3歩前のことを忘れる女のサブカルと介護の記録

神戸に住む40代波野なみ松の、育児と趣味と要介護両親の対応に追われる日々の記録。

1111はボタン記念日

11月に入ってからのサトイモの成長が目覚ましい。

明らかに次の段階に進んだなというか、新しいサトイモになった感がある。

半分動物みたいだったのが、ようやく人間らしくなった。

 

それはやっぱり、言葉でコミュニケーションが取れるようになったのが大きい。

 

まだまだ発音があいまいで、昨日だって、

「あっしー、あっしー」

と言うので、

「足?」

「あしない!」

「箸?」

「はしない!」

とさっぱり正解がわからない。

まさかバブル期のメッシーくんアッシーくんのアッシーじゃあるまい。

何度も何度も

「あっしー!」

と言われて、ようやく、

「タクシー!」

と理解できた。

そうか、タクシーが通ったことを言いたかったのか。

わかった頃にはとっくに通り過ぎちゃったけど。

 

こんなふうに毎回言葉あてクイズをやっているような会話でも、やりとりができるのは楽しい。

世間でよく、2,3歳を、「一番かわいい盛りだね」なんて言うけれど、それがよくわかる。

しゃべれもしない、動きもしない赤ん坊の頃なんて、たいして可愛くはない。

当時うちの子は特別キレイな顔をしていると思っていたけれど、今写真を見たらよその赤ちゃんと何ら変わりないおサルさんである。

1歳の頃でさえ、髪の毛がなくて、笑っても歯抜けで、あごはよだれまみれで、

「なるほど、オムツCMのモデルさんこそが特別なんだな」

とようやく今流行りの「総合的、俯瞰的」に理解できるようになった。

 

たどたどしくても一生懸命言葉で伝えようとしてくれる姿勢に笑顔になるし、不安定な音程で歌う歌、小さな手をぎこちなく動かす手遊びも愛らしい。

昨日はお風呂で「いとまき」をやった。

♪いとまきまき いとまきまき

♪ひいて ひいて とんとんとん

♪できた できた  〇〇の△△ 

〇〇の△△のところは、好きなものを作るのだけど、

「何を作る?」

と尋ねると、

サトイモのぼうし」

と言うので、まずはサトイモのぼうしを作った。

すると、

「パパぶんも!」

というので、次は「パパのぼうし」を。

当然そのあとは、

「ママぶん!」

と私の分も作ろうとしてくれるのだけど、私が一緒に歌うと、

「じぶんで!」

と一人で歌おうとする。

「一緒に歌うくらいええやんか」

と言っても頑として譲らない。

「じぶんで!」

私の分は一人で歌いきって、最後、できあがった空気の帽子を私にかぶせてくれた。

 

「おうちイヤ」病の次は「じぶんで」病

しばらく私を悩ませたサトイモの「おうちイヤ」病がようやく治まった。

一旦外に出ると家に帰ってくれないのが本当につらかったので、そこから脱出できて子育てがすごく楽になったように感じる。

しかし、次のフェーズである。

今は「じぶんで」病が流行中だ。

「おうちイヤ」病よりはよほどマシだけれど、これもこちら側の忍耐が試される。

 

先週は幼稚園の遠足で淡路島へミカン狩りに行ったのだけど、自分でハサミで切りたくてダダをこねるから困った。

普段、広告の紙をハサミで切る遊びが好きで、それは見守りながら自由にやらせているけれど、ミカンの木の枝では広告と勝手が違う。

全然違う枝や葉っぱを切ろうとしたり、私がサポートしようとすると気に入らなかったりで、一向にミカンが取れない。

しかも山の畑をハサミを持って走られた日にゃ、𠮟りつけてハサミを取り上げてもしかたあるまい。

楽しい遠足が、一転して親子のバトルになってしまった。

ほかの子はみんなママの言うことをきいて一緒にミカンを取っているのに、なんでこうなっちゃうんだろう、としょんぼり。

 

もちろん、「じぶんで」病は良い面のほうが大きくて、昨日のお風呂上りは自分でパジャマを着ると言って、頑として私の手伝いを拒否した。

大きめのボタンだけれど、まだまだ全部自分でやるには難しい。

「せめて一番上のボタンはママにやらせて」

と頼んだけれど、

「イヤ!じぶんで!」

といってきかなかった。

下から順にとめていく。

「じぶんで!じぶんで!」

やはり、上になればなるほど、見えずらくなるので留めるのに時間がかかった。

「がんばれ!がんばれ!」

私はすることがないので、声援を送る。

最後のボタンを留められたときには、私も、

「やったー!」

と歓声を上げ、抱き合って喜んだ。

サトイモも満面の笑み。

「パパ!」

「帰ってきたらパパに報告しとく!」

「ばあば!」

「ばあばにも言う!」

「じいじ!」

「じいじにも言っとこう!きっとほめてくれるよ!」

生まれてきて2年7カ月、「達成感」というものをサトイモは感じるようになってきた。

 

理想と現実のギャップまでも

遊びも変化してきた。

サトイモはよく花札をオモチャにしていたのだけれど、これまでは札を狭い隙間に出し入れしてみたり箱に入れたりと、札を物理的な物としてしか遊べなかった。

最近、ようやく絵の内容を認識しはじめ、「同じもの」を集めることができるようになった。

もう一つ持っているカードゲームは夫がKLMの機内でもらってきたものなのだけれど、全く同じ絵柄のカードが2枚あり、それを合わせるものだ。

小学生くらいだと全部裏を向けて当てっこして遊ぶのだろうけれど、サトイモは全部表向きで同じものを探す。

全く同じだと、これまでも十分に見つけて遊ぶことができたのだけれど、花札は事情が違う。

同じ種類だけれど、同じ絵柄ではない。

それが突然、「同じ種類の花」というのがわかるようになった。

口に出しては言わないけれど、サトイモの「あっ!わかった!」がわかった。

「そうそう!これとこれは同じボタンの花だね。ちょうちょがいるだけの違いだね!」

なんだか私も軽い感動を覚えた。

 

それと同じくして、学研のニューブロックというブロック遊びも作るものがうまくなってきた。

ある夕方、私がキッチンで夕食の準備をしていたとき、サトイモはずっとニューブロックで遊んでいた。

突然、キャー!と悲鳴を上げて泣き出したので、びっくりして飛んでいき、

「どうしたん?」

と声をかけると、

「むりー!」

と言って泣いている。

どうやら、思ったようにできなくて泣いているのだった。

見ると、ブロックでカーキャリアのようなものを作っている。


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以前よりはよっぽどうまく作れているので、

「ママには上手に作れているように見えるよ。もう一回やってごらん」

となだめると、

「じょうずない!へたくそ!」

と言ってさらに泣きじゃくった。

 

感動した。

小泉元総理のように感動した。

 

自分が下手だと感じている、ということは、こうありたいという理想がある表れである。

この小さな子がすでに、

「こんなふうに作りたいのに自分は至らない!技術不足だ!」

と感じているのだなぁ、と思うとひどく愛しくなった。

そのうえ、私が上手だとほめることが余計に悔しかったということも興味深かった。

「自分はまだまだこんなもんじゃ終われない!なめてもらっちゃ困る!もっと上へ行く!」

という気概も感じられるじゃないか。

たかがブロック遊びで買いかぶりすぎかもしれないけれど。

 

と、ひとしきりほめたところで、ほめられない「じぶんで」もある。

今朝幼稚園へ行く準備をしていても、「じぶんで」と言いながら一向に手が動かない。

それどころか、

「おっきイヤ、もっとねんね!だっこ!」

と言ってグズグズする。

そのくせ、私が着替えさせようとすると、

「じぶんで!」

と怒る。

しばらくやり取りが続くと、

「自分でしないからママがしてるんでしょう!手伝われるのが嫌ならさっさと自分でやりなさい!」

とこっちもイライラしてしまった。

 

あれれ、こんなやり取り、中学生でもありそうだな…。

三つ子の魂百までというけれど、こんな朝のやり取りは今後サトイモが家を出るまで、16年近く続くのではあるまいか。

ゾッとする…。