3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

お向かいのおばさんに辟易している話。

今朝、施設からデイサービスのお迎えが来て母を車に乗せる介助をしていると、私の姿を発見したお向かいのおばさんがやってきて、

「鹿がおるよ!」

と教えてくれた。

うちのあたりは山を崩して作った住宅地なのですぐそばが山なのだが、一匹の鹿が道路のぎりぎりそばまで姿を現していた。

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鹿が藪にまだ残っているタケノコを食べている様子は可愛らしくて、施設の若いスタッフさんと一緒に鹿見物をしてから母を送りだした。

 

車が出発した後、私は慌ててリフトを片付けて、逃げるように家の中に入った。

というのも、お向かいのおばさんにつかまらないためだ。

 

とにかく私はこのおばさんが苦手でしょうがない。

いわゆるおせっかいおばさんなんだけれども、他人の事情を考えずにしゃべりまくるうえ、話の要領が悪く滑舌も最悪なので何が言いたいのかさっぱりわからないのだ。

子供の頃からお付き合いのある人なら捉えどころもあるんだろうが、そこの家は私が大学で実家を出ているときに引っ越してきた家族なので、私にはいまだに馴染みが薄い。

 

一方母にとってそのおばさんは、私がいなくなって夫婦二人の寂しい生活の中でできた新しい友人であり、とても仲良くしていたようだ。

だからおばさんが気にかけてくれているのはありがたいのだが、どうしても感謝よりも迷惑な気持ちのほうが大きい。

 

まず、玄関の鍵が空いていると家に勝手に上がり込んでくる。

あるときなど、私がキッチンで食事の用意をしていたとき、

「おるか~?」

と声がかけられ、「は~い」と返事をしつつ、出て行こうと手を洗ってタオルで拭いたところ、振り返るとそのおばさんが立っていたので、悲鳴をあげそうになった。

腹立ちをこらえ、

「な、何か?」

と尋ねると、平然と冷蔵庫を開けようとするので、さすがにそれは制した。

「ふきのとう炊いたんやけど、お母さんに食べさせてあげて」

「あ…、あ、ありがとうございます」

「タッパーはあとで返してな」

それ以降、在宅していても絶対に鍵はかけるように注意している。

泥棒よりお向かいのおばさんに入られるほうがよっぽど怖い。

 

今日も、せっかく隠れるように家に戻ったのに、洗濯を干しているとうちの庭に侵入してきたおばさんを発見した。

鹿を喜んで見たせいで、調子に乗らせてしまったのだ。

「何か?」

ベランダから声をかけると、

「ちょっとちょっと、これ持ってきたんや」

とおばさんが、ビニール袋に入った何かを見せる。

「そんな、けっこうですよ」

「ええからええから。玄関開いとったら冷蔵庫入れとくけど」

「開いてません!」

私が明らかな塩対応をしても、おばさんは意に介さない。

庭をうろつき帰るそぶりがないので、しぶしぶ出て行った。

 

「蒸し器あるか?」

顔を見るなり蒸し器である。

「あると思いますけど…」

「これな、おこわ。蒸したらええから。蒸すだけでええから。あんた金曜日に帰ってきて大変やろ、これな、蒸して食べたらええから」

ビニール袋にはアルミホイルに包まれたボールが4つ。有無を言わさず手渡された。

 

おばさんは親切でよく手料理を差し入れしてくれる。

ただ、正直いって美味しくない。

こんなことを言うなんて、性悪だと思うし、申し訳ないことこの上ない。

けれど、食べ物に困っている時代ではないのだ。

蒸し器で蒸さなければならない手料理をいただくより、レンジでチンできるスーパーの冷凍食品のほうがよっぽど助かるし、味も安定している。

さほど美味しくないとわかっているおこわを、わざわざ食器棚から蒸し器を出してきて蒸さないといけないのか…、と思っただけでウンザリしてしまった。

 

ただ、おばさんはおこわを渡しただけでは帰ってくれない。

「うちの和歌山の実家の母は90やけど、もっとしっかりしとうで。弟の嫁さんが面倒みてくれとうからな…」

と和歌山の母の話が始まると、しばらくおしゃべりが終わらない。

単にご高齢のお母さんの話をするだけならいいのだけど、いちいち、うちの母と比較するところがイラつくのだ。

「まだ若いのに。もっと元気ださな」

と言うが、うちの母は病人なのだ。

病気じゃなかったらぴんぴんしているはずだ。当たり前だが。

あまり腹が立つので、和歌山の話をさえぎって、

「うちの母は大脳皮質基底核変性症という、10万人に2人の難病なんです。単なる老化と一緒にされると困ります」

と言ってやったが、

「ああそう。それでうちの弟の嫁さんもな」

と脈略もなくまたしゃべり続けたので、あきれてしまった。

 

ここまで書いてきて、私がこのおばさんの何が嫌なのか、ようやくわかった。

おせっかいやおしゃべり、図々しさが嫌いなのかと思っていたが、そうじゃない。

理屈や理論が通じないところなのだ。

 

実は、母がこの病気を発症した初期の頃、このおばさんに誘われてある集会にでかけたことがあった。

「拝んでもらったらあんたの手ぇも治るわ。私の甲状腺の病気もな、拝んでもらったら治ったんやから」

と言うのだ。(拝んでもらったからじゃなくて、病院に通って治したはずだが。)

集会自体は無料で、藁にもすがりたい母は誘われるままに出席したらしい。

 

私がそれを知ったのはずいぶんあとのことで、その時点で母は何回も集会に出席してしまっていた。

調べてみると、その集会は何とかの光という新興宗教団体だということがわかった。

出席に大反対する私と、行きたいと言う母の意見は対立し、大喧嘩になった。

母の言い分は、

「タダなんやからええやんか!お金がかかるようなことは絶対せえへん!」

ということであったが、何しろすでに認知症の症状が出ている人である。

何にお金をむしりとられるかわかったものじゃない。

すでに、集団で拝んでもらっても効き目が出ていないので、偉い先生に個別で拝んでもらったらどうか、とおばさんに言われているところだった。

もちろん、偉い先生に拝んでもらうには謝礼が発生する。

 

入会させられたり、何かを買わされないうちに早く離れなければ。 

しかし、断るにしても、なんて言って出席を断ればいいか…。

断固として拒絶するべきなんだろうけど、しょっちゅう顔を合わせるお向かいさんだけに、無下にできない。

それに、母とおばさんは仲良くしているのに、そのことで険悪にさせるのも可哀想だ。

ああ、まさにご近所トラブル!

 

そこで私が考えたのは、父に断ってもらうことだった。

父に、母とお向かいのおばさんが参加しているのは新興宗教の集会であることを伝え、誘われてもでかけないように、父から断ってもらえないかとお願いした。

父も集会には反対だったらしく、すんなり了承してくれた。(ただ、反対の理由は「これまで何回か出席しても効果が出てへんから」という驚くべきものだったが。)

 

その翌週、どうなったか父に尋ねると、

「誘いに来たから断ったで」

とあっさりと言った。

「どんなふうに?」

「『もう行かへん』て言うた」

「それだけ?『行かへん』って言うただけ?」

「それ以外に何があるんや」

「理由は聞かれへんかったん?」

「なんでて言われても、『なんでも』や」

「それだけで引き下がった?」

「『ふうん』、言うただけや」

 

このときほど、「KY最強!」と思ったことはない。

普段理屈が通用しない父が、ここではポジティブに作用した。

なんでも理屈で考えてしまう私などが、おばさんや父のようなKY軍団に勝てるわけがない。

KYにはKYで対抗すべし。

そうか、おこわも一言、「いらん」とだけ言えばよかったのかな。

あの物の名前を父はまだ知らない

母の日と父の誕生日は同じことが多く、いつも一緒にお祝いしている。

去年までは丁寧に、それぞれプレゼントを用意していたけれど、今年はなしにした。
もう母にはプレゼントを認識してもらえないし、父には台湾土産の老酒をあげたばかりだからだ。

それに、どんなにしてあげたところで、二人とも何も覚えちゃいないのだ。

プレゼントをしないかわりに、スーパーで買ったチーズケーキを食べてお祝いに代えた。

うちの家族はチーズケーキが大好きだ。
ただ、チーズケーキというのは難しくて、ベイクドチーズケーキやレアチーズケーキを買うと、
「これがチーズケーキ?」
と父に言われてしまう。

「なんか文句あんの?」
「いや、わからん。チーズケーキを知らんから」
「知らんって何よ?」
「チーズケーキなんか食べたことないもん」
「嘘つけ!」

父はときどき食べ物について、
「食べたことがない」
と言う。
「ほう、これがハンバーグか。初めて食べるな」
とか、
「これは何ていう料理?クリームシチュー?へぇ~、知らんかった」
とか、本気で言うのだ。

イヤミに聞こえて言われたこちらはムッとくる。
「どーせ私のクリームシチューは、クリームシチューとも呼べない代物ですよ!」
と。
しかし、父にそんな高度なイヤミを言える能力はない。
いつだって本気なのだ。
それで父は毎回、
「チーズケーキが食べてみたい。お父さん食べたことないからな」
と言っている。

認知症か?
いや、若い頃からこうだった気がする。
名前と実物を結びつける能力が著しく低いだけだ。(実は人名と顔も同様だったりする。)

昨日買ったのは正確にはチーズスフレだったけれど、そんな細かい違いを説明すると余計に父を混乱させるだけなので、チーズケーキということにしておいた。
チーズスフレは正解だった。
おかげさまで、母の飲み込みもよく、少し小さめに切り分けたピースをペロリとたいらげた。
歯が悪い父も、これなら噛まなくて大丈夫なので気に入ったようだった。
どうせ記憶に残らないなら、そのとき美味しいだけで十分幸せだ。

それにしても、最近の父の記憶力の低下はひどい。

金曜日に実家へ帰ったら、トイレにモップが立て掛けてあった。
トイレに充満する臭いにおい。
汚れた形跡がある床。
きっと、また父が漏らしてしまったにちがいない。
トイレまでやってきて、直前でチャックを下ろすのが間に合わなかったのだろう。

嫌だな、トイレだけじゃなく家中がまるで公衆便所みたいな臭いがする。
臭いが染み付いたモップを放り出し、消臭剤を振り撒き、洗剤をつけたトイレットペーパーで床をもう一度拭いた。

のちほど父に、
「トイレにモップが立て掛けてあったけど、どうしたん? 漏らして拭いたん?」
と優しく尋ねてみた。

「モップ? 知らんなぁ」
「知らんことないでしょ。よく思い出してごらん。家にはお父さんしかおらんのやから」
「それもそうやな。でも記憶にないなぁ」

最近、私が家にいるときに父が漏らすことはなくなった。
それなのに漏らしたということは、お酒に酔っていた可能性も高い。
酔って記憶を失っていることもありえるので、とにかく、モップを片付けたことを伝え、記憶をなくすまで飲まないように、と注意した。

「汚したのをほっとかずにモップで拭いたのはえらかったと思う。でも、欲を言えばモップじゃなくて雑巾にしてくれたらもっとよかったかな。もうあのモップは捨てなあかんわ。お父さんのおしっこで汚くなったから」
と、穏やかな口調ながらも、私はまだグズグズ文句を続けた。
父はすねるでもなく、
「モップなんか知らんで。覚えがないわ」
と罪状を認めない。

ふと、
「もしかして、お父さんモップがどういうものか知らんのと違う?」
「知っとうで。便器をこするやつやろ?」
「違うわ!!!」

結局、話は噛み合わないまま、トイレの中は臭いまま。

『牯嶺街少年殺人事件』の少女は孤独だった。

大学の勉強なんて意味がない、なんてことを言う人がいるけれど、私はそうは思わない。

どんなものでも使いよう。

大学の講義だってそうで、今でも印象に残っている講義のひとつは「芸術論」である。

友達が誘ってくれて受講した講義だった。

 

大学時代の私の履修表は、必修科目と教職免許用の科目でギチギチ。

講義は選ぶというより、単位を取らないといけないものを必然的に取っているだけだった。

けれど、その友達は、

「この授業、面白そうだから一緒に取らない?」

と、まるで映画でも選ぶように履修科目を選んでいた。

そのせいで逆に彼女は必修科目の履修が危なかったけれど、学びたいことを学ぶ、という点で彼女の履修方法のほうが正しいと、今では思う。

「芸術論」はその最たるもので、日本文学科の私たちには受けても受けなくてもいい講義だった。

彼女に誘われるまで、私はその講義の存在も、そんな学問があることすら知らなかった。

 

その学期の「芸術論」のテーマは第七芸術、つまり映画だった。

 

戦艦ポチョムキン』や『市民ケーン』など映画のシーンを見ながら、モンタージュやクローズアップ、光と影の使い方など、その半年間で映画に使われる技法を体系的に教えてもらった。

フェリーニゴダールみたいにアングラ・サブカルな映画監督はそれまでにも知っていたけど、イングマール・ベルイマンエリック・ロメールはその講義で初めて知った。

 

そしてロングショットの傑作として紹介されたのが、『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』だった。

「3時間もある長編なので見るのは大変ですが、人生の中で絶対に見ておかないといけない映画のひとつです」

担当の教授がそう言ったのをよく覚えている。先生の名前は忘れたけど。

 

その後、レンタルビデオ店でこの映画を借りた。

当時はまだDVDではなくてVHSで、しかも長いから1本に入りきらずに2本組だったと記憶している。

ところが、その長い映画を見ていると、途中でついつい眠ってしまうのだ。

何度トライしても寝てしまううちに一週間が来て、最後まで見れずじまいで返却してしまった。

 

『牯嶺街少年殺人事件』はいつか見なきゃいけない映画のストックに入ったまま年月は流れていったのだけど、とうとう4Kレストア・デジタルリマスター版が元町映画館で上映されることになった。

www.bitters.co.jp

 

ちょうどいいことに、元町映画館のスタンプカードがたまったところだった。

スタンプが5つたまったら、1回無料で映画が見られるのだ。

だったらこれで決まり!と、喜び勇んで元町映画館に行ったのが先週の火曜日。

退社が遅くなったので走って映画館に向かい、上映開始時間ぎりぎりに到着した。

 

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「スタンプカードがたまったので、これで!」

と息を切らしながら差し出す私に、

「特別上映になっていますので、スタンプカード適用外なんです」

とムゴイ返答が。

「火曜日はレディースデーで1,100円ですよね?」

「いえ、それも適用外なんです。当日2,200円になります」

「えっ!?!2,200円!?」

「4時間近くあるんで」

「上映時間の長さですか?!?」

 

記憶では3時間ちょっとの作品だったと思ったけど、どうやらレストアされてさらに長くなっているらしい。

それにしても、長いから高いなんて!!

わかるけど、映画ってそういうもんなの!?

 

20年以上の期間を経て、ようやく全編を通して見ることができた『牯嶺街少年殺人事件』。

自分でも驚いたのは、「芸術論」で見たつもりの、少年が少女を刺すシーンが記憶と違っていたことだ。

刺すまでを長回しにしている昼間のシーンだったと思っていたのだけど、全くの記憶違いだった。だとしたら私は何の映画と勘違いしていたんだろう?(長回しのロングショットで少年が少女を刺すシーンがある映画。わかる方がいたら教えてください。)

ほんと、私の脳は嘘ばっかり。

 

今回はあらかじめ眠気覚ましの薬を飲んでいたので、バッチリ覚醒状態で鑑賞できた。

でも、若い私が眠くなったのもよくわかる。

登場人物が複雑で、台湾に関する基礎知識がないと混乱するような部分が少なくないからだ。

中国語を勉強したり台湾のことを知ったりしたから今では理解できることもあるけれど、学生時代の私では全くわからなかったはずだ。

 

例えば、主人公の名前は張震(俳優の名前そのまま!)だけれど、みんなからは愛称で「小四」と呼ばれている。

これだけで「ああ、この子は兄弟の中で4番目なんだな」とわかるけれど、知識がなければなんで張震=小四なのかわからないだろう。

同じ仕組みで、お兄さんは「老二」と呼ばれていて、上から2番目。

「老」はビッグブラザー、「小」はリトルブラザーという意味なのだ。

老二がビリヤード場に行ったときに、「この若造が『老二』?」と笑われるシーンがあるけれど、それをからかわれているのである。

 

あと、名前ということでいうと、バンドのヴォーカルをしている友達の王茂が小猫王と呼ばれていたっけ。

「猫王」はエルヴィス・プレスリーのことだから、「小猫王」はリトル・エルヴィス。

ただ、発音すると王茂は「ワン・マオ」、「猫王」は「マオワン」だから、発音が似ていることの遊びも入っているんだと思う。

 

また、昔の私に教えてあげたい重要要素は、当時の台湾の歴史的背景と、「外省人」と「内省人」の問題だ。

当時の台湾と日本と中国の関係を知らなかったら、彼らがなぜ日本風家屋に住んでいるか、とか、お父さんがなぜ尋問を受けたのか、とか、そのあたりがわからずにムニャムニャと夢の世界に入ってしまうに違いない。

少年が少女を刺すナイフは、小猫王が自分の家の屋根裏で見つけたものだった。

それが、かつての住人だった日本人の、「日本の女が自決をするための小刀」だったということに意味がある。

 

この映画は人によって良いと思う部分が違うような気がするけれど、私はどうしたって被害者の少女・小明のことを考えてしまう。

少年たちと違って、彼女は女友達もいなさそうだし、母子家庭(←たぶん)なうえ母親が病気という家庭環境だ。

楽団の演奏を背景にして、小四が彼女に「君を守る」と宣言するシーンは本当に甘酸っぱい素敵なシーンだけれど、人生に冷めている彼女にしてみたら、鼻で笑ってしまうような子供の世迷言だったに違いない。

 

刺される直前、彼女は小四にこう言う。

「私を変える? この社会と同じ、何も変えられないのよ」

 

彼女の孤独を誰もわかってあげられないまま、彼女は逝ってしまった。

たくさんの男性が異性として彼女に好意を寄せたけれど、彼女の理解者は一人もいなかった。ハニーでさえ。

小四は彼女のことを愛したかもしれないけれど、そんなのは小四の勝手であって、小明は知ったこっちゃない。

その証拠に、小四は何度か「自分勝手」だと言われている。

自分が好きなことで精一杯で、小明が持っている世界が見えていなかったからだ。

ま、少年には無理だと思う。

彼女が医者や少年たちと性的にどこまで何をしていたかは明らかではないけれど、彼女の身体を手に入れたとしても、彼女の心を手に入れた人は誰もいなかったはずだ。

 

映画を反芻すればするほど、

「僕は君の希望になる」

と言った小四の言葉が虚しく響く。

小明はきっと、「なれるわけないじゃん」と寂しく思ったに違いない。

小四が一生懸命になればなるほど、小明は冷めたに違いない。

「簡単にそんなことを口にできる子供に、いったい何ができるの?」と。

小明の気持ちは、ほとんど語られないし説明もないので、これは私の勝手な想像でしかないけれど、少年と少女は全く異なる生き物だということだけは当たっているはずだ。

 

そうそう、思い出した。

昔、睡眠学習で夢うつつにこの映画を見たときに唯一得た教訓は、

「モテすぎると刺される」

だった。

少女の皆さんに、この教訓は今でも通用すると思う。

ライブと束縛

長年通っている整体師さんとは、施術の最中にいろんな話をする。

身体の不調は日ごろの生活習慣からやって来るので、どうしてもどんな状況か話すことになり、介護の話や趣味の話を洗いざらいしゃべってしまう。

ライブの度に身体がガタガタになっている私を、整体師さんは非難するわけでもなく、

「それは遊びすぎやで~」

と笑ってくれる。

 

でもあるとき、

「うちの嫁さんも、こないだ浜田省吾のライブに行きたいっていうから行かしてやったよ」

と言うので、

「『行かしてやった』って!許可がいるんですか!」

と、驚いた。

「だって、チケットは僕が買うてあげたんやもん」

まめな整体師さんが、奥さんのためにネットでチケットを手配し、代金も支払ったらしい。

まあ、それなら「行かしてやった」も、それほど変な言葉とは言えないかもしれない。

 

でも、それなら「チケットを買うてあげた」である。

「行かしてやった」というのは意識の問題で、どこかで妻が遊びに出かけるのに、夫の許可がいるようなニュアンスを感じるのだった。

整体師さんが、ものすごく愛妻家で奥様のことが大好きなのを知っているので、

「ライブに行くのに許可がいるなんて、それは束縛ですよ~」

と半分非難し、半分茶化した。

 

夫であれ妻であれ、夫婦というのは束縛しあって生きているように見える。

自分の時間くらい、自分の好きなように過ごさせてほしい私は、結婚なんてまっぴらごめん、と思わざるをえない。

 

しかし、結婚していなかったら束縛されないか、というと、恋人でも変わりはない。

金銭の問題と、世間的な思い込みがある分、婚姻関係のほうが束縛度が強いだけだ。

 

台湾から帰ってきた翌日、5月6日土曜日の夜、大槻ケンヂ「いつか春の日のどっかの町へ」ツアー大阪公演のために南堀江Knaveへ行った。

友達が良いチケットを取ってくれたおかげで、なんと久々に最前列。

間近でオーケンを見れる至福の時間を過ごすことができたうえ、なんとお手紙を直接手渡すこともできた。(神戸でもそうだったけど、今回のツアーではお手紙とプレゼントの回収タイムがあったのだ。何よりのファンサービス。)

 

ゴールデンウィークは5連休。

だけど、お母さんの介護があるからと、彼氏との台湾旅行は2泊3日で帰ってきた。

それなのに、翌日にオーケンに会いに行く私。

さすがに、彼氏には言えなかった。

 

5月11日木曜日の夜は、筋肉少女帯のベーシスト、内田雄一郎が出る「ビートサーファーズサミット」というライブを見に、北堀江Club Vijionへ行った。

これはさすがに彼氏に話したけれど、やはり面白くなさそうな反応だった。

自分は毎日たくさんの仕事を抱えて出張や残業をし、ひどい肩こりで頭痛がしても病院にも行けないでいるのに、私が遊びまわっているのですねているのだ。

気の毒だとは思うけれど、どうしようもない。

 

ふと、これが夫婦だったらもっと険悪になっていたんじゃないかな、と思う。

生活が別々だから許容できるんであって、一緒に暮らしていてすれ違っていたら、もっと寂しく感じるに違いない。

 

そんなとき、オシドリ夫婦で有名だった画家の池田満寿夫が亡くなったときの佐藤陽子のコメントを思い出す。(思い出すといっても、うろ覚えだけど。)

それは、「二人でいても寂しい夫婦だってあるけれど、私たちは一人でいるときさえ楽しい夫婦だった」というようなコメントで、これは「孤独」というものの本質を語っている気がする。

寂しさというのは、物理的にそばにいるかどうかではない。

 

でも、私がオーケンのライブに行ってたって知ったら、彼氏は寂しがるだろうなぁ。

ごめんなさい。でも、内緒ね。

GWは台北へ

金曜日に実家に戻り、土日を過ごし、月曜日から出勤して神戸生活に戻る。
それが私の1週間である。

そのルーティンの中に、祝日は入っていない。
というか、入れないことにしている。

何事も「基本ルールを決める」のは大切で、それがないと、無理して頑張ったりズルズルさぼったりしてしまう。
介護なんて特に、頑張ろうと思えばやることは山ほどあるし、サボろうと思えばどこまでもサボれる。
前者は自分を追い込むし、後者は母の健やかさを損ねてしまう。

折り合いをつけるには、「とりあえずそういうルールにしとく」程度がよい、と思っている。
長引く介護生活と付き合うための、私なりの知恵だ。

2017年のはじめにカレンダーを見たとき、ゴールデンウィークに水木金の連休があるのに気付いた。
これ、自分ルールを変えずに旅行いけちゃうんじゃない?!?!

じゃあ、海外に行こう!

という話になって、彼氏と台北へ行くことにした。ていうか、行ってきた。

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二泊三日、それも金曜の夕方に母が戻ってくるまでに帰ってくる弾丸ツアーだった。
飛行機は1月に彼氏が予約しておいてくれたので、LCCなうえに時期が早いから超格安で行けた。
宿も、彼氏がアジアのホテルサイトから安くてキレイなホテルを見つけてきてくれた。
こういうとき、旅慣れている彼氏は頼もしい。

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海外旅行は6年ぶり。
彼氏が長期出張で滞在していた中国の江蘇省へ遊びに行ったとき以来だ。

江蘇省への旅行は行き帰りが一人旅だったこともあり、とても思い出深い旅だったが、それ以外でも強く記憶に残っているのは、その直前に母の介護認定を受ける段取りをしていたことだ。

「では、シルバーウィークに調査員が訪問するのでいかがですか? 娘さんが同席されるなら、お休みの日がいいでしょう?」
と打診され、
「ごめんなさい、あのぅ、シルバーウィークは旅行の予定がありまして」
と答えるのが本当に申し訳なかったからだ。

その頃は、母の左手がかなり動かなくなっていた時期だ。
特にお風呂に入るのに介助が必要になってきており、湯船につかるくらいは一人でできるけれど、片手だと洗うのが困難で、特にシャンプーができなかった。
毎週末、私が母と一緒にお風呂に入って、母の髪と身体を洗ってあげていた。

そんなこともあり、介護認定がどういうものかさっぱりわからないまま、
「早めに受けとこうか」
と、「とりあえず」な気持ちで町の居宅介護支援事業所に連絡したのが、旅行の10日前くらいだったか。

中国から戻ってくると手続きはすっかり終わっていた。
父と母の二人で対応していたので、
「低めに出るかもしれないなぁ。要支援でも仕方ないかぁ」
と思っていたら、出た認定は「要介護2」だった。
「もっと早めに連絡いただいてもよかったのに。ご家族で頑張られてたんですね」
と、ケアマネさんに言われたので、びっくりした。
自分たちの感覚では、「この程度で他人様を頼るんじゃないよ」くらいの感じだろうと思っていたのだ。

あれから6年。
おかげさまで、たくさんの人にお世話になって、母もまだ生きているし、私は今年台湾旅行まで行けている。
ありがたいものだ。

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台湾は、台北を拠点に淡水と九份に行った。

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夜は士林夜市と臨江夜市へ。

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いずれも観光地で、どこへ行っても日本人がたくさん。
食べ物も日本人の口に合うものばかり。

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強いて日本にないものと言えば、臭豆腐くらいだろう。
嫌いな食べ物はない、と答えている私だけれど、これまで唯一、食べられなかったのが臭豆腐だ。
臭いの強烈さにオーダーできなかった食わず嫌い。
それを今回、彼氏が、
「絶対食べさせる!」
というので、しぶしぶチャレンジしてみた。
あまりの臭さに口に入れたら吐くかもしれないと思っていたけれど、食べてみたら普通の揚げ豆腐みたいなものだった。
「一度食べれば病み付きに!」
という話も聞くが、好きにも嫌いにもならず。
とびきり不味いか、とびきり美味しいか、どっちかだと思っていただけに残念。

すべてにおいて、システムが違うだけで、文化の違いがほとんどない。
コンビニはセブンイレブンファミリーマートがほとんどを占め、そこで売られているコカ・コーラは『進撃の巨人』ボトル。

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テレビをつければ、子供向けチャンネルでは延々と『ちびまる子ちゃん』の放送。
駅で貼り出されているのは日本人タレントの看板。
街には日本製品が氾濫していて、まるで海外にいる感覚がなかった。
うれしいような、さみしいような。

旅の間、彼氏としょっちゅう、
「ちゃんとしてる!キレイ!中国やったらこうはいかへんで」
と言い合った。
路線バスの中でも、みんなマナーよく、うるさく騒ぐ人もいなければ、飲食禁止なので床にゴミもない。
ついつい、日本ではなく中国と比較してしまう。
「中国のバスやったら、バナナの皮が落ちとうからな。カップ麺食べとう奴もおるし。その汁を窓から平気で捨てるんやから」
なぜか、嫌だ嫌だといいつつ、中国のひどい話を懐かしそうに話す彼氏。

旅の中で一番印象深かったのは、MRTの中で出会ったおじいさんだ。
「日本の方ですか?」
と日本語で話しかけてくれた。
なまりのない完璧な日本語。
知的で気品のある老紳士だった。
おじいさんが降りる駅まで、台湾のことや、ご家族の話などを三人でしばらくおしゃべりした。

「私が二十歳のときに終戦を迎えましてね。それまで日本語の教育を受けたから。私は海軍だったんですよ」
とおじいさんは言った。
私たちはそれに対して、
「へえ、そうなんですね」
としか返せなかった。

よその国の統治下で、よその国の言語を教えられ、よその国の軍隊に入る、ということに対して、その当事国の私たちがどう反応すればいいかわからなかったのだ。

おじいさんが「海軍だったんですよ」と誇らしげに言った様子から、決して悪いように思っていないのはわかる。
けれど、それに甘えていいのか、わからない。
申し訳ない、と思っていいのか、わからない。
ありがとう、ご苦労様でした、と思っていいのか、わからない。

たった70年ちょっと前のことなのに、戦争時代はあまりに遠い。
旅行に出ると気づくのは、平面的な距離はどんどん近くなっているのに、時間軸はどんどん遠くなっていることだ。
台湾の歴史を勉強しなきゃ。
近い国なのに、あまりに知らない。
知らないということに気がついただけ、よかった。

つるばらが咲いた。

玄関先でつるばらが咲いた。
毎年、5月になると小さな黄色い花が群れて咲き、目を楽しませてくれる。

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この花、お向かいの庭でも2件隣の庭でも咲いている。
おそらく、2件隣の奥さんが株分けしてくれたに違いない。

手入れが行き届いて立派に剪定されているご近所と違って、うちの庭はジャングルである。
木々は勝手に伸び放題、雑草は生え放題、虫はたかり放題だ。

先週、つるばらのつぼみをたくさん発見したので、もうすぐ咲くかな、と楽しみに眺めたら、うじゃうじゃとアブラムシがついていてゾッとした。
蟻までが、せわしそうにそのアブラムシの世話をして回っている。

目についたところだけでも、と、アブラムシがついている枝を切って排除し、殺虫剤(といってもハエ・蚊用)をかけてみた。
しかし、1日そんな程度のことをしたところで、ヤツらはいなくなってくれないだろう。

父に、
「アブラムシがひどいよ!」
と訴えたが、
「てんとう虫が来て食べてくれるんちゃうか」
と呑気なものだった。
自然に任せるにもほどがある。

もともと、庭は母のテリトリーだった。
花が好きだったから、よく花を植えていた。
季節の花だけじゃなくハーブを植えたりするような、ありがちな園芸好き主婦だった。

それが、少しずつ、ゆっくりと狂っていった。

梅雨どきになると母は毎晩、懐中電灯と割り箸を持って庭を徘徊するようになった。
ネスレゴールドブレンドの空き瓶に塩水を入れ、その中にナメクジを入れるのだ。
ナメクジは小さく小さく溶けて、塩漬けになる。
害虫退治も庭の手入れの一環だが、瓶いっぱいに詰まったナメクジを捨てもせずに、
「こんなに獲れた!」
と喜んでいる様子は、どこか普通ではなくなっていた。

やがて母の趣味は、庭に穴を掘って生ゴミや落ち葉を埋めることに行き着いた。
毎日毎晩、母はスコップで穴を掘った。
「生ゴミも減るし、庭の草木の肥料になるし、一石二鳥」
と、本人は言った。
確かに間違ってはいない。
しかし、朝から晩まで、家事もほとんどせずに没頭するのは、やはりどうかしていた。

なんかおかしい、というのは、行動というより程度の問題だ。
だから、決定的な判断ができない。
「なんか、おかしい」
家族のその勘は当たっているはずなんだけど、緩やかに蝕んでくるそれに、対処する術がない。

母の、「ゴミを捨てたくない、有効利用したい」という意識は他にも表れ、植木鉢のかわりにカップ麺の容器を使うようになった。
「貧乏くさいからやめてよ」
と注意する私に、
「家を出ていったあんたに言う権利なんかない!」
と母は狂ったように怒った。

そうなると、庭は手入れされてるのか荒らされているのか、わからない状態になっていった。
花を愛でてきた庭が、ナメクジを狩り、穴を掘るための場所になっていたのだ。

それは、母の左手がうまく動かなくなっていった時期と重なる。
母の脳の中で何かが起きていたのだ。

今振り返ると、
「あれは完全におかしかったな」
とわかるけれど、当時それが脳の病気だと知っていたとして、何ができただろうか。

主を失った庭は、今や野生そのものである。
再び、大量のナメクジが大きな顔をして跋扈している。
誰も水を撒かないので、生き残っているのは雨水だけでも枯れない草木だけ。
完全なる弱肉強食の世界。

そんな状況でもつるばらは強い。
立派にたくさんの花を咲かす。
小さな黄色い花は、私に勇気をくれる。

宮沢さんへの手紙 ~やっと刊行された『ニッポン戦後サブカルチャー史 深掘り進化論』

『ニッポン戦後サブカルチャー史 深掘り進化論』の書籍がようやく刊行された。

もともとはNHKのテレビ番組で、『ニッポン戦後サブカルチャー史』の第2弾『DIG深掘り進化論』として2015年に放送されたものだ。

 

NHK ニッポン戦後サブカルチャー史 深掘り進化論

NHK ニッポン戦後サブカルチャー史 深掘り進化論

サブカルチャー史に深い興味があるので誰が講師であろうと見るし読むのだけど、宮沢章夫さんが講師なのだから私の真剣度は増すばかりである。

もともと私は宮沢章夫さんのファンだったが、ファンになった当時の宮沢さんはエッセイストであり演劇人であって、サブカルチャーを語る人ではなかった。

いつの間にかサブカルチャー論者みたいになってしまって、それがまた私を夢中にさせてしょうがない。

 

テレビ放送の1回目のテーマは「不思議の国の『女子高生』」だった。(本のほうは「ニッポン女子高生史」となっている。)

放送終了後、私の頭がグルグル回りはじめ、そうだ、宮沢さんに感想をメールしよう!と下書きに保存したものの、結局タイミングを逃して送らずじまいになったものがあった。

書籍化されたらそのときに送ればいいや、と思ったけれど、それから1年半も時間が経ってしまった。

何しろ2015年10月だ。

保存していたメールの下書きはこんなだった。

 

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宮沢章夫

 

ご無沙汰しております。

関西のワークショップでかつてお世話になった波野なみ松です。

ご活躍はいつも拝見しております。

NHKのニッポン戦後サブカルチャー史は1も2も大変興味深く、いろんなことを考えさせられました。

私は1975年生まれです。ベトナム戦争終結し、寺山修二が市街劇『ノック』を上演し、大瀧詠一が『NAIAGARA MOON』をリリースした年であります。

1995年、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件があった年に20歳になって、テレビでは『新世紀エヴァンゲリオン』が放送され、劇場では『攻殻機動隊』が上映された年でした。

なので、これまでずっと、私はサブカルチャーとともに育ち、歳を重ねてきた人間だと思っています。

前回の放送もそうでしたが第2シリーズのDIGも、良い再確認と再発見の機会になりました。

特に女子高生の回は、最近私が考えていて答えがでなかったことに、ヒントをいただきました。

というのが、最近政府が言っている「一億総活躍社会」「女性の活用」という言葉についてです。

正直、これらの言葉に対しては、

「おまえらの思ってるような活躍なんてしたくねーよ!利用されてたまるか!」

という、腹立たしさしか感じません。

なぜこんなにムカつくのだろう、とずっと考えておりました。

それが、橋本治桃尻娘」の紹介のとき、それについての答えをもらった気がしたのです。

 

あたしは絶対そんな役に立つ物になんかになりたくないんだ。あたしは唯の“実用品”になんかなりたくないんだ。

 

「実用品」というのが、すごくピンときたんです。

社会(もっというと男性社会)が望んでいる実用品にはなりたくない、ということです。

とはいっても、大人になって社会に出ると、否応なく実用品にされてしまうところがあります。

働き手としてもそうでしょうし、「子を産む機械」としてもそうでしょう。

それに対して「女子高生」という存在は、大人&男性社会に対する最も対照的なカウンターなんじゃないかと思いました。

私は自分がアングラサブカル者になってしまった経緯をずっと模索しつづけてきたんですが、自分がなぜ弱者に共感し、権力に対して強いルサンチマンを抱いているのか、自分で自分のことが不思議でした。いじめられたこともないし、大きく挫折したこともないし、何だろうと。

ただ、ここにきてふと思うのは、女性であるだけで、やはり男性社会で「ほのかな」差別を受け続けてきたということです。

男性社会に「負けない」ようにしようとすると、同じベクトルで、同じ土俵で戦うことになるんですけど、それもどうも違う気がするのです。

「実用品」としてどれだけ生産性があって効率的で成果があるか、評価されること自体を拒むかんじ。

それがサブカルチャーじゃないかと

 

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メールの下書きはそのあたりまで書いて、まとまりがつかなくなってやめていた。

 

ふと、ロリータファッションについてよくオーケンが描写していた「不必要にひらひらがついた服」という表現を思い出した。

「不必要に」ということがポイントだ。

赤瀬川原平トマソンにしても、みうらじゅんの「いやげもの」「カスハガ」「とんまつり」にしても、世の中にとって必要ないもの、特に価値がないように思われるものだ。

書籍の「第5章 ヘタうま―アートと初期衝動」で都築響一が、メインの側にいる人たちが自分たちの文脈に沿った表現として捉えられなければ「サブ」として扱ってきた、と論じているが、それも「役に立つ」かどうか、実用的かどうかで判断されているところが大きいような気がする。

 

去年からブログを始めて1年と1月が過ぎた。

「何のために書いているのか」と問われると、とりあえず備忘録と言っているけれど、答えがあってないようなところがある。

でも、役になんて立たなくていい。実用的な文章は誰かにまかせよう。

ときどき、何の生産性もない自分の人生の意味を考えることがあるけれど、それもまた愚問。

そうか、だから「でもやるんだよ!」ってことなんだ。