。
今では夕方から夜にかけて昼寝して、一旦起きて夕食と入浴をし、私と同じ時間に寝るようになってしまった。
これでは、私の夜の時間が皆無。
それもこれもコロナめ。というかんじ。
母の病院では
まず、母の病院から封書で連絡が来た。
お見舞いの自粛要請と制限を設けるという内容。
父は週2回、タオルの交換で母の病院に行っている。
父の話では、出入り口が一か所に絞られて、入る際には必ず手のアルコール消毒、マスクの着用、見舞い時間も5分間に制限されているということだった。
本当なら今週末にお見舞いに行きたかったんだけれど、自粛せざるをえない。
かわいそうなお母さん。
父のヘルパーサービスでは
父のヘルパーさんからも電話があった。
留守電が入っていて「またかけます」ということだったが、折り返しても出ないので、先に父に電話をしてみた。
「コロナ対策の連絡じゃないかと思うんだけど、なにか聞いてない?」
「さあ?何も知らんで」
無駄だとは思ったけど、案の定の返事。
しばらくして再びヘルパーさんから電話がかかってきて、内容はこういうことだった。
「サービス提供の前には必ず体温測定をします。もし37.5度以上熱があったら、ヘルパーステーションと相談して、場合によっては保健所にも連絡します。サービスを受けられないことがありますので、ご了承ください。」
もっともなことだと思う。
訪問日を減らすとか、そういうこともあるのかなと思っていたので、むしろ高齢者の体調を気遣ってくれている内容に感謝だ。
父に再び電話をし、さっきのヘルパーさんからの電話はこういうことだったよ、と知らせたが、
「熱なんかないで」
という。
「違う違う、ヘルパーさんが来たときは最初に熱を測ります、っていうこと」
「今日も来たけどな、熱なんかなかったで」
「熱がないのはええんやけど、今日の話やなくて…」
「なんぼやったかな、32度くらいや」
「そんな体温死んどうわ!トカゲか!」
それにしても、連絡をくれたのがヘルパーさん、というのがちょっと腑に落ちない。
母の介護をしていたときは、窓口は常にケアマネさんだった。
今のケアマネさんは、何一つ連絡もなく知らん顔。
母のケアマネさんは、二人とも本当によくしてくれた。
ケアマネさんの当たりはずれを実感する。
夫の会社
夫は管理職なので時差出勤で会社には出ているけれど、部下にはできるかぎりテレワークをさせているらしい。
それでも、来週はヨーロッパへ出張に行くという。
上司の承認がなかなか下りず、説得を重ねたうえでようやく認めてもらったのに、再び蒸し返されたりして大変なのだそうだ。
行くなという限りはそれなりの責任を持ってほしいが、そうではないらしい。
「出張は行くな、でも納期は遅らすな」
それは無茶だ。
働き方改革の実情が、
「残業するな、仕事は減らすな、やり方は変えない、人は増やさない」
という無理難題で、個人が限界まで努力し、昼休みや休憩時間を減らすしかない、というギスギスしたものになっているのと似ている。
出張する必要があるのか、としつこく聞いてくる(でも行くなとは言わない)上司には、部下の体を心配するのではなくて、行かせたことを非難されたくない、という気持ちが透けて見えて気が悪い。
責任ある立場の人には、
「俺が納期遅れの責任を取るから、大事をとって行くな」
または、
「非難を受けたときは俺が責任を取るから行け」
という、ハッキリした気概を見せてほしい。
にしても、このどこへも遊びに行けない環境で夫まで不在となったら、サトイモと二人で息が詰まるだろうなぁ…。
早くこの騒動がおさまりますように。
イヤイヤ言わないイヤイヤ期
パパ、ママ、とか単語レベルでしかしゃべれないサトイモだが、身体能力は一人前で、とにかくどこへでもよじ登る。
私がトイレに行ったり洗濯物をを干したりするとき、これまでならベビーサークルやベビーベッドに閉じ込めておけばよかったのが、柵をよじ登って出たり入ったりを自由にするようになってしまって、私の生活がとたんに不自由になった。
洗面台にもよじ登り、ひとりでお風呂に入っている。
冷水だから、さすがに寒くて懲りたんじゃないかと思ったけど、なんとこれまでに4回もやられた。
風邪をひくわけだ。
少々風邪をひいて熱があっても、サトイモのイタズラは止まらない。
炊飯の予約をしていた炊飯器のフタを開け、
水に浸している生米を掴んでばらまいた。
豆まきは終ったんだぞ!
…ママは泣きたいよ。
児童館でその話をしたら児童館の先生に、
「手が届くところに置いてたのが悪かったと思うしかないわね」
と言われたけれど、イスを移動させてどこでも登るようになった昨今では、もう避難場所がない。
安全地帯のない、無法状態。
食器棚からお皿を出して割る、ガスはさわる、コンセントは抜く、お客さんの靴は持ってくる…。
さらに困ったことに、移動中のベビーカーから脱出するという荒業を身につけ、スーパーで突然逃走するようになった。
連れ戻すとギャーギャー大声で騒ぐ。
レジ袋を詰めていると、隣にいたピンクの髪のおばあさんが、
「私は男の子二人育てたけど、あんな大声は出さなかったわ」
とわざわざ言ってきた。
はあそうですか。
まじで手に負えない。
家では相変わらずツバは吐くし、怒っても効いてないし、手が出る寸前。
虐待のニュースにふれると、明日は我が身、と思う今日この頃。
ますますブログを書く時間が取れない。
子どもを叱るということ
児童館や子育て広場に行ったとき、ちょっとした隙をみてライブラリーにある育児書を拾い読みしている。
その中で一番参考になったのが、「男の子のしつけに悩んだら読む本」という本だ。
ますますパワフルになってきたサトイモのゴンタぶりに毎日手をやいているので、タイトルに惹かれて手に取ったのだけれど、読んでみるといちいち「なるほどなぁ」「ごもっとも」。
著者は男の子をしつけるのに、叱る必用はないという。
大きな怒鳴り声や暴力で一時的に言うことを聞かせても、怒る人がいなくなれば同じことを繰り返す。けれど、何度でも説得を繰り返して本人が理解をすれば、もう二度と同じことをしなくなる。
だから、静かに落ち着いて注意をすればよいのであって、大声で叱る必要はない。
…というのだ。
そして注意するときも、
「どこ行くの!」
「なにしてるの!」
「なんでそんなことするの!」
というような疑問詞で始まる叱り方をしないで、
「こっちへ戻っておいで」
とか
「危ないからやめなさい」
とかいうように、具体的な言葉で伝えるべきだという。
確かに、言葉がまだ未発達なサトイモに、
「どうしてこんなことするの!?」
と言ったところで、理由が答えられるわけないし、「こんなこと」が何を指示しているのかも理解できるわけがない。
…でも、つい言っちゃうんだよなぁ…。
だって、
「なんでそんなことするの!?」
と怒りだけじゃなくて驚きも混じってしまうくらい、常識では考えられないことをするのだ。
最近のサトイモのイタズラに、家具や壁にツバを吐きかける、というものがある。
何がきっかけだったかわからないけれど、
「ペッ、ペッ!」
と家じゅうツバを飛ばしてまわる。
私が、
「コラアァッ!何やっとんじゃあぁぁぁぁあっっ!!」
と追いかけていくと、サトイモはキャキャキャッ!と笑って逃げていく。
呆れたことに、たいてい犯行の前、
「ぼく、今から悪いことしますよ~」
と言わんがごとくに眉毛をつりあげてニヤニヤ笑いを浮かべる。
私に怒られたくて、わざとやっているのだ。
「やめなさい!」とつかまえて大声で諭しても、手首を握っている私の手にプップッとツバを吐きかけてくるから、「わあぁっ!」とビックリしてつい手を離してしまう。
放っておけばいいじゃないか、と思われる方もいるかもしれないが、彼は怒られたくてやっているので、私が怒るまでペッペッ、プップッをやり続ける。
…汚いじゃないの。
何度も何度も、「バッチイからやめようね」と優しく注意しているけれど、まるで効果はない。
「遊びと違うで!ママは本気で怒ってるんだからね!」
と本気度をアピール。
それも、どうにも伝わらない。
一時的でいいからやめさせたい。
けれど、大声で叱りつけたってサトイモは平然としている。
私の迫力が足りないのだろうか…。
こうなったら仕方ない。暴力に訴えよう。と、横抱きにしてお尻ペンペンしてみたが、オムツの上からだとポサポサとしかならない。
逆に、縦抱きに戻したときにサトイモがニコニコ笑いながら、私の顔をペシペシ叩いてきた。
向こうは手加減を知らない。小さな手は痛いったらありゃしない。
「やめてやめて!」
と泣きがはいるのは私のほう。
サトイモをギャフンといわせて言うことをきかせられる、ゴッドマザーになりたい。
今日ちょっとだけ効果があったのは、怒るときに箱ティッシュをテーブルに叩きつける、というもの。
バーン!と大きな音が出て、なかなかの迫力!
「怒っているんだぞ!感」が出せた、と自分なりに満足。
サトイモも一瞬目を丸くしていた。
会社で、「書類を叩きつける」「イスを蹴る」などは「パワハラになるからやってはいけない事項」と教えられていた。
今、あえてやっちゃいけないパワハラの手法を使ってみたらいいかもしれない。
全く、子供をビビらせる方法を試行錯誤する日々がくるとは情けない。
目指せ!子叱り名人!
そんな先週の火曜日、神戸市ファミリー・サポート・センター主催の「目指せ!子叱り名人!」という講座に参加してきた。
講座参加中は別室で託児があって、サトイモを預けてゆっくり受講できた。
講師の先生は普段は主に企業の管理職向けに研修を行っている人らしい。
「サトイモをビビらせたい」という私の希望とは正反対に、子どもを叱りつけて言うことをきかせるのではなく、静かに諭して子どもと向き合おう、という内容。
「男の子のしつけ」の本と大筋において一緒だ。
「過去と他人は変えられない。変えられるのは未来と自分の行動です」
という話にちょっと胸を打たれつつ、ロールプレイングを通して隣の席の受講者さんと仲良くなったりして、講座はあっという間に終了。
手法というか発想として重要だと思ったのは、
「話の内容ではなく、話の背景にある気持ちを聴いてあげる」
というコミュニケーション術で、子どもだけじゃなくどんな人間関係においても使える。
「言い訳は決して悪いことではありません」
というのも、もっともだと思う。
残念ながら、1歳10カ月のサトイモはまだそこまで育っていないので、なんで問題行動をするのか自分で言い訳ができない。
ツバを吐く理由を代弁するなら、
「もっとママと遊びたい」
ということだろう。
でもなぁ…。
私が働いていたりして一緒に遊ぶ時間がないのなら、わかる。
でも、今は一日のほとんど、これ以上どうせーっちゅうねん!というくらいに遊んでやっている。
それなのに、最低ラインの家事の時間まで奪おうというのか、サトイモよ。
ちょっと相手になってやらないだけで、すごい声で泣き叫ぶ。
愛情欲求の貪欲さが空恐ろしい。
ほかの受講者と雑談していたとき、サトイモの「怒られたくてわざとやっている」ということについて、
「イヤイヤ期に入ったら、おさまってくるんちゃいます?」
と言ってくれた人がいた。
わかっていてわざとやる、というのも、成長の過渡期なのかもしれない。
2歳になれば、そろそろイヤイヤ期。
サトイモはまだ「イヤ」という言葉は言えないからまだ憎らしくないけれど、いずれ何を言っても、
「イヤ!」
で返される日がそこまで来ている。
その日までに、迫力ある恫喝を習得せねば。
保湿クリームと父のリハビリ
元旦に実家に泊まった際、行きと帰りに母の病院へ寄った。
行きは「明けましておめでとう」の挨拶をしただけだったので、いつもやっているようなボディケアは帰りにおこなった。
いつも使っている保湿クリーム(正確にはオールインワンジェル)を塗ろうとすると、中身がスッカラカン。
12月に来たとき、「もうちょっとでなくなるな」と気付いていた。
けれど、このクリームを使うのは私くらいで、病院のスタッフはたまにしか塗ってくれないと思っていたので(だから2年前に入院したときに持ってきたものがまだなくならない)、そうすぐには使い切らないだろうと甘くみていたのだ。
昨日確認しておけばよかったな…、と後悔しても後の祭り。
なぜ急に減りが早くなったかはさておき、補充しておかないと塗ってもらえない。
仕方なくその場しのぎとして、サトイモ用に持っていたベビー用保湿クリームをチューブからブリブリとヒリ出して、スッカラカンの母の容器に入れた。
これで2、3日は持つか…、と病院をあとにした。
保湿用のクリームを買って病院に持って行ってほしい、と父に頼もうかとも考えたが、うちの父のことだから、
「保湿? それ何や?」
ということになるだろう。
そういうときいつもならネットで注文して実家に送り、届いたものを父に持って行ってもらうのだけれど、今回はなかなか決められなかった。
高いものを買ったところで、病院でどんな使われ方をしているかわからないし(急に減りだしたのが気になる)、安いものだと送料がかかってバカみたいだし、ちょうど手ごろなものが見つからないのだ。
保湿クリームひとつでこんなに悩むなんて。
父が話の通じるまともな人なら、「ドラッグストアで買って持って行って」で済むのにな…、と思わざるをえなかった。
いつも思う。父が常識ある普通の人だったらな…。
悩んだ挙句、解決策を思いついて、父に電話をかけた。
「来月私が保湿クリームを持っていくまでの間、家にあるクリームを持って行ってもらいたいんだけど」
「クリーム? そんなんあらへんで」
父の世界観では、「知らないもの」は「存在しない」ことになっている。
「あるのよ。和室のテレビ台の下にあるの」
実家に滞在中、サトイモはテレビ台にあるものをなんでもかんでも興味をもって取り出していて、私はずっと、「触りなさんな、バッチイから」「やめなさい、元に戻しなさい」とサトイモを押さえつけたり片づけたりで大変だった。
そうやって取り出してきたアイテムのひとつに、母が昔使っていたアロエのクリームがあったのである。
だから、確実にあることはわかっているのだ。
「お父さん、ちょっと探して」
「どこを?」
「だからテレビ台の下」
「もうかまへんやないか。クリームなんかなくても大丈夫やろ。来月なみ松が持ってきてくれたらええやんか」
父は入院中の母よりも、自分の「面倒くさい」を優先する人である。
寝たきり妻のために探し物をするくらい何てことないはずなのに、それを惜しむ。
そんな父にムカッとくる。
「あることはわかってるんやから、ちょっと探してみてよ! じゃあ、テレビ台の右側の2段目を探してみて」
もう少し具体的な指示を出してみる。
数年前に、もしかしたら父は軽い「大人の発達障害」かも、と思ったときから、やりとりに困ったらできるだけ細かく具体的に指示するように心がけてきた。
「2段目? ちょっと待ってよ…」
父はしばらくゴソゴソやってから、
「これか? アロエクリーム。1段目にあったぞ。2段目言うから全部中身を放り出したやないか」
父は不満げだった。
「ええやないの、どうせ毎日時間はたっぷりあるんだから、ゆっくり片づければ」
「簡単に言うけど、これ全部しまうんエライことや」
保湿クリームがなくなっただけで、こんなに大騒ぎになる。
後日、アロエクリームを持って行った、と父からメールが来たので、その夜に電話をかけた。
「持って行ってくれてありがとうね。ところで…」
と私は気になっていたことを尋ねた。
「今日はお父さん、リハビリの日と違うかったん? 月水金がリハビリやろ?」
「リハビリは休むことにしたんや」
父は少し面倒そうに答えた。
「次はちゃんと行きなさいよ」
「今月中は休む言うて連絡しとんや」
「ええっ!なんで!?」
「ほんまはやめたかったんやけど、ケアマネジャーが『やめてしまわんと、ひと月だけ休むことにしたら?』言うから、とりあえず休みにしたんやけどな」
「なんでやめるん。やめたらアカンやんか」
「もう3年も行っとんのに、ちっとも良うならんから」
父のその言葉を聞いて、またそこからか…、と心底ウンザリした。
父は脳梗塞の後遺症で左脚がうまく動かない。
それはどうしようもないのだ。
主治医も言っていた。
もう治らない。
でも。
脳からの命令がうまく伝わらないだけで、脚の機能が壊れたわけではない。
だから、動かさないと余計に悪くなる。
うまく動かないからといって歩かないと、右脚の筋力だって落ちてしまう。
だから、リハビリに通ってこれ以上悪化しないようにしましょう、とみんなで説得して行き始めたのに…。
私の出産前後も勝手にリハビリを休んで悪化し、赤ん坊を見に来ることができなくなってしまった前科もあるのに、父はそんなことすらすっかり忘れてしまったらしい。
「リハビリに行くことの、何が嫌なの?」
「嫌なことはないけどな、良うならんのに行く意味がない」
「結局、行くのが面倒くさいだけでしょ」
「まあ、そうやな」
母が大脳皮質基底核変性症を発症して左手が動きにくくなったばかりの頃、父はよく母を怒鳴っていた。
「もっと動かしてリハビリせぇ言うとんのに! 治そうという気が足りんから動かんのじゃ!」
そう言われると、母はいつも子どもみたいにムキになって、
「動かんもんは動かんのじゃ!」
と負けじと怒鳴り返していた。
私はいつもそれを引き合いに出して父を叱る。
「あのときのお母さんの気持ちわかるやろ? お父さんだって治そうという気持ちがないから脚が動かんの違う?!」
でも、父は母と違い、
「治す気はあるんやけどな」
と飄々と言っている。
「じゃあリハビリに通いなさい!」
「家で屈伸しとく」
「そんなん運動にならん!」
「ならんことないやろ。ちょっとはなるはずや」
「…なるかもしれんけど、リハビリのほうがプロが見てくれるんやから!」
「あんなんプロいうんかなぁ?」
「プロやんか、療法士さんは」
「あれやったら屈伸も変わらんで」
親子の会話はどこまで行っても不毛。
「ほんなら勝手にせぇ! 悪化して勝手に死んどけ!」
父が自業自得で悪化するのは仕方ないけれど、父が歩けなくなると、母の病院に行ってくれる人がいなくなる。
保湿クリームでさんざん文句は言ったものの、父がいるからこそとりあえずの補充ができたわけだ。
腹は立つけれど、母の入院生活は父の肩にかかっている。
なんとか父には頑張ってもらいたい。
屈伸運動、家で1万回やれ!
消防出初式と震災郵便ポスト
スーパーの行き帰り、サトイモに消防車をみせるために、ときどき隣にある消防署に寄る。
児童館で会うママたちに話すと、皆同じことをしているみたいで、子どもは本当に「働くくるま」が好きだなぁと思う。
あるとき、いつものように消防署の入り口でうろうろしていると、中から職員の男の人が出てきた。
怒られるかと思いきや、
「よかったら救急車に乗りますか?」
と言う。
「ええっ!?いいんですか!?」
まさかそんなことを言ってもらえるとは思わなかったので驚いていると、
「消防車は使えないんですけど、救急車ならいいですよ」
と、サトイモを救急車の運転席に乗せてくれた。
パパの車の運転席に座らせてもらうときは、ハンドルを握ってキャッキャ騒ぐくせに、大好きな救急車に乗っても微動だにしないサトイモ。
ハンドルを握ろうともしないで固まっている。
ダメだ、私に似たのか、ここぞというところでヘタレを発揮…。
写真を何枚かパチリ。
カチコチの顔だけど、それも含めてとてもいい経験になった。
消防出初式
そのとき、消防署に消防出初式のポスターが貼ってあった。
夫も調べてくれて、1月5日、家族で消防出初式に行ってきた。
メリケンパークに消防車大集合!
サトイモは大はしゃぎ…かと思いきや、やはり無表情。
この日は少し曇っていて風が冷たく、寒さでテンションが低いのかも、と思いながら、消防車の後ろやバンパーに乗せて写真を撮る。
何枚か撮って、もういいだろう、とサトイモを降ろすと、泣いて嫌がる。降ろすなということらしい。
はいはい、と別の消防車の後ろに乗せる。
消防車は何台も来ているけれど、だいたいどれも似たようなものなので写真を撮るにも飽きてきたし、許可を得ているわけじゃないのでずっと乗せているわけにもいかないし、降ろすと泣くので困った。
出しものの中に、「未来っ子消防隊防火パレード」というのがあった。
子どもたちが消防隊員のコスチュームにヘルメットをかぶって、消防車に乗ってパレードする。
「いいなぁ、サトイモも出たかったね」
と言いながらパレードを見ていると、子育て広場でよく顔を見る男の子がいた。
お母さんがいたので声をかけると、
「応募は4歳からやから、サトイモくんは2年後やね」
と教えてもらった。
あと2年、これは待ちきれない!
出しものの中で、おそらく神戸の出初式ならではかも、と思ったのが、岸壁からの一斉放水と海保の船による海上放水だった。
圧巻の見ごたえ。
でも、それよりも私と夫が一番ワクワクしたのは、ヘリコプターを使った救助訓練。
救急隊員たちがものすごい高さからロープを使って滑り降りてくるのは、すごく迫力があった。
「そんなに消防車が好きやったら、将来消防隊員になるか」
と言っていた夫が、
「ヘリコプター、かっこええなぁ。サトイモも航空機動隊に入るか」
とあっさりヘリコプターに乗り換え。
当のサトイモは何もしゃべれないのに、いかにも親バカの会話。
震災の記憶を風化させないために
入り口の近くには展示コーナーがあって、そこには航空機動隊の展示ブースがあった。
ほかにも、防災クイズのコーナーがあって、夫と二人で参加して景品をもらったりした。
その並びに、
「震災の経験談を募集してます」
と書類を配っている人がいた。
震災郵便ポストという企画で、阪神淡路大震災を風化させないために、経験談を募集しているという。
「協力してくれる方には、消防隊カレーを差し上げています」
えっ!?
消防隊カレー!!
「書きますので、カレーください!」
カレーにつられて、記入フォームをもらった。
「出してくれるのを信じて先にカレーを渡しますから、絶対書いてくださいね」
長田消防署、なかなかの太っ腹である。
経験談の締め切りは1月末になっていた。
まだまだと思っていてもすぐに期限が来てしまうよなぁ、早く書かなきゃ、先にカレーもらっちゃってるもんなぁ、と思いながら日が過ぎた。
昨日の夜、サトイモがなかなか寝付かなくて、大人のベッドで添い寝しながら寝かしつけをした。
案の定、私も一緒に居眠りしてしまって、気が付くと午前3時。
6時間寝たんだから、このまま起きててもいいのかもしれないなぁ、と思いつつ食器を洗っていたら、震災郵便ポストのことを思い出した。
いい機会だから今やろう、と真夜中の宿題。
偶然にも1月17日だった。
せっかく返信用封筒をもらったけれどメールで送信し、さあ、 この勢いでブログも書こうか、というところで、サトイモが泣きながらやってきた。
目を覚ますとママがいなくてびっくりしたようで、目をこすりながら泣いている。
仕方なくベッドに戻ることにしたのが、午前5時半。
もうすぐ5時46分だな…。
サトイモをトントンしながら再び眠りについた。
出初式のオープニングで、小学生による「しあわせ運べるように」の合唱が披露されていた。
なんと夫はこの歌を知らないという。
「この歌聴くと泣いてしまう。聴かさんとってほしいわ~」
と私はおどけて逃げるように歩いたが、観客席には本当に何人か泣いている大人たちもいた。
今日はいろんなところでこの歌が歌われていることだろう。
あれから25年も経った。
ついこの間のようで、ものすごく昔のことのような気がする。
明けましておめでとうございます。
もう8日にもなってなんですが、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
年末まではサトイモの生活リズムが整っていたので、昼寝も夜寝もすんなりだったんだけれど、年末年始ですっかり狂ってしまった。
昼寝はしないわ、夜は寝付かないわ、おまけに夜中にグズって暴れだすわでなかなか自分の時間が取れなかった。
子どもが寝てくれている間が唯一のリラックスタイムなのに!
お願いだから寝てくれ!!
と、年明け早々愚痴ってしまったけれど、2日の初詣でひいたおみくじが大吉で、今年は良い年になりそうな予感。信じるものは救われるノダ!
胸のつかえが下りたこと
年明け、まず気分良くなったのは、大学時代の友人Yちゃんから年賀状が届いたことだった。
Yちゃんは数少ない大学のゼミ友達で、卒業後も年に1、2回は会って一緒に食事をする仲だった。
私とは違って平均的な年齢で結婚したけれど、お相手がバツ2で20歳年上というなかなか平均的ではない旦那さんだった。
Yちゃんは仕事もしていたし趣味もいろいろ持っていたし、結婚はしたけれど、私はYちゃんをシングルの私と同じように思って遊んでいた。
会うときは贅沢してそれなりのフレンチを食べる、というのが2人の楽しみだった。
子どもを持つことなんて、ほとんど話したことがなかった気がする。
40歳になったとき、
「まだまだ子ども作る気満々だよ~」
という彼女に、
「本当にそう思ってるんだったらもっと焦らなきゃ無理でしょ!」
と説教した記憶はある。
子どもが欲しい欲しいと言いながら不妊治療しないなんて、本気じゃないんだろう、できたらいいなという願望があるだけなんだな、とタカをくくっていた。
ところが、私がうっかり妊娠してしまって、
「これでしばらく会えなくなるかもしれないから」
と食事をしたときのこと。
これまでどんなに子どもが欲しかったか、と彼女は言った。
そしてまだ諦めてないとも。
「でも、旦那さんもう還暦過ぎてるでしょ。精子だって年齢関係あるらしいよ」
私は自分が高齢で子どもを授かったことを棚に上げて、残酷なことを言った。
「不妊治療してる人たちだってなかなかできないのに、難しいんじゃない?」
と、彼女たちがなぜ不妊治療をしないのか理由も聞かず、追い打ちをかけた。
サトイモが生まれて、去年の年賀状はスタジオアリスで撮ったサトイモがイノシシの着ぐるみを着ている家族写真を送った。
彼女からの返事は来なかった。
ずっと子どもを望んでいたのに授からなかった彼女に対して、偶然妊娠してしまった私が不用意に言った言葉は、どれだけ彼女を傷つけてしまったのだろう…。
後々考えれば考えるほど後悔した。
私はもうYちゃんに見放されてしまったのかなぁ…。
そう思うと、私から連絡をするのも気が引けた。
それが今年、Yちゃんから年賀状が届いた。
どんなにかうれしかったか。
年々お正月らしいことをしなくなってきた日本。
年賀状もそのひとつで、どんどん枚数が減っている。
私が今年出したのは20枚にも満たなかった。
そんな枚数でさえ、年末に年賀状を作成するのは正直面倒くさい。
それでも、こんなふうに大切な友達からお便りが来る。
年賀状という存在はありがたい。
友達はいいもんだ
もうひとつ年賀状に感謝したのは、母の友人のちーちゃんから電話があったことだ。
母が病気になって以降、母の友達には私から年賀状を出している。
最初は代筆から始まり、連名になり、最近では母ではなく私自身として年賀状を書くようになった。
もちろん、年賀状を出す母の友人たちは私も顔見知りの人ばかりだ。
特にちーちゃんは何度かうちに遊びに来ていたし、一緒にコンサートやオペラに行ったこともある。
母が病気になってからも、何度かお見舞いに来てくれた。
「年賀状もろてお返事が書きたいとこなんやけど、字が書けんようになってもうて。電話でごめんなぁ」
ちーちゃんと話をするのは2年ぶりだった。
本人も大腸にポリープができて手術をしていたり、旦那さんもパーキンソン病になっていたりで心配していたので、電話口の声がちっとも昔と変わらないことに安堵した。
ちーちゃんは去年、母のお見舞いに行ってくれたそうだ。
「私らしわくちゃのおばあさんやけど、たか松ちゃんはしわもソバカスも消えて、キレイな顔になったなぁ。病院におって日に当たらんかったら、あんなキレイになるもんやろか」
身体が動かずしゃべることもできない母について、ちーちゃんはネガティブなところを全く言わず、母の娘時代からのコンプレックスだったソバカスが消えたことを誉めてくれた。
お互いの近況や共通の知人のウワサをゲラゲラ笑って話をして、気が付けば1時間以上長電話していた。
「年賀状でサトイモちゃんを見るのはうれしいわぁ。また年賀状送ってな。返事はよう出さんけど」
そういえば、お母さんもこんなふうによくちーちゃんと長電話してたよなぁ、と思うと、自分が話しているのに母がそこにいるような気がした。
元旦・2日と母のお見舞いに行って、母が帯状疱疹にかかっていることを知った。
免疫力が落ちている高齢者の患者にはよくあるらしい。
うちの夫いわく「出産より痛い」という帯状疱疹。
痛いとも言えず痛みを我慢しなければならない母が不憫で、何もしてあげられないことに暗い気持ちになっていた。
でも、ちーちゃんのようなお友達がいて、
「またお見舞いに行ってもええやろか」
と言ってくれることは何よりの救いだ。
友達はいいもんだ。
つくづくそう思う2020年の年明け。
さよなら2019
私が毎週楽しみにしているラジオ番組「東京ポッド許可局」で、今月も「今年が一番早かった」「年々早くなってる」という話をしていた。
みんな「一年あっという間だった」と言う。
うちの夫なんて、「こないだ忘年会したのに!」と言っていた。
みんなそう。
なのに、日本人の大多数と違い、私だけは「今年は遅かった」。
許可局で「9月になったら大晦日」とプチ鹿島が注意喚起してたから、気をつけて生活していた、…というわけじゃあない。
毎日はあっという間に過ぎる。
自分の時間がほとんど持てないくらい、やるべきことをこなしたら一日が終わっている。
早い早い。
けれど、いろんなことがたくさん起こりすぎて、昨日の出来事がずいぶん昔のことに感じる。
「あれ、今日まだ火曜日だった。今週に入ってから2日しか経ってないのか…」
そんなふうに感じるのである。
年賀状を作るためにスマホのアルバムアプリで画像を振り返っていたら、今年の春先までサトイモが赤ちゃんだったことに驚く。
サトイモが歩き始めたのが6月。
まだ半年しか経ってないけれど、感覚としてはずいぶん前から走り回っているような気がする。
奴がハイハイしていたことをもう忘れている。
それに、去年の今頃なんて、まだバリバリに授乳していた。
今となっては、自分から母乳が出ていたなんて信じられない。
哺乳瓶を使っていたのも、ずいぶん昔のような気がする。
「今年は遅かった」だなんて、大人にはありえない。
なんで私はこんな奇妙な時間感覚なんだろう。
考えるに、私はサトイモ目線で時間を過ごしているんだろうなぁと思う。
ほかのママに「今年は遅かった」と言ったら、
「早かったよぉ!」
と驚かれた。私だけがおかしいのかもしれない。
「でも、すごく濃い一年だった」
そうそう、そのとおり。変化がめまぐるしくて、本当に濃い一年だった。
最近特に、サトイモに感謝する気持ちが大きくなっている。
44歳にもなって、「一年が長かった」なんて思えるのは、サトイモが生まれてきてくれたから。
いろんなことで、自分の変化や発見を感じた一年だった。
今年ももうすぐ終わり。
ブログを書く時間がどんどん取れなくなってきているので、きっとこれが今年のラスト。
皆様よいお年を。