3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

アンガーマネジメントと荷物

サトイモの行き帰りは、まだ困難が続いている。

登園しぶりもひどいし、家に帰るのも言うことをきかない。

いつからこんなことになったんだろう、と頭を抱える日々だ。

 

朝は比喩ではなく本当に引きずっていくか、抱っこで連れて行く。

現在サトイモの体重は14キロ。

4歳にしては軽めだが、抱っこで夏の道を歩くのは相当つらい。

(ちなみに、ご近所の半年下の子は24キロあるそうだ! とても抱っこできん…)

 

サトイモは、あらゆる手を使って行き渋りをする。

靴を履かなければ行かなくてすむと思ったのか、せっかく履かせた靴と靴下を脱ぐ。

カチンと来るが怒ったら負けなので、

「履きたくなかったら履かなくてもいいよ」

と裸足のまま外へ出したら、しばらくすると、

「くつはきたいよ!くつはかせてよ!」

と泣き叫んだ。

他人が聞いたらまるで私が靴を履かせない虐待をしているみたいじゃないか。

 

帰りも同様のことがあったが、このときは一瞬で、

「どうろがあつい!くつはかせて!」

と泣き出した。

「ね?靴は脱いじゃダメでしょ?」

なぜ文明人が靴を履くのか身を以て体験したようである。

 

そうまでして、なぜ園に行きたくないのか、なぜ家に帰りたくないのか、理由を尋ねても答えない。

「もう、どうろでねるしかない!」

なぜそうなるのだ。

こちらもわからないし、本人もわからないのだろう。

 

黄色い帽子のおじさんになりたい

今尊敬する人を聞かれたら、迷わず、

黄色い帽子のおじさん!」

と答えたい。

 

黄色い帽子のおじさんは、「おさるのジョージ」に出てくるジョージの保護者である。

黄色い帽子のおじさんは寛容で、ジョージのことを叱ったりしない。

ジョージはおさるである。

とんでもないイタズラをする。

ジョージなりに考えがあって「やらかす」のだけれど、結果はひどい。散らかす、破る、壊す、失くす、飛ばす、飛んでいく、などなど。

でも、黄色い帽子のおじさんは怒らない。

ただ困って、ジョージを諭すだけである。

 

相手が猿だと思っているから、許せるんだろうか?

私もサトイモを猿だと思えば許せるだろうか?

最近、サトイモのことを猿だと思ってあきらめよう、とトライしているけれど、そう簡単にはいかない。

 

最近、サトイモはクローゼットの奥から使わなくなってしまっていたAVコード類を引っ張り出してきて、テレビやパソコンやあらゆる家電に接続して遊んでいる。

「ねぇママ! これも、ゆーえすびーなの?」

「ママ! これはどうしたらつながるの?」

「このあなにはどれをさせばいいの?」


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コードは散乱し、テレビは線がからまり、ルーターはコードがぶら下がり、コンセントはタコ足にされている。

特に電源が入っているものは、間違った接続で熱を持って発火してしまうのでは、とイライラする。

 

こんなとき黄色い帽子のおじさんなら、怒らないのだろうか?

しばらく我慢してみるが、苛立ちは隠せない。

 

アンパンマンの世界では

毎朝見ているBS日テレの「それいけ!アンパンマンくらぶ」で、先日、クリームパンダちゃんとベビードーナツが小麦粉の袋を取り合いして破いてしまうというシーンがあった。

ビードーナツの親のドーナツマンはそれを見てもニコニコ笑うだけで叱らない。

 

小麦粉一袋まるまる無駄にして、もったいないじゃないの!

二人が取り合いする大きさからして、1キロ?3キロ?

食べ物を無駄にするなんて罰当たりめ

食料不足の国もあるんだぞ?!

それいくらすると思ってるの!!

生産者の気持ちになってみろ!!

 

私だったら怒らずにはいられない。

アンパンマンの国では経済という概念がないし、小麦粉は魔法でいくらでも手に入るから腹も立たないのだろうか。

 

金持ち喧嘩せず、という言葉がある。

「また買えばいいよ」

という感覚があれば腹も立たないのだろう。

根っからの貧乏性でもったいながりの私にはその境地は程遠い。

 

私でさえそうなのだから、もっと生活に困窮している世帯で子供が食べ物を粗末にしたり、電気水道等のムダ使いをしていたら、腹が立つに決まっている。

つい手を挙げたくなる気持ちもわくだろう。

 

今現在もサトイモの洗面所での水遊びが止まらない。

環境問題からしても、水は大切に、と何度も諭すけれど、聞く耳を持たない。

水遊びはお風呂でやってくれ、と言ってもダメだ。

サトイモを許すためには、家計と環境問題への意識は捨てないといけない。

寛容であるためには、どこか信念を犠牲にしないといけない部分がある、というのが最近の葛藤。

 

荷物を諦める

最近、行き帰りに抱っこをせがまれるので、肩こり腰痛がひどく、体調がすこぶる悪い。

荷物が重すぎるので、少しでも軽くするために、自分の荷物を極力減らすことにした。

 

もともと私は荷物持ちで、予備のマスク、エコバッグ、常備薬、文房具、日焼け止めクリームやハンドクリーム、などなど、今は必要ないけどあったほうが便利かも、と思うものをあれこれカバンに入れてしまう。

結果、荷物が重いこと、重いこと。

それを思い切って、持ち物はスマホと財布、ハンカチとティッシュだけにして、大きなカバンをサコッシュに替えてみた。

 

水筒と日傘もやめたので、熱中症対策はできてないけど、その2つが特に重かったことも事実。

サトイモという大きな大きな荷物を背負うために、自分の小さな荷物はあきらめた。

結果、大きなカバンがなくなると、意外と快適。