スマホをなくしただけだけど。
緊急事態宣言が解除されるだろうと言われていた月曜日の午後、近所の公園に遊びに行った。
カーブのすべり台がある小さな公園で、サトイモはいつもそこで走り回って遊ぶ。
サトイモは何回かすべったあとで、
「ママ~!あし!あし!ここ!」
と私の足を持ってすべり台の段を上がらせようとした。
「えっ?ママもすべるの?」
最初にすべり台をすべったのは半年ほど前だっただろうか。
子どもを持つなんて想定してなかったから、まさか人生で再びすべり台をすべるとは思っていなかった。
すべり台には30年以上ブランクがある。すごく怖かった。
小さな子が平気ですべっているすべり台でも、体がきしむかと思った。
今はもう慣れっこになったので、多少ぎこちないものの、たいていのすべり台ならすべってみせる。
サトイモに「あし!あし!」をやられて、この日は3回、すべり台をすべった。
小さなすべり台なので、ポシェットがやたらひっかかるのが気になりながら。
ないないといいつつ、ほんとはあるんでしょ?
スマホが見当たらない、と気が付いたのは、17時頃だった。
公園のあとスーパーに行って、家に帰ったら手を洗っておやつ。食べ終わったらママママとまとわりつくのでチラシをビリビリ破く遊びを一緒にし、油断していたらサトイモがウンチをもらし、ズボンを洗濯したうえ、少し早いけど仕方ないからもうお風呂に入れちゃえと入浴させ、さあ、夕食の準備をするか、という段になった。
家事をするときにはいつもスマホでラジオ番組を聴く。
家の中で置きそうな場所をいくら探してもスマホがない。
はは、いやいや冗談でしょ。
もしかして、サトイモがどっか隠してるんじゃないの?
「ママのスマホ知らない?」
返事をしないのを知っていても尋ねてみる。
普段、私のスマホは決して触らせないようにしているから、もしサトイモが手に取ったなら隠すどころかいじりたおしてずっと手に持っているはず。
「ほな違うか~」
ミルクボーイの内海くんのごとくつぶやいてみたけれど、事は深刻である。
この日はオーケンの弾き語りライブのツイキャス配信があるのだ。
コロナ禍によってすっかりデジタル化が進み、精力的に配信活動に取り組むオーケンの初の弾き語りライブ。
スマホがなくてどうするどうする?!
不安に駆られながら、PCを出した。
もともとスマホより大きな画面で見たいからPCで見るつもりはしていたものの、やはり見慣れないノートPCが出てくるとサトイモが触りたがってばぶばぶ騒ぎ出す。
ばぶばぶをいなしつつ、こういうときのために買ったワイヤレスイヤホンをこっそり耳に装着して、ライブ配信を見終える。
子どもが騒ぐうえ、スマホがないという不安な気持ちの中で見るオーケンのライブは普段の半分くらいしか楽しめなかった…。
サトイモを寝かしつけたあと、再度ソファの下に至るまで家中を捜索し、夫に電話をかけてもらったり、GPSによる位置情報捜索サービスを使ったりしたものの、電源が入っていないようで役に立たず。
落ち着いて探せばどっかから出てくるにちがいない、とタカをくくっていた私が、ようやくヤバいと思い始める。
こうなると、心当たりは公園のすべり台である。
不安で眠れないかと思ったが、自分でも驚くほど普通に眠れた。
なんとなく、自分のスマホは出てくる気がする。根拠はないけど。
ただ、こんな夢を見た。
自分が天童よしみの物まね芸人で、天才ピアニストますみの上沼恵美子くらいそっくりだったはずなのに、出番直前になってなぜか全然似ていない。どうしようどうしよう、なんとか頑張って二重あごだけは作れた!顔は似てないけど、二重あごでいける!という夢を見た。
目覚めてから、天童よしみは二重あごだっただろうか?と首をかしげた。
うっかり遠出をするはめに
翌朝、スマホを探しに公園へ。
すべり台付近には見当たらない。
いつも植込みの手入れをしている管理人のおじいさんがいたので、念のため尋ねてみたら、無愛想にこう言われた。
「スマホなんか、落としたらもうないでしょ。悪用されることもあるんやから、こんなとこで探してないで、はよ届けたほうがええで」
「そうですかすみません」
としおらしく言ったものの、心の中では「んなこたわかっとるわい糞爺め」と舌打ちした。
公園で遊びたがるサトイモを、
「交番にパトカー見に行こうか」
と無理やり引っ張って一番近い交番へ行く。
パトカーはなく、中にも誰もいない。
よく考えたら、交番に入るのは人生初である。
恐る恐る無人の交番に入る。
電話機があって、不在のときにかける警察署の電話番号が書かれていた。
電話に出てくれた人にスマホを落とした旨を伝えると、落とし物係につながる。
その間、サトイモが無人の交番の中を歩き回り、コマがついた回転イスを移動させ、引き出しを触ろうとしている。
「やめなさい!」「そんなとこ触らない!」
電話の合間にちょくちょく叱りつけないといけないので忙しい。
優しい落とし物係の女性によると、私のスマホらしい落とし物が、まさにこの交番に届いていたという。
拾われた場所はやはりあの公園だ。
「落とし物なんですが、実は今引継ぎの時間で、交番から本署へ届けられている真っ最中なんですよ」
一足遅かったのか…!
「こちらに到着後そちらへ電話しますから、あと20分くらいそこで待てますか?」
と言われているとき、サトイモは冷房の効いていない交番の暑さにいら立ってギャーギャー泣きわめいていた。
「20分あればそちらに着くと思うので、ダメもとで電話を待たずにそちらへ行っていいですか?」
と尋ねれば、
「もしあなたのスマホでなかったら無駄足になりますが、大丈夫ですか?」
とどこまでも優しい。
生田警察署落とし物係、市民の味方や~(泣)
歩いていたら、目の前のバス停にバスが来た。
警察署まで、大人の足ではたいしたことないけど、サトイモを連れてはずいぶんしんどいなぁと思っていたので、渡りに船と乗り込んだ。
緊急事態宣言が解除されたといっても、乗っているのは5人程度。
間隔をあけて後ろの席に座る。
潔癖症の夫に言ったら怒るだろうけど、サトイモが押したがるので降車ボタンを押させた。
お出かけ用のアルコールジェルを使ったから大丈夫だろう。
窓の外の風景を見ながら、私は、
「ちゃんと拾って届けてくれた親切な人がいるんだなぁ。どんな人だろう。お礼をしなきゃなぁ。どれくらい謝礼を包めばいいんだろう?現金だけじゃなくて菓子折りとか添えたほうがいいかなぁ」
なんてことを考えていた。
交番も初めてなら、生田警察署に来たのも初めてである。
思っていたより狭くて暗いとこなんだなぁ、とじめじめした気分で落とし物係へ行く。
落とし物係だけ、区役所みたいにちょっと明るい。
「交番から電話した者ですが…」
と言うと、おそらく電話に出てくれた優しいお姉さんがスマホを持って出てきてくれた。
なんと、充電までしてくれている!!
「これですこれです!私のです!」
画面を見ると、ロック画面は紛れもない特攻服姿のオーケン。
「ロックを解除してくれますか?」
とお姉さん。
ロックが解除できるというのが、本人証明の一環であるようだった。
交番で電話をしたとき、スマホの特徴を聞かれた。
「ステッカーを貼ってあるなど何かありますか?」
カバーもしていないし、シールもステッカーもなかった。
なんの特徴もないなぁ、と思っていたが、今思えば、
「電源入れたら大槻ケンヂが出てきます!」
と言えばよかった。
あ、でもダメだ、若いお姉さんだとオーケン知らないかもなぁ…。
「拾ってくれた方への謝礼なんですが…」
と尋ねると、お姉さんは書類を見て、
「拾ってくれたのは小学生ですね。お礼は…、必要ないみたいです!」
と明るく言う。
不慣れだし世間がわからないので、「そうですか」と言うしかなかった。
受け取りの書類を書いていると、サトイモが私の足に抱きついて泣き出した。
サトイモとはいろんなところに出かけている。
場所見知りや人見知りすることがほとんどなく、区役所、図書館、お店などで私が手続きしている間でも泣くことはほとんどない。
「何?何?なんで泣いてるの?」
とびっくりしてしまった。
ただ、よく考えてみると、コロナで長い期間外出自粛していたわけで、いきなり外へ出たと思ったら重苦しい警察署というのはキツかったに違いない。
それでも、お姉さんがバイバイしてくれると、サトイモもすっかり泣き止んでバイバイできた。
「ありがとうございました。お世話になりました」
と頭を下げる私と、みんなにバイバイするサトイモ。
「かわいい~」
落とし物係の皆さんが顔を上げて笑顔で手を振ってくれた。
警察署の向かいに、藤原紀香と陣内智則が結婚式をしたことで有名な生田神社がある。
せっかくだから、感謝の気持ちを生田さんに伝えて行くか、とお参りをする。
コロナ前の平日、どれくらいの人出だったか知らないが、境内にはほとんど人がいなくて驚いた。
疫病退散のお札も売っているという。
数日前だったら買ったかもしれないけれど、もうそんな気分ではない。
欲しいのは「まぬけ退散」「うっかり退散」のお札。
サトイモと神社の奥にある「生田の森」で遊ぶ。
真ん中にチョロチョロしたせせらぎがあって、枯れ葉が流れるのを追いかけた。
蚊が飛んできたので慌てて場所を移そうとしたが、サトイモがダダをこねていつまでも停留する。
案の定サトイモはおでこを刺されてしまった。
感謝の気持ちは伝わるかな?
翌日、公園のすべり台に貼り紙をした。
落とし物係のお姉さんに、どうしてもっと拾ってくれた子のことを尋ねなかったんだろう?
拾ってくれた小学生に、お礼の言葉を伝えたいって言ったら連絡先を教えてくれたんじゃないか?
家に帰ってから、なんだかすごく後悔がつのってきた。
貼り紙なんかしちゃいけないのはわかってるけど、感謝の気持ちを伝える手段がほかに浮かばなかった。
書いたあとに、何年生の子かも知らないから、漢字が読めないかも、とフリガナをつけた。
夫に貼り紙を見せると、
「一番最後、えらい上から目線やな。スマホ落としたくせに何を言うとんや」
と笑われた。
貼り紙は、毎日様子を見に行って、一週間くらいしたら自分ではがそうと思っていたけれど、翌日行ったらもうなくなっていた。
「どうせ、あの管理人の無愛想ジジイにはがされたんやわ」
と私がガッカリして愚痴ると、
「違う違う、きっと拾ってくれた小学生が読んで、はがして持って行ったんや」
と夫は言った。
そうだったら、いいけど。
どうせわからないから、そう思っておく。
いいことをしたあなたに、幸せが訪れますように。
きっと素敵な大人になると思うよ。